064◆楽園までは何フィート
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べスはもう夕飯と入浴を済ませ、髪の手入れが終わればあとは寝るだけというところだった。
いくつかの宗教では女性が髪を露わにすることを戒めている。虚栄心の元であるとか男性を誘惑するものであるといわれる。たぶん真実なのだろう。
ベスはそう思いながら今日も化粧台に向かって髪を手早くブロックわけして、乾燥を防ぎ艶を増すトリートメントをスプレーし、少しずつとかしていった。誰も知らないことだけれど、前にエドから髪に触れたくて夢に見たと言われてから、ベスは髪の手入れに二倍の時間をかけるようになった。夢より本物の手触りの方が素晴らしいと言われたかった。もっともっと夢に見て欲しかった。
全体にシルクの光沢が出るまでとかしたら、次のブロックの手入れに移る。
こうして時間をかけたブラッシングでベスの髪は輝きを増していったが、ベスの瞳にはその輝きがいつもよりくすんでみえた。
昼間、たまたま聞いてしまった悪意のある言葉が見えないとげのようにベスの心に刺さり、目の前に憂いのヴェールを下ろしていた。
「王子の誰かと結婚するって子どもの頃から決まってたんでしょう。四人でくじ引かなくちゃいけないようなブスだったら国民が納得しないもの、美人なのは当たり前。でも……色気がないっていうか、お人形みたいよね」
誰のことを言っているかは明らかだった。
ベスは鏡に映る自分の姿を改めてみつめた。ベスは自分が美人であることを知っていた。美人であるよう心がけてきた。美人は一夜にしてならず、なのだ。入浴時にはバスタブの縁にお手入れグッズを並べて肌の手入れも欠かさない。これだけの努力をしても「当たり前」で片付けられるベスの苦労を誰が知ろう。
もちろん妬まれるのが美人であるだけでなく、必要な時にはいつも従兄弟の誰かが付き添ってくれるせいだということは分かっていたが。
……従兄弟たちが付き添ってくれたのが、他の男性から声がかからなかったせいだって知ったらあの人たち喜ぶでしょうね。もしかしたら本当にあの兄弟はくじを引いてエスコート役を決めていたのかも。
そう思うと、見えないとげがまたちくりとベスの心を刺した。
エドはずっとベスを見てくれていた。ベスを綺麗だと言ってくれる。エドにそう言ってもらえるのは嬉しい。エドは見た目のことだけでなく、ベス自身が意識したこともなかったベスの内外の美点を褒め上げてくれた。エドの言葉は信じている。
でも――もしベスが全くエドの好みから外れていたとしても、王位継承権をもつ王子の一人としてエドはベスとの婚約を受け入れただろう。兄のチップと同じように。皆が思っているように。
エドとベスはお互いに恋している。エドはずっと昔からでベスはエドに申し込まれた時からだけれど。二人の関係は周囲の期待に負けて結ばれたものじゃない。二人は、恋をしているから一緒にいるのだ。
なのに、皆はそれを信じない。ベスはエドの愛情を信じているが周囲はそうではない。ベスと王子の誰かが結婚することが必要だったから、エドは四王子の代表としてベスと付き合うことになったのだと思われている。
「……色気があったらあったで、また言われるんでしょうけどね」
そうつぶやいてそっとブラシを置いたベスの耳に、窓のすぐ外、バルコニーから物音が届いた。
足音と人の気配、ばさりという音、その最後には、長いファスナーを開けるようなくぐもった音。
セキュリティのスイッチを押そうか、それとも部屋から逃げ出そうかと迷って身をすくませたベスは、次の瞬間、カーテンと閉じた窓の向こうから響いてきた妙なる調べに操られるように立ち上がった。
窓際に駆け寄ったベスは、日が暮れる前にしっかりと閉められていたカーテンを少しめくり、そのすきまからバルコニーの様子を窺った。石のバルコニーでバイオリンを弾くシルエットが誰のものか、ベスは一瞬で気付いた。いや、本当は見る前から気付いていた。
ベスは震える手で、自分がすがりついたカーテンを全身で強く引いた。
エドは軽く目を閉じていたが、まぶたの裏が急に明るくなったことでカーテンが開いたのに気付いた。
しかし続いてフランス窓が開き、室内から流れ出た暖かさと微かな芳香が自分を包んだのに気付いてもまだ、楽章の終わりまで目を閉じたまま、弓を止めずにヴァイオリンを弾きつづけた。
エドが奏でたのは熱烈な愛の調べでも、恋の切なさを訴える調べでもなかった。
ブラームスのバイオリン・ソナタ第一番。その第三楽章の主旋律が友人クラウス・グロートの詩につけた曲に由来するため、それにちなんで『雨の歌』とも呼ばれる。といっても物憂げな曲ではない。元の詩は夏の雨に洗われたみずみずしい景色と子ども時代の無邪気な喜びを詠うものだ。
エドは真っ直ぐな思いをその曲にのせ、バイオリンを伸びやかに歌わせていた。
子ども時代の幸福が誰と結びついているのか、自分を幸せにする思い出がどんなものか、誰のためでもなく自分の喜びのために何を求めるか。
エドは大人の愛情のもつ陰影をあえて無視した。余計なしがらみを知る前の純粋な気持ちを奏でることに集中した。
人間的に自分より優れた男はいくらでもいる。兄たちの優秀さもよく知っている。でも、エリザベスを求めてきた思いの長さだけは誰にも負けないと言い切れる。
エドは、世界中の誰でもなくエリザベスに捧げるからこそ意味のある曲を選んだつもりだった。
ベスはセキュリティを解除してからフランス窓を片側だけ開き、閉じた窓の冷たい縁に頬をあて、バイオリンを弾くエドの生真面目な顔を輝く瞳で見つめていた。体が震えていたのは、薄いナイトドレスのせいではなかった。寒さは全く感じていなかった。
やがて、エドの弓が止まり、美しい音色の余韻が夜の空気に吸い込まれて消えた。
バイオリンと弓を下ろしたエドは、ゆっくりと目を開けて楽器をそっとケースに戻し、足元に置いた花束を手に持った。ベスはそこから自分のいる場所までの、エドの歩みを無言で見守った。
あと一歩でベスのところまで辿りつくというところで、エドがバルコニーの冷たい石の上に右ひざをついた。
歩み寄ったエドも、フランス窓の縁に片手を残して身をかがめたベスも無言だった。
「エリザベス」
エドは子どもの頃と同じ呼びかけを使ったが、エリスと呼ぶ時と同じ親密さが込められていた。続いて何か言おうとして……不意に気を変えたように微笑んだ。
叙任をうける騎士のように膝をついたエドは剣の代わりに、茎の長い温室咲きの純白の薔薇をベスに捧げた。
「結婚してくれますか?」
両手で花束を抱いたベスは短く答えた。
「はい」
二言以上は口にできなかった。泣き出さずに答えるだけでベスは精一杯だった。エドが立ち上がってベスを花束ごと強く抱きしめ、ベスの震えに気づいた。
「僕は何て気がきかないんだろう。こんなに寒い夜に君に窓を開けさせるなんて。もっと暖かい夜にするべきだった」
慌てた様子でエドがバルコニーを振り返り、ベスは考える前にエドの腕を掴んだ。
「待って、行かないで」
微笑んだエドがベスにキスをした。
「楽器を持ってくるね」
ほんの二十歩の距離を往復し、バイオリンを持ったエドが戻ってきてフランス窓から部屋に踏み込み、ぴっちりと窓を閉めた。
エドは改めてベスを振り返り、まぶしそうな顔で言った。
「シュガーケーキみたいだ」
ベスは真っ赤になった。
ベスのナイトドレスはレースとフリルとリボンで飾られフランス人形さながらという代物だった。薔薇の花束が似合いすぎていた。
普段は人に見られるための服ばかりを着ているベスはその反動で、ナイトドレスだけは外で出せない趣味に走った、おそろしく装飾の多いものを選んでいた。メイド泣かせといわれそうだが、これに関してはベスが自分でアイロンがけをしているので問題ない。
それはともかく。初めてエドに見られたのがこんな少女趣味なナイトウェアだったことで、ベスは内心で血を吐く思いだった。分かっていればもっと大人っぽいナイトドレス……ではなくて、部屋着で待っていたものを。
「恥ずかしいから見ないで――そっ、そういえばどうやってここまで」
ベスの言葉を途切れさせたエドがささやいた。
「甘いね」
ベスはその言葉を、耳だけでなく触れあった唇からも受け取った。
このまま食べられてしまうのかしら、とベスはほんの少し考えて大きく身震いした。怖いのか嬉しいのか、自分でもよく分からなくなった。
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