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024◆チンクエチェントと犬
(現代・日本・10代女×20代男/原稿用紙12枚)
※既存テキスト「隣の犬」(R15)を書く時に書いたもう一つの「隣の犬」です。登場人物も違う全く別の話ですが一部設定がかぶっています。ご了承下さい。
 
 
 ――チンクエチェント。そんな呪文のような名前の車がある。最初はなかなか覚えられなくて何度も間違えた、小さい頃に見た映画に出てきた可愛い車の名前。
 大きくなったら運転免許を取って、チンクエチェントに乗ろうと決めていた。一緒に見ていた幼馴染にも家族にもそう宣言してあった。
 
 ところが実際に教習所に通い始めると、中古の左ハンドルの車なんて危ないし無理だといきなり家族が反対をはじめた。そしてお父さんが知り合いに電話をし、私の車はありふれた日産マーチになった。
 良く晴れた大安の土曜日の午後。車を届けてくれた営業さんから鍵を貰って説明をひととおり聞いて、お礼を言ってご祝儀を渡し(お父さんがそういうものだと言うので用意した)、マーチは私だけの車になった。思ってたのとは違ったけど、前から見たところはほんのちょっとだけチンクエチェントに似ているような気もする。
「お母さん、ちょっとドライブしてくる」
「今から? どこまで?」
「決めてない」
「一人で行くの? 何かあったらいけないからシロちゃん借りていきなさい、番犬にもなるし」
「借りてって……シロちゃん犬じゃないし」
「大丈夫よ、道子さんもそうしなさいって言ってたもの」
 道子さんというのはシロちゃんのお母さんだ。もちろんシロちゃんは犬じゃなくて、隣に住む二歳上の幼馴染だ。と言ってもここ5年くらいは挨拶以上の会話はない。多分お母さんの方が普段よく会話をしている。お母さんはさっそくエプロンのポケットから携帯を取り出すと、シロちゃんのお母さんに電話をした。
 
 お母さんのリピートする『気をつけなさい』から逃げ出して車に乗って待っていたら、Tシャツにジーンズといういつもの格好でシロちゃんが現れた。シロちゃんが助手席に乗り込んでシートベルトをかけたのを確認してから走り出した。
 
「どこまで行くの?」
「海」
「道分かる?」
「ナビで多分」 
「使い方分かる? 砂浜がいいの? 埠頭の方が近いけど」
 そう言ってシロちゃんはカーナビを勝手に操作して、目的地を決めてしまった。
 
 私の車なのに。私の初めてのドライブなのに。目的地だって、本当は自分で決めて行きたかったのに。
 
「どうした? 怖かったら運転代わろうか」
「平気」
 
 シロちゃんは優しい。悪いのは全部お母さんだ。お母さんはいつも私を心配して子ども扱いする。私は一人っ子だからお母さんの心配はいつまで経っても私一人に向けられる。そしてお母さんがついて来られない時、お母さんは自分の代わりにシロちゃんを連れて行けという。小学校の入学式翌日からシロちゃんが卒業するまで4年間、シロちゃんは私を小学校まで連れて行ってくれた。中学で一年だけ一緒になったけどここ5年は付き合いも途絶えていたのに、わかばマークの私に付き合って隣に乗ってくれてるのはシロちゃんが親切だからというだけじゃなく、お母さんがいつもシロちゃんを頼るせいだ。
 
 埠頭の近くで車を止めた。周囲は倉庫と工場で、休みなのか人通りはなかった。他にも数台の車が止まっていた。堤防の向こう側、テトラポットの上には釣りをする人の姿があった。
「ここは駐車場じゃないから、隣の車にくっつけて停めなくて大丈夫だよ」
「うん」
 他の車とだいたい等間隔になるように、隣の車と少し離れた場所に車を止めた。エンジンを切ったら急に辺りが静かになった。
「何か飲み物買ってこようか」
「飲み物?」
 シロちゃんが言うには少し先に自動販売機があるらしい。シロちゃんがシートベルトを外し、ドアを開けて出て行った。私はほっと息をついてハンドルを抱くようにした。
 
 誰かの知ってる埠頭に案内されて、知ってる自動販売機で飲み物を買ってきてもらう、そんなの本当は私が夢見てたドライブじゃない。本当は砂浜に行きたかった。ナビだって自分で使い方を覚えて設定したいし、運転だってそりゃあ最初は下手かもしれないけど一人でたくさん練習して皆がびっくりするくらい上手になるつもりだった。本当は古い映画と同じ左ハンドルのチンクエチェントに乗りたかった。
 色々思うとおりにならなかったことが積み重なって、不意に胸にこみ上げてきた。子どもみたいだと思ったけど、しゃくりあげたら止まらなくなった。
 
「亜紀?」
 戻ってきたシロちゃんがびっくりしたように私の名前を呼んだ。
「どうした? やっぱり怖かったのか?」
「ちがう」
「具合悪い?」
「ちがう」
「もしかして失恋とか、したの?」
「全然ちがうっ。本当はチンクエチェントで来たかった。本当は一人で来たかった。全部一人でやりたかった」
 泣きながら私がそう言うと、シロちゃんが静かに息を吐いて言った。
――ごめん、ついてきて」
 シロちゃんの謝罪に罪悪感が募った。なんだかもう涙が全然止まらなくなった。
「シロちゃんのせいじゃない。シロちゃんは優しいから断れなかっただけだもん。お母さんがいけないの。シロちゃんのこと番犬とかいって」
「俺、番犬じゃないよ」
 シロちゃんが傷ついた顔をした。それから急に私の左手をハンドルからはがすようにして引いた。反射的に抗った私を今度は押さえ込むようにして、シロちゃんが言った。
「犬じゃなくて狼だよ。下心あるし」
 シロちゃんがちょっと怖い顔をして、私を見つめたままゆっくり顔を近づけてきた。たぶん私が顔を背けたり、目を逸らしたりすれば、シロちゃんはやめてくれるだろうと思った。私はそうする代わりに、目を閉じて顎を少し上げた。ためらうように唇が触れた、一度離れて、もう一度今度は押し付けるように唇が重なった。
「俺が断らなかったのはおばさんに頼まれたからじゃなくて、亜紀と一緒にいたかったからだよ」
 言葉が――言葉だけじゃなく涙も出なくなった私に、シロちゃんが怒ったようにそう言った。そして私の返事を待たずに抱きしめた。
「亜紀、好きだ」
 体が震えた。
……ほんとに?」
「好きだ」
 きっぱりと答えたシロちゃんから、懐かしいシロちゃん家の洗濯物のいい匂いがした。
「わたしも」
 小さな声で答えると、シロちゃんがぎゅっと抱きしめてくれた。シャツ越しにシロちゃんの心臓の音がドクドクと響いた。
「亜紀に嫌いって言われたらどうしようかと思ってた。中学くらいから、亜紀、俺とあんまり話しなくなっただろう。好きとか言ったら迷惑かと思ってずっと言えなかった」
 
 かっと体が熱くなった。あれは中学一年の時だった。家に遊びに来た友達が、アルバムを見てシロちゃんの写真を欲しいと言った。『先輩が好きな人だから』と。
 アルバムから写真を抜いたりしたらお母さんに怒られるからって断ったら、本当はシロちゃんのことが好きなんじゃないかと問い詰められた。
「そんなことないよ、小さい頃から知ってるし」
「そうだよね、幼馴染ってなんか近親相姦っぽいよね」
 ――そう言われた時、胸がずきっと痛んだのに笑って頷いてしまったことで、後ですごく自分が嫌になった。でもあの頃の私にとっては好きな人を好きって言うことより、友達におかしいと思われないことの方がずっと大切だった。
 それから私は、シロちゃんとあまり話をしなくなった。
 隣に住んでいると言ってももう外で遊ぶ歳でもなかったし、シロちゃんは受験で忙しかったから、話をしなくなったらそのままそれが普通になってしまった。
 
「ともだちに……近親相姦っぽいって言われたの。それで、シロちゃんを好きだって誰にも言えなかった」
 あの時のことがずっと心に引っかかっていた。シロちゃん本人は知らないことだけど、自分の気持ちを否定したことがシロちゃんそのものを否定したみたいで、ずっと気にかかっていた。
 シロちゃんが何故かごくりと喉を鳴らした。
 
「近親……って、亜紀、今もそう思ってる?」
「えっ?」
「そういうこと抵抗ある?」
 そういうことって……そういうこと? 不意にシロちゃんとキスをしたこと、今まさにシロちゃんの腕の中にいることの意味を悟った。つまり、もしかして私はいつかシロちゃんと――
……
 シロちゃんのシャツに顔を埋めて言った言葉は、シロちゃんには聞こえなかったらしい。シロちゃんが私の背中に回した腕を肩にかけて、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「シロちゃんがいい。近親相姦っぽくてもいい」
 シロちゃんが、真っ赤になった私を隠すように抱きしめてくれた。
 
 帰りも私が運転した。この車はやっぱり自分で運転したい。
「ハンドルを握ってる亜紀、格好いい」
「本当?」
「うん。教習所で教わるのと本当に道を走るのって違うから、ほんとに一人はもうちょっと慣れてからの方がいいけど。亜紀がやじゃなかったら、また隣に乗せて。犬でいいから」
 犬じゃないって言った時のシロちゃんはきっと傷ついていたのに。 ちょうど信号が黄色だったので停止線で止まり、横に乗ったシロちゃんがどんな顔してるのか確かめた。
 
「そうじゃないと二人で出かけられなくなりそうだから」
 
 ――そう言ったシロちゃんの笑顔は、どう見ても狼だった。
 
end.(2009/09/16)
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※チンクエチェント(Cinquecento)はイタリアのフィアット社が製造・販売した(している)車の名前です。作中の『映画に出てきた可愛い車』は二代目(1957-1977製造)のことですが、2007年に同じ名前で新型(三代目)が出ています。
――参照「フィアット・500」 (2009, 7月 23). Wikipedia, . Retrieved 17:26, 9月 15, 2009
 
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