オンライン文化祭2012 ―熱― 参加(開催期間:2012/11/03-12/31)
070◆熱機関
硬く冷えた空気を肌に感じたら、そろそろスリーシーズン用から革ジャンに上着を変える季節だ。
冬にバイクに乗るなんてと思うのはきっと、バイクに乗ったことがないか、ちゃんとした装備を揃えて乗ったことがない人だ。冬には冬の良さがある。
バイク用のライダーズジャケット、あるいはバイカーズジャケットと呼ばれる革ジャンはまず第一に天然皮革で、袖口は手首のファスナーを開けないと脱ぎ着ができないくらいタイトなものが好ましい。形だけ真似したものは街で着る分にはいいが、バイクに乗る役には立たない。
合成皮革は転んだ時に摩擦で溶けて運が悪ければ傷口に張り付くし、袖口にゆるみがあればそこはハンドルを握っている限り逃れようがない冷気の吸入口となる。
本革製でもフライトジャケットと呼ばれる防寒用のジャンパーは、丈が短いところまではいいのだが手首がゴムになっているのでバイクには向かない。あれはあくまで直接風を受けることがない機内で着るためのものだ。
革ジャンのデザインとしてよくあるのは打ち合わせがシングルでそこにファスナーがついたスタンドカラーのもの、あるいは打ち合わせがダブルで襟の部分をトレンチコートのように左右に開いて着るものだ。
本革で袖口がタイトならどちらのデザインでもいいのだが、自分とバイク、両方のスタイルに似合って、腰ベルトの金具がタンクに傷をつけないものがいい。
傷といえば、普段着でバイクに乗る人はジーンズにも注意が必要だ。バイク用でない普通のジーンズは、コインポケットが右側についている。右利きの人間にとってはコインポケットもバイクも右側にある方が使いやすいのだが、このコインポケットの金具でもバイクに傷をつけることがある。バイク用のジーンズは傷を防ぐためコインポケットが左にデザインされている。(ならば左利きの人間は普通のジーンズでバイクを体の左側にすればいいのではと思うかもしれないが、答えは否だ。確かに左利きの場合は体の左側でバイクを支える方が取り回しが楽なのだが、サイドスタンドは左側にしかついていないのだ)
しかし冬に乗るなら例えバイク用でもジーンズよりは革パンの方がいい。革は風を防ぐだけで寒さを防ぐ工夫が何もないので、寒さに弱い自覚があるなら革パンの下はスパッツなど各自必要なインナーを追加してもいい。防寒用のキルティングのオーバーパンツもあるが、動きにくい上にシートの上で滑るので腰が据わらない。見た目も良くない。
革ジャンの下には汗を吸うインナーと体を動かしやすいシャツ、革ジャンに装備されていなければ中に着るタイプの脊椎パッド、それに首が寒ければフリースなどでできたネックウォーマーを追加してもいい。イサドラ・ダンカンのようになりたくなければ、長いマフラーやスカーフは首に巻かないのが安全だ。
レース場を走るのでなければロングブーツは要らない。ショートブーツで十分だ。ただしバイク用のものを。左足の甲で操作するクラッチペダルがブーツに傷をつけるし、ブーツの足首の内側にファスナーがあればバイクにも傷がつく。バイク用のブーツは傷を避けるためファスナーがかかとの後ろについている。
手元だけは操作性を優先し、一番慣れていて使いやすい革製のグラブがいい。冬用の綿のはいった、あるいはフリースで裏打ちしたような防寒グラブはバイクの操作がしにくくなるので望ましくない。
電気で発熱させるグリップヒーターもあるが、バイクはできるだけシンプルに乗りたい。パーツの数が増えると壊れる箇所も増える。快適さを求めるならそもそもバイクなんかに乗らなければいい。
オフロードバイクであればナックルガードはかろうじて許容範囲だ。
これら一連の防寒対策は自分の快適さのためではなく、体をバイクという機械の一部として機能させるため、両手両足を遅延なく稼働させるためだ。
全身のほとんどを覆っていても、走り出せば全身に寒さが浸透する。そうではなくてはいけない。
どんなに装備を整えようと、布団にくるまったような快適さとバイクは相容れない。気温、湿度、風、それに路面の状態を体感しながら走ることは安全のためにも必要だ。
装備を整えたら今度はバイクの暖気だ。
冬は空気の密度が濃くなるので酸素の量も多くなる。キャブレターの中に体積の小さな冷えた空気をたくさん取り入れると酸素の濃度が濃くなる。その分ガソリンの流量も大目にしないと混合気の割合が変わってしまう。しかし気温が低いということはガソリンの気化にも時間がかかるということなので、冷えたエンジンに冷えた空気とガソリンを入れてもエンジンはなかなか始動しない。
インジェクションならそんなことは機械の方でちゃんと考えてくれるが、昔ながらのチョークとキャブレター付のバイクは構造が単純で外部の環境変化の影響を受けやすい。
外気温と音を頼りに、チョークの引き加減を変えてみたりガソリンが気化するまで少し時間を置いたりして、キックまたはセルでエンジンを始動させ、バイクの気持ちになってアイドリングを安定させようと苦心するのも冬ならではだ。
エンジンの中に吸い込まれた空気とガソリンの混合気は上がってきたピストンに圧縮され、プラグから飛んだ火花で爆発を起こしてピストンを押し下げる。このピストンの上下運動をコンロッドとカムシャフトで回転運動に変える仕組みがレシプロエンジンだ。そのエンジンが生み出した力が組み合わせたチェーンとギアに伝わってバイクを前進させる。
エンジンは日本語で熱機関。
この言葉は、熱を力に変えて機械を動かす機構全体を意味している。
暖気が終われば後はヘルメットのストラップを締め、革ジャンのファスナーを上げ、バイクにまたがってサイドスタンドを上げ、クラッチを握ってギアをローに押し込んでようやくスタートできる。
左右を確認して他の車の流れに乗って走り出す。
信号ごとにエンジンに手をかざし、冷えた指を革グラブ越しに温める。
素手では触れないエンジンも、この季節、革グラブ越しだとちょうどいい熱源になる。
ギアをニュートラルにしたバイクからはエンジンの脈動が伝わってくる。おそらくこちらが寒さで震えているのもバイクには伝わっているのだろう。
信号が青に変わる。
右手でスロットルを制御し、左足でギアを入れ、左手で握っていたクラッチを離して動力を駆動系に伝える。
進路の状況とエンジンの回転数を体で感じて最適なギアを選択し、障害物を見つけて回避する。
前後ブレーキを右足と右手でバランス良くかけて、転がり続けようとするタイヤのスピードを相殺し、できるだけ止まらずに走る。
スロットルの開閉を調節し、止まったら倒れてしまう珍妙な乗物の支えとなる。
遠心力を相殺する重りになってバイクの鼻先を自分の行きたい方向に制御する。
繰り返される単純作業により頭の中に残っていた日常は希薄になり、自分の存在は薄く広く伸びて世界を覆い、空気と一緒に吸い込まれて圧縮され、爆発し、排気されて後ろへと押しやられる。
やがて二つ先の信号が緑から黄色に変わり、まだ走り続けたいと唸るバイクをなだめすかしてギアを落とし、白い停止線の手前でバイクを止めてアスファルトに足を着く。
その瞬間に薄く広く伸びた自分は世界からバイクの上に戻ってくる。
走り出す前よりどこか軽くなった気がするのは自分の存在より軽い何かを取り込んできたからか、重たい何かを捨ててきたからか。
そしてまた、信号は赤から青に変わる。
――――アスファルトに着いた足をステップに戻せば、人はふたたび人でなく熱機関に駆動されるパーツになる。
end.(2012/11/03)
070◆熱機関
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