フライディと私シリーズ番外編その7
035◆日没前の一瞬 シリーズ目次 サイトトップ
(現代・外国・日常・20代男×10代女/原稿用紙14枚)
※連作シリーズのためこの作品から読み始めるのはお勧めしません。シリーズ第一作→「フライディと私
「Venerdi」の後日譚になります。
 
 
 年度末試験が終わった。キャットだけでなく全ての学生が待っていた夏休みがきた。キャットはいったん実家に帰り、二週間後に荷物をまとめてフィレンザのところへ旅立った。
 
「キャット!」
「フィレンザ、久しぶり!」
 ルームメイト二人は空港で抱き合って再会を喜んだ。
「荷物、それだけ?」
「うん」
「じゃあそれは兄に頼みましょう。カルロ」
 フィレンザが先ほどから脇に控えていた男性にそう呼びかけた。控えていたというものの、先程からその男性が静かに周囲の注目を集めていたことにキャットは気付いていた。端整な顔立ちとどこか目を惹く立ち姿をしていた。つまり……いかにもフィレンザの兄らしかった。
「こちらが私のルームメイト、キャットよ」
「はじめまして、キャサリンといいます」
「ピアチェーレ、カテリーナ。カルロです」
 カルロはキャットが持って来たキャリーバッグを預かると、先に立って歩き出した。後ににぎやかな二人が続いた。
「一応家族は皆英語が喋れるけど、一番下の弟のはかなり聞き取りにくいと思うから覚悟して」
「大丈夫。私のイタリア語よりはマシだと思うわ」
 キャットはそう言ってにやりとした。キャットのイタリア語学習を邪魔したのは不真面目な個人教授のチップだ。真面目な学習の代わりに『イタリア男に口説かれた時のうまい断り方』だの『手を握られたときの拒否の仕方』だのを役になりきったロールプレイングで教えるのに時間を使いすぎ、肝心の基礎学習の方はほとんど間に合わなかった。
 しかし驚くべきことに、キャットは既にチップから教わった断りのフレーズをいちど口にしていた。航空会社に預けた機内持ち込みできない手荷物の一部を引き取る時に、係員に口説かれたのだ。
(さすがイタリア、と言うか、さすがフライディ)
 どこかしらいつもと違う空気の匂いを確かめるように一息吸ってから、カルロの手を借りてキャットは迎えの車に乗った。初めて訪れたイタリアの景色を車窓から眺めたり、離れていたほんの二週間のささいな出来事をフィレンザと報告しあいながら、白い手袋の運転手が滑るように運転する車でフィレンザの家へと向かった。
 
 チップから話には聞いていたが、フィレンザ達家族が住むパラッツォは素晴らしい宮殿だった。ここに住む二十人ほどのフィレンザの親戚すべてにキャットはカテリーナ(キャサリンのイタリア語読み)と呼ばれて歓迎された。特に食べっぷりの方ではフィレンザの伯父に「カテリーナはイタリア人のように食べる」とお墨付きを貰った。
 
 夕方になるとキャットはよく海を見に散歩に出かけた。高台にある宮殿から海までは遠く、歩いていける距離ではなかったが、オリーブ畑を抜けた先に海がよく見える静かな場所があった。
 今日もキャットは沈む夕日を見ようと歩いてきた。が、先客がいた。石を積んだ低い塀に座る黒髪の男性が気配に振り向いた。
「カルロ」
「カテリーナ」
「あなたも海を見にきたの? ここは素晴らしいところね」
 キャットはそう言ってカルロに近づいた。カルロは立ち上がり、キャットが並んで座れるように場所を少し譲ってくれた。ちょうど夕日がその底を海面につけたところだった。
「君は不思議な人だな、カテリーナ」
 カルロとは最初に空港で会ってから、まだそれほど話をしていなかった。最初は英語があまり得意ではないのかもしれないと思ったが、家族の中でも同じようだったのでもともと無口な性格らしかった。
 意外なことにいつも考え深げにゆっくりと話すと思っていたフィレンザは、母国語では非常に早口だった。普段は頭の中で文章を組み立てながら話していたらしい。以前にチップはフィレンザの早口のイタリア語に口を挟むこともできずにいたが、フィレンザの家族は負けずに同じような早口で応酬していた。キャットが「いつもとは性格まで違ってみえる」と言ったらフィレンザだけでなく家族揃って大笑いしていた。その時もカルロは何も言わなかったが、ただ珍しくにっこりと微笑んだのをキャットは覚えていた。
 
 そんなカルロにいきなり『不思議な人』といわれて、キャットは自分が誉められているのかけなされているのか分からなかった。
「どういう意味でしょう?」
「話し方からみて上流階級ではなさそうだ。でもパラッツォを見ても物怖じしないし、使用人のいる暮らしに慣れているようだ。キッチンでコックにパンの焼き方を教わってたかと思ったら弟と泥だらけで遊んでいるし、パーティーでは淑女らしく振舞う。明るく喋っていたと思ったら、いつの間にかその場からいなくなって一人で海を見ていたりする」
 カルロの話す英語はほんのわずかに異国風のアクセントを感じさせたものの、上流階級の話す英語だった。キャットは少し冷ややかに訊いた。
「いけませんか?」
「いけなくはない。でもそのギャップがすごく――興味深いね」
 そこで言葉を切って、カルロはその黒い瞳でじっとキャットを見つめた。キャットはその視線の意味をもう知っていた。こういう視線に応えたその後に起こる出来事も知っていた。
 
(こんな場所で二人きりで、こんな目で見つめられたら……)
 
 もし本当に大切な相手と先に出会っていなければ、きっと今この場所でキャットはこの人に恋をしていた筈だった。
 
(でももう私はフライディに出会っているから)
 
 その恋が一瞬のものなのかずっと続くものなのかは分からない。でもその恋をのがしたことを、キャットは惜しいと思わなかった。
 
 心の奥を覗くような瞳に惹かれたことは確かだったが、キャットはまつげを伏せる代わりににっこりと微笑み、不真面目な個人教授から教わったイタリア語のフレーズを口にした。
 
 カルロが自分の手で目を隠した。
「何てことだ」
 そのままくすくすと笑い出した。
「誰に教わったの?」
「恋人から」
 
 その返事にまたひとしきり笑ったカルロが、目を上げてキャットに海を指し示した。
「ほら、夕日が沈むよ」
 キャットは夕日の輝きがとろけたように水平線に広がっていくのに見とれた。それはほんの数秒で全て海の底へと沈んでいった。
 キャットが溜息をついた。隣にいたカルロは塀から降りてキャットに手を差し出した。
「足元が暗くなる前に戻ろう」
 カルロの口調にはもうさっきの視線に込められていたものはなかった。キャットは素直に手を借りて塀から立ち上がり、パラッツォへの道を二人で辿った。
 
「お帰りなさい。今夜で最後なんて寂しいわ。必ずまた来るって約束して」
 迎えたフィレンザにキャットは笑って頷いた。
「うん、約束する」
「楽しんでもらえたかしら」
「本当に楽しかったし、ここが大好きになった。招いてくれてありがとう、フィレンザ」
「本当はもっと長くいて欲しかったのだけど……」
 フィレンザが残念そうに言ったが、キャットは柔らかい微笑みを浮かべて少し目を伏せた。
「うん」
 その一言で何か通じたものがあったのだろう、フィレンザがキャットをぎゅっと抱きしめた。
 
 翌日、フィレンザとカルロに空港まで送ってもらったキャットは、フィレンザに付き合ってもらっていかにもな土産物や化粧品などを楽しく選んでいた。そろそろ搭乗手続きが始まる頃、フィレンザに何か告げていなくなったカルロがスーツ姿の男性を連れて戻ってきた。
「もうお買い物はお済みでしょうか。航空券をお預かりします」
 キャットが何のことだろうと理解できないうちに、その男性がさりげなくキャリーケースを持ち上げた。
「こちらもお預かりして宜しいでしょうか」
「なっ、何ですか?」
「VIPサービスを頼んであるから、後は任せていい」
 カルロがキャットにそう告げてエスコートに頷いてみせた。促されるままに航空券とパスポートを差し出したキャットは、呆然として彼の背中を見送った。
 やがて手続きが終わってエスコートが戻ってきた。キャットはフィレンザからはハグつき、カルロからは手の甲へのキスつきの別れの挨拶を受け、エスコートに連れられて外交レーンを通り、フィレンザの故郷を後にした。
 
「夢、みたいだったな」
 
 飛行機の、何故かファーストクラスに変更されたシートの上でキャットはひとりつぶやいた。
 パラッツォのひんやりとした朝、猫足のバスタブ、二十人もいる親戚、毎回一時間以上かかるにぎやかな食事、音楽のような異国の言葉、それにあの澄んだ海の色、沈む夕日の色、黒い瞳……
 
 やがて飛行機はキャットの地元の空港に着陸し、空気を震わせてハッチが開いた。イタリアから運ばれてきた空気と外の空気が混ざり合い、キャットはカテリーナからキャサリンに戻り、夢から現実に戻ってきた。
 
 思い出の詰まったキャリーケースを引いてゲートを出ると、見慣れた笑顔があった。
「フライディ!」
「おかえり、ロビン」
 キャットは用心も忘れて荷物をそこに置いたまま走り出し、チップの腕の中に飛び込んだ。
「会いたかった」
「僕もだ」
 その場でしっかりと抱き合ってキスを交わす若い恋人達を、周囲は無関心に、または微笑みながら避けていった。
「イタリア男に口説かれなかった?」
「それが! 本当に口説かれたよ!」
 チップが顔をしかめた。
「やっぱり心配してたとおりだ。一人で行かせるんじゃなかった。シャペロン(未婚女性の付添い役)は現代にも必要だと思うんだ」
「何言ってるのよ、フライディ」
 キャットはけらけらと笑った。キャット自身も行き帰りだけとはいえ初めての一人旅だったので少し緊張していたのは事実だけれど、チップはちょっと過保護すぎるんじゃないかと思った。帰りの便名は教えたが出迎えを頼んだ覚えもなかった。この空港からキャットの実家までは30分とかからない。チップが2時間以上かけて隣国から来る必要などなかった……会いたいという理由以外には。
「行く時には何も言ってなかったくせに」
 キャットが幸せそうな目つきでチップを見上げると、何故かチップは目をそらした。
「君が楽しみにしてたし、キャリーバッグひとつで友達の家に遊びに行けるのも、そう長い間のことじゃないし」
 
 じわじわとキャットにも言葉の意味が沁みこんでいった。いつかそのうちキャットも、あのVIPサービスを眉ひとつ動かさずに受けるようになるのだろう。
「フライディ、大好き」
 キャットは恋人の体に回したままだった腕に力を込めてぎゅっと抱きついた。一瞬息ができないほど強く抱き返され、幸せで眩暈がした。
 すぐに力を抜いて、いつもの余裕ある微笑みを浮かべたチップがキャットを見下ろした。
「これから君をさらうつもりだけど、いいかな」
「駄目って言ったらどうするの?」
「言わないよ」
 その自信たっぷりな笑顔の奥に、あの時カルロから感じたのと同じ熱を感じたキャットがふっと微笑んだ。
 
 いきなりチップが顔をしかめた。
「今、誰か別の奴のこと考えただろう」
――なんでわかったのっ!?」
 口を押さえる暇もなくキャットの口から言葉が飛び出していた。チップが感じの悪い微笑を浮かべた。
「これはどうしたって帰すわけにはいかないな。ゆっくり話を聞かせてもらおうか」
「なんにもないよ、何もない」
「当たり前だよ。あってたまるか」
 しっかりと手をつないで出口に向かいながら言い争う恋人達を、周囲は無関心に、または微笑みながら見送った。
 
end.(2010/02/22)
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