フライディと私シリーズ第一作
目を開けた時、目の前にあったのは髭だらけの顔だった。その顔は私を見てにっと笑った。
私はかすれた悲鳴をあげながら、這うようにしてその場を逃れた。相手はその場を動かなかったのだけど、私は逃げるのに必死で気付かなかった。そして私の逃走は、目の前に海が広がっていることに気付いて砂浜で動けなくなるまで、ほんの数メートルしか続かなかった。
「残念だけど、その先は行き止まりなんだ」
さっきの場所から私の背中に向かって彼が話しかけた。ゆっくりした分かりやすい喋り方だった。
「僕の言葉、分かる?」
私はまだ返事もできず呆然としたままだった。
それから彼はおそらく同じことを違う言葉で何度か繰り返したんだと思う。彼があきらめて黙ってから、ずいぶん経ってようやく私が口にできたのはたったの二言だった。
「ここ、どこ?」
「いわゆる無人島だよ」
それが、フライディとの出会いだった。
とりあえず浜辺に生えた木の影にと促され、ここに来るまでのことを説明した。
「初めてのダイビングで上手く潜れなくて、浮上したけど船が見つからなかったの。BC(浮力調整装置)で浮いてたんだけど、そのまま漂流して」
「バディは何してたんだ」
彼が顔をしかめた。ダイビング経験者らしい。
どこの誰かも分からないけど一つでも共通点があったことで、見た目はともかくおかしな人じゃないんだと少し安心した。
「私はインストラクターがバディだったの。でも他の人のエアの調子が悪くてそっちに行っちゃった」
「ひどいな。でも一人でよくここまで辿りついたね。君は幸運の星の下に生まれたんだね」
「幸運っ!?」
「怪我をしてる様子もないし、この島は真水も食料も避難所もある。おまけに先住者の僕がいるから寂しくない。ちょっと考えられないくらいラッキーじゃない?」
そう言った彼を改めてまじまじと見直した。彼は自分のことを先住者と言った。
「あなたはどうしてここにいるの?」
「僕も君の次くらいに幸運らしくてね。軍の訓練中の事故でこの島にしばらく前にたどり着いた。歓迎するよ、ミズ・クルーソー」
「……私達、これからずっとここに住むの?」
そう言った時の私は多分ひどい顔をしていたんだと思う。彼はむずかる子どもをあやす時に大人がよくするような、大げさな笑顔を見せた。
「この群島には確かに島がたくさんあるけど、捜索隊だって出てる。きっと一ヶ月もすれば誰かが僕らを見つけてくれると思うよ」
私はそれを聞いて泣いた。泣き出したら途中から自分でも理由が分からなくなった。彼は我慢強く私が泣き止むのを待ってくれた。
私が時々しゃくりあげるくらいまで落ち着いたところで、彼が髭面に似合わない気取った口調で言った。
「そろそろ『ホテル・無人島』へご案内しましょう、ミズ・クルーソー」
「どうして私のことミズ・クルーソーって呼ぶの?」
「よそよそしい感じが嫌? じゃあロビンって呼ぶよ」
今度はいきなり親しげな口調になった。
彼の喋り方は初めて会った時から、いつもふざけてるみたいだった。私はからかわれている気がして何とはなしにむっとして、少し冷たく答えた。
「あなたは?」
「フライディ」
「変わった名前ね」
彼は私のことをしばらく黙って見つめてから言った。
「おかしいと思ってたんだ。もしかして『ロビンソン・クルーソー』読んだことないの?」
「ない」
「……貸してあげたいけどあいにく持ってくるのを忘れてね。家に帰ったらぜひ読んでごらん。君がどんなにラッキーなのか実感できると思うから」
家に帰ったら。家に帰ったら! その言葉に止まっていた涙がまたぶりかえしてきた。フライディは黙って前に立って、私を『ホテル・無人島』へ案内してくれた。
海からなんとなく道らしきものが続いていた。その行き止まりにホラーハウスのような廃墟があった。
「ここがおそらく島で唯一の人類の痕跡。そして唯一のシェルターだ」
「ここ、何なの?」
足が進まなくなってしまった私を振り向いたフライディは、大げさな手振りで廃墟とその周りを示してみせた。
「ホテルだよ。ほら、ウェルカムフルーツはもぎ放題だ。建物の中は虫が多いけど、まあ嵐の日にはあんまり文句も言えないからね。一ヶ月過ごすにはちょっとアクティビティがなくて退屈だけど、宿泊費の請求はないと思うよ。フロントマンも留守にしてるみたいだし」
「ねえ、フライディ」
「何だい?」
「なんでそうやってふざけた喋り方するの? 普通に喋ってよ」
「いや、喋り方を忘れてるんじゃないかと心配でつい喋りすぎちゃうんだよ」
私はやっぱりからかわれているような気がしてまた少し不機嫌になった。
今考えるとフライディは本当に他人と喋る喋り方を忘れていたのだと思う。多分ずっとああやって状況を笑い飛ばしてふざけながら、一人の時間を過ごしていたんだろう。
「とりあえずウェットスーツは脱いで、ディナー用にお召し替えなさって下さい、お嬢様」
フライディはそう言って、うやうやしくおじぎをした。
下にブッシュガードを着ていて良かった、そう思いながら私はウェットスーツを脱いだ。首の上、スーツから出ていた場所がひりひりした。
「雨水槽があるからとりあえず真水が飲める。毒見は僕がしておいた。フルーツは自分で採って食べててくれ。僕は海に貝を掘りに行ってくるけど、一人で大丈夫?」
フライディは、私の顔を見て付け足した。
「僕がいない間に真水で体と水着、洗っておいたら」
そう言われたら、心細いとはいえ急に一人の時間も欲しくなってきた。
「時計ある?」
頷いて腕にしたクロノグラフを見せた。フライディも自分の腕時計を出し、二人で時間が合っていることを確かめた。
「1時間で帰ってくる。何かあったらさっきの海岸においで」
フライディはそう言って、私を残していなくなってしまった。
私はフライディの残した何かの容器に水を入れてまず存分に喉をうるおすと、頭から何度もかぶった。頭の上だけずっと海の上に出ていたので日焼けで痛い。水着とブッシュガードにも水をかけて砂を落とし、冷たかったけど濡れたままでまた着込んだ。
どうしてこんなとこにいるんだろう、私。まだ夢の中の出来事のようだった。体もまだ海の中にいるみたいにふわふわしてる。
学校の夏休みに友達と来た旅行だった。ダイビングのライセンスは皆取ったばかりだった。一緒に来た友達の顔を思い出してまたじわっと涙が出てきた。きっと皆心配してるだろうな。お父さんお母さんも心配してるだろうな。
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