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057◆王太子の結婚(3rd.セメスター・III)(101112131415)
 
【 7 】
 
 奥から聖堂内にざわめきが広がった。人々がそちらに視線を向けると、大司教と司教達が入堂し、祭壇の前に並ぶところだった。
 そのざわめきはパイプオルガンの演奏が始まると同時にぴたりと止んだ。オルガンのリードに聖歌隊の澄んだ声が重なった。
 
 今度は皆が期待を込めて入口側へ顔を向けた。まず新郎の付き添いのベネディクト王子が、新婦の付き添いモリーンと腕を組んで姿を現した。王子はフルコートドレスと呼ばれる正装で、肩に王族だけに贈られる大綬を佩し落ち着いた足取りで祭壇の前へ進んだ。
「ベアータ・テ!(うらやましい)」
 フィレンザが思わずといった感じのつぶやきをもらした。もちろんモリーンに向けられたものだ。同じ気持ちの女性達のつぶやきが重なった。
 
 続いて付き添いと同じ、大綬を佩した王太子アーサーが、白いベールを降ろした花嫁と腕を組んで、賛美歌にあわせてゆっくりと歩いてきた。
 王太子の正装はいつもどおり立派で、特に言うべき点はない。やはり注目されたのは、この日一日しか見ることができない花嫁の晴れ姿だった。今日までどんなデザインなのか、さまざまに予想されてきたウエディングドレスがとうとうお披露目された。
 
 純白のサテンを使ったボディ部分には、見事な刺繍が全体に施されていた。襟ぐりは大小の真珠で縁取られて鎖骨から胸元に向かってゆるくV字型に開き、アンの女性らしい曲線をすっきりと見せた。二の腕にぴったり添わせた袖は肘まで続き、その先の二段のフリルで華やかさを添えた。
 貴族らしい華奢な手には短い手袋をはめていたが、フリルと手袋の間にほんの少しだけ覗いたクリームのようなアンの肌は、ドレスの純白に決して負けていなかった。
 腰から下にひろがるスカートは大きくふくらんだ上に花びらのようなオーバースカートを重ねてあった。後ろに引いた長い裾は時代や洋の東西を問わず、体を動かして働く必要のない身分、高価な布を惜しみなく使える身分の象徴となるものだ。
 古い肖像画から抜け出してきたようなその姿は、レクサングロム王朝以前、ベンジングトン侯爵を受爵するよりも更に以前からメルシエ王国に長く根を下ろすバーグレッド家の末裔がここにいることを人々に知らしめた。
 
 アンがまとうヴェールはベンジングトン侯爵家に代々伝わる手織りのアンティークだった。最近のものに比べると短く、床を引いて歩くものではないが、レースが宝石と同じように扱われていたことを思えば当時としての価値は計りしれない。今となってはその希少さと時代的価値からも値段のつけられない品だ。
 ヴェールの上に戴くティアラはヴェールと時代を合わせたもので、こちらはメルシエ王室の宝物殿からの借り物だった。
 アンが手に持つ、名高いベンジングトンガーデンの花で組まれたブーケには「幸福な家庭」の花言葉を持つ青いセージの花があり、これでアンは古い言い伝えどおり花嫁に幸福を約束するという四つの品を全て身につけていることになった。

 手織りのヴェールは、未婚の女性を人目に晒さないという本来の目的を果たし、花嫁の顔を人々から隠していた。
 長い長い間この時を待ち続けた花婿にも、ヴェールの下を覗うことはできなかった。花嫁を一目見たいとアートがほんの少し顔を横に向けてみても、見えるのは繊細な模様が織り込まれた白いレースの端だけだ。
 自分の腕を取っているのが本当の花嫁かどうか誰に分かるというのだろう、ふとアートは入れ替わった花嫁の古い物語を思い出した。
 ――結婚の秘蹟を授けてくれる大司教は、アートだけでなくアンのことも洗礼式から知っている。花嫁がアンでなければすぐ気付くだろう。そもそもアンでないわけがない。
 何度も重ねたリハーサルで、アンが隣を歩くのを当たり前に思っていたアートは、何故こんな大切な場面で花嫁が本物かどうか疑っているのかと、自分自身に呆れていた。もっともこのヴェールは貴重なものだからと今日までは代わりのものを使っていたのだが。
 
 あまりにも強く願いすぎると人は、その夢が叶うと信じられなくなってくる。信じて裏切られることを恐れるからだ――もし誰かにそう言われたら、アートはきっと「自分は何も恐れてなどいない」と答えるだろう。しかしアートの不審と恐れが表にあらわれることはなく、従ってその本当の理由を教えられる誰かも現れなかった。行列は無言のまま静々と祭壇へ向かった。
 
 大聖堂の中央に敷かれた長い布の上を祭壇の前まで歩いた花婿と花嫁は、先に着いた付き添いに挟まれて大司教と司祭の前に並んだ。
 聖書の朗読と祈祷、説教を受けながら揺るぎない姿勢で立つアートの心を知る人はいなかった。アートは、左に立つ花嫁が本当にアンなのかどうか今すぐ確かめたいという思いをずっと捨て切れずにいた。
 結婚の意志を尋ねる言葉に、アートは短く答えた。隣からは同じ言葉が繰り返された。続いて昔から変わることのない結婚の誓約を決まりどおり、二人で声を揃えて唱えた。どちらも確かにアンの声だった。
 大司教によってアートの手に重ねられたのも、手袋をしたアンの小ぶりな手だった。
 手を重ねた二人は身分にかかわりなく、他の全ての夫婦と同じく婚姻を結んだばかりの一組の男女として神の前で頭を垂れ、祝福を受けた。
 
 ヴェールを上げるように大司教に促され、アートは式が始まってから初めて花嫁に向き直った。花嫁は顔を伏せ、少し前屈みになってヴェールアップを待っていた。アートは、かすかに震える手に誰も気付かなければいいがと思った。
 アートは貴重なヴェールを傷めないよう、丁寧に上げた。それでもまだ花嫁の顔は見えない。うつむいた花嫁の肩に左手を添え、右手を差し出すとその上に花嫁の手が重ねられた。アートの手を借りた花嫁がゆっくりと体を起こし、伏せていたその顔を上げた。
 
 アートはこの時初めて手織りのヴェールに感謝した。古い風習には確かに意味があったのだと、目の前にあるものを見て悟っていた。このアンの顔を最初に見るのは自分でなければならなかった。
 
 アンは長い療養の間に、何かをあきらめたようなどこか寂しげな表情を身につけていた。そんなアンが、口が重いと自覚する自分との会話で時折見せる笑顔がどんなに嬉しかったか。そう頻繁にはできなかった訪問で、迎えてくれたアンの瞳の輝きがどんなに尊く思えたか。多分アン本人にも告げることはないだろうが、アートの心の中にはそんな思い出がいくつも大切に納められている。
 しかし今アートが見つめているのは、その思い出のどれとも違う姿だった。
 
 ヴェールに包まれていたのは、生来の清らかさに、病をくぐり抜けて得た忍耐と強さをあわせもち、アートへの愛と信頼を隠さない幸福な花嫁だった。
 その姿にアートは神の確かな存在を感じた。
 
 永遠にも感じた一瞬の後、アートとアンは再び大司教に向き直り、祝福を受けた指輪をお互いの指にはめ誓約の証とし、誓約書に署名をし祈祷を受けた。祝別式に続くミサ聖祭の聖体拝領は一部の信者だけが受けた。
 
 全ての行事は式次第どおり滞りなく進み、アートの腕には再びアンの手が預けられた。
 今度アートが向けた視線には、アンの輝くような微笑みが返ってきた。
 
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(2011/10/16)
057◆王太子の結婚(3rd.セメスター・III)(101112131415)
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