010◆チップとキャット(直接ジャンプ ) シリーズ目次 サイトトップ
 
4.
「チップ!」
 二人の声が重なった。チップがにっこりと微笑んだ。
「廊下まで聞こえたよ。恋人といるのに違う男の話なんかするなよ、ベス。エドが妬くよ」
「あなたはそういうことに関してエキスパートですものね」
 ベスの嫌味を聞き流してチップが訊いた。
「キャットは?」
「あなたとは会わせません」
「まだ熱が高いの?」
「何で熱出したって知ってるの?」
「さっき案内してもらった時に聞いた。ちょっと様子を見てくる」
「駄目っ!」
 ベスは部屋を出ようとするチップの腕を掴んで止めた。
「キャットが自分からあなたに会いたいって言うまで、キャットには会わせない」
「ベス?」
「キャットは会いたがってなかったもの。知ってるでしょ? 昨日だってあなたに会いたくなくて逃げ出したじゃない」
 チップは溜息をついた。
「今は君と言い争う時間はないから帰る。……あとでまた来る。もしキャットが起きたら僕が心配してたって言って、また来るって伝えて」
「伝えるかどうか分からないわよ」
 ベスが脅すようにそう言ったが、チップは軽く笑った。
「君はそこまで意地悪じゃない。じゃあね」
 
 チップがそう言ってきびすを返し、廊下を出口に向かって行った。ベスが肩に力を入れたままドアの前で立ち尽くしていたので、先ほどは口が挟めなかったエドがようやく自分の出番だとばかりに立ち上がってベスをソファへ促し座らせた。
「やっぱりチップのことは大嫌い」
「エリザベス」
「どうしていつもいつもいつも、あんな風に自分は何でも分かってるって顔してるのよ」
「エリザベス」
「私のことだって何にも知らないくせに、偉そうに!」
「エリス!」
 エドがベスの肩に手をかけて、自分の方に向き直らせた。
「チップが言ってたことは本当だよ。あんまり僕の前でチップの話ばっかりしないで」
「エド?」
 驚いて眉を上げたベスに、エドが少し強引なキスをした。ベスはしばらくはまだ怒りの余韻で体に力が入っていたが、エドの一生懸命なキスに段々に気持ちと体が和らいできた。
「ごめんなさい、エド」
 そう言ったベスが肩に寄り添って、エドもやっと機嫌を直した。それから恐る恐る自分の意見を口にした。
「ねえ、エリザベス。やっぱりチップはキャットのことが大切なんじゃないかな。そうじゃなきゃわざわざちょっとの間にキャットの様子を見に来ないと思うんだけど」
 ベスの体がまた固くなった。
「だから? チップは浮気なんかしたことないとでも?」
「……エリス、ごめん」
 エドは兄の弁護をあきらめて、恋人に逆らうのはやめることにした。
 
 キャットが目を覚ました後、ベスはチップに腹を立てながらも律儀にチップが言ったことを伝えた。そして夜になってふたたびチップが現れた。ベスが取次ぎに行き、戻ってきてチップに言った。
「キャットは会いたくないんですって」
「どうして?」
「さあね。あなたの博愛主義を目の当たりにしたショックかも。私もあなたとキャットを会わせる気はないわ。どういうことだか納得のいく説明ができるのなら、弁解してみなさいよ」
 そう言ったベスに、チップが形ばかり微笑んで言った。
「君を納得させるために、何故キャットも聞いてない話を彼女より先に君にしなくちゃいけないんだよ」
 チップはそう言ってベスの返事も待たずにきびすを返した。ベスはチップを呼び止めようと思ったが、もうひとこと余計なことを言ったら本気でチップを怒らせそうだと感じて、チップの背中にどうしても声がかけられなかった。
 
 一方キャットは、会いたくないと断ったもののチップの姿が一目でも見られないかと石造りのバルコニーの手すりの間から玄関のあたりを覗いていた。
 その目の前に、いきなりチップが現れた。
「ひゃっ」
 声にならない悲鳴を上げて、キャットはその場に座り込んで後ずさりした。チップが身軽に手すりを乗り越え、座り込んだキャットのすぐ前に立ち、そのまま彼女に上から被さるようにして言った。
「ロビン、いい加減にしてくれ。何で携帯まで切ってるんだよ」
「わかんないっ!」
「怒ってるとか、別れたいとか、何でもいいから僕から逃げてる理由を言えよ!」
「わかんないってばっ!」
「バルコニーからパジャマで覗き見なんて子どもじゃあるまいし!」
「子どもだもんっ!」
 チップは一瞬キャットを見つめ、それから高らかに笑い出した。
「そうだ、君は子どもだ……いつも僕はそう言ってるのに、こんな時だけ子どもじゃないって言うのはフェアじゃないな、確かに君の言うとおりだ」
 チップは笑いながらそう言ってから、キャットの前に膝を着いて顔を覗き込んで続けた。
「でもお願いだ、ロビン。黙って逃げないで何でもいいから思ってること全部言ってくれ。但しもし別れたいって言われても僕は全力で引き止めるよ」
「私……別れるなんて嫌だよ」
 チップは目の前で泣き出したキャットに両手を伸ばし、抱きすくめた。
「僕だってそうだよ。落ちたら骨を折りそうな壁を、わざわざ君に振られに登ってくると思うのか?」
 キャットがぎゅうっと恋人にしがみついた。恋人もしっかりと抱き返してくれた。
「そんな姿じゃまた熱が上がるよ」
 そう言ってチップがパジャマ姿のキャットを抱き上げて窓を開け、ベッドにキャットを寝かせ自分はベッドに腰かけた。二人は無言で見つめあった。口を開いたのはチップが先だった。
「会いたかった」
 チップが笑顔でそう言うと、キャットが不意に顔を歪めた。
「ふえーん」
 声を上げて泣き出したキャットを、チップがシーツごとしっかりと抱きしめた。
「ロビン、ロビン、僕はまだ君の恋人でいさせてもらえるの?」
 チップのシャツを濡らしながらキャットがチップの言葉に頷いた。それから顔を上げた。
「ねえ、フライディ。あの人とキスした?」
「君はどう思う?」
「わかんない。し……てない?」
 キャットの言葉に、チップが澄まして言い出した。
「経験上ああいう時は素直に受けた方がその場を納めやすい」 
 一瞬また泣き出しそうな顔をしたキャットの鼻の頭に軽いキスをしてから、チップが続けた。
「でも君とした後で他の人とする気にならなくて。あきらめてくれないからどう言い抜けようかと思ったら、タイミングよくベスが来てくれたおかげで全部うやむやにできた」
「どうしてあの時そう言わなかったの?」
「あの手の女性は恥をかかせると後がやっかいなんだよ。とりあえずあの場では皆に目撃されたことで満足してたみたいだしね。君に心配をかけてすまない」
「でもフライディは誰とでもキスできるんでしょ?」
「昔はね。今は逃げ出した恋人にしかしたくないけど」
 そう言って、チップが荒っぽいキスをした。本当にこの数日キャットと連絡を取れないことや、公務を放り出せないことや、ベスが立ちふさがることや、全てに腹を立てていたのだ。でもキスを終えた時には、チップの苛立ちはほぼ治まっていた。
 長いキスの後で、ロビンがいいわけをした。
「……私ね、ほんとにしてないって思ってたよ」
「そう?」
「だってフライディはキスする時こうするでしょ」
 本当にそう思っていたと主張するわりに、見るからに元気になったキャットがそう付け加えて自分の手をチップの頬に添えた。チップは笑って彼女の手をとると、手のひらにキスをした。
「そう言えるだけの経験を君が持っててよかった。そう、あれは迫られてるのを止めてただけ。キスするときに肩に手をかけるのなんて、ティーンエイジの男の子か僕の不器用な弟くらいだよ」
 そう言ってチップが含み笑いをした。
「まあベスはエドで不満がないらしいから構わないけどさ。君も試してみる?」
 そう言ってチップがキャットの両肩に手をかけてキスしようと迫ったので、キャットは声を上げて笑いながらキスを避けた。
 
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