フライディと私シリーズ第十二作
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【 IV 】 (直接ジャンプ 12. 13. 14.
 
12.
 電話を切ったキャットは速い足取りで緑のビルを目指し、エレベーターで17階に辿りついた。フロア全体が一つの非営利団体のオフィスだった。エレベーターが開くと、目の前にチップが立って待っていた。 
 エレベーターのドアが開ききる前にキャットは駆け出し、チップの腕の中に飛び込んで泣き出した。チップは黙ったまま優しくキャットを抱きしめた。
 やがて涙に濡れた顔をキャットが上げると、チップはキャットが今いちばん欲しかったキスを与えてくれた。キャットを慰めるように唇だけでなくまぶたに、頬に、髪に、そしてまた唇に。ずいぶん長い間そうしていてから、やっとキャットがほっとしてチップの肩に頭をもたせかけた。チップがその頭を撫でた。
「おいで。何か飲もう。喉が渇いただろう」
 会ってから初めてチップが口を開いた。そのチップに肩を抱かれてキャットは人のいないオフィスに足を踏み入れた。
「誰もいないの?」
「休日だから」
「フライディ、どうしてここにいたの?」
「決裁する書類が溜まっていたから片付けてた」
 君が他の男とデートしていると思ったら部屋でじっとしてられなくて、とはチップは言わなかった。よりによってここに来たのは偶然じゃなくて神の思し召しかもしれない、とも言わなかった。
 
 奥の個室にキャットを案内したチップがキャットをソファに座らせ、ミネラルウォーターの入ったコップを持ってきて前のテーブルに置いた。
「ゾウの子どもは見られた?」
「どうして知ってるの?」
 キャットが驚いて顔を上げた。チップが笑った。
「ニュースになってたからね。君も見にいったんだろう?」
「うん」
「もう中に入っちゃったみたいだね」
 チップが窓の向こうを見ながら言った。
 
13.
「ここから見えるの?」
 キャットを窓際に呼んだチップが、双眼鏡を手渡した。
「軍用の高性能双眼鏡。ナイトビジョン付き」
「わああっ」
 レンズを覗き込んだキャットが歓声を上げた。手で触れられそうなほど鮮明に、さっきまでいた動物園の中がはっきりと見えた。人の顔も見分けられるほど――
「フライディ! これで私のこと見張ってた?」
 チップが笑い出した。
「僕がそんなことすると思ってるの? ここで仕事してたのは偶然だよ。君が動物園に来るなんて聞いてなかったし」
「そっか、そうだよね」
 キャットが恥じ入って赤くなった。
「それでどうだったの、デートは」
 チップに聞かれて、キャットが顔を歪めた。涙を浮かべたキャットを、チップが抱きしめた。くぐもった声でキャットが続けた。
「誘われた時はただのデートだと思ったの。皆がよく行くみたいな気軽なものだと思ったの」
「でもそうじゃなかった?」
「ほんとは誘われた時からもしかしたらって思ってたの。でも変に誤解してたらいけないから、わざとただのデートのつもりで行ったし、そのつもりで過ごしたの。なのにケンね、帰る時……フライディが会いに来た時みたいな笑い方してた。私、何もしてあげられないのに。私はフライディのこと守るって決めたから、他の人にはもう同じようにできないのに。私、行っちゃいけなかったのかな」 
 チップのシャツがまたキャットの涙で濡れた。受け止めきれない思いを抱いた相手に同じものを返せないやるせなさはチップもよく知っていた。最初に話を聞いた時から予想していたことだが、外れて欲しい予想が当たってしまったのはチップにとっても辛いことだった。チップは優しくキャットの頭を撫でた。
「彼だって分かってて誘ったんだ。大丈夫だよ」
「フライディにも分かってたの?」
 キャットがチップの腕の中から見上げて訊いた。チップはこんな時だというのに、そしてキャットの顔はメイクが涙で流れて悲惨なことになっているというのに、またもやキャットの視線の不意打ちをくらった。
 
14.
 力いっぱい抱きしめたい気持ちを抑え、腕の力を入れすぎないように気をつけながらチップがキャットの問いに答えた。
「そうじゃなければいいなと思ってた。君が辛くなるのも分かってたから。でも誰を好きになるかは他人が決められることじゃない。たとえ君が絶対好きにならないでって頼んでも、これからも誰かが君を好きになるのは止められない」
 優しく語りかけていたチップが不意に気持ちを抑えきれなくなった。キャットも辛い思いをするだろうが、チップだって平気なわけじゃないのだ。
「でも、誰が君を好きになっても君が愛するのは僕だけだって言って、ロビン、僕のロビン」
 
 言葉に込められた熱に反応したキャットが体をすりよせ、チップの首に腕を回して自分からキスをした。チップがキスに応えながらキャットを抱き上げ自分の使っているマホガニーのつやのある机に乗せ、引き寄せられるままキャットの上に被さり髪に差し入れた指で首筋までなぞり――自分が何をしようとしているのか危ういところで気付いた。 
 チップが首にからんだキャットの腕を無理やり解いて体を起こした。深く息を吸って、また吐いた。もう一度同じようにしてから必要以上に明るい口調で言った。
「ロビン、撤退だ。外へ出よう。食事に行こう」
 
 キスの途中で放り出されたキャットはひどく裏切られた気分だった。ぎゅっと目を閉じたまま返事をせず、頑なな様子で机にはりついた。
「まず顔を洗っておいで。そのままじゃ動物園から逃げ出してきたと思われるぞ」
 絶対起きるもんかと思っていたキャットは、さっきメイクのことなど忘れて泣きながらチップのシャツに顔をこすりつけたことを突然思い出して飛び起きた。
「化粧室は向こうだよ」
 にこやかに告げるチップを恨みがましくにらんでからキャットが化粧室に向かった。キャットがメイクを直して戻ってくると、チップはもういつもの憎たらしい微笑みを浮かべ、キャットの顔拓つきシャツの上に上着をはおってぱりっとした姿でキャットを迎えた。
 
 キャットはその後もしばらく思い出してはチップの裏切りに怒りを再燃させていたが、完璧なエスコートととびきりの料理、味も姿も芸術的なデザート、その間もずっと続くふざけたおしゃべりにいつまでも不機嫌でいられなくなった。
 やがてキャットは気付いた。――昼間感じたやるせなさが、いつの間にかずいぶん楽になっていた。
 
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