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067◆ただ一人(直接ジャンプ  1 2 3 )
 
 
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――気に入らない」
 チップが急にキスを止め、キャットの手からメモを取りあげて握りつぶした。
「フライディ?」
 驚いたキャットは、チップが更にそのメモをテラスの向こうにぽいと投げるのを止められなかった。
「僕とキスしながら、君は他の男から受け取った紙切れのことを考えていたのか?」
「フライディ、そんなんじゃないよ」
「どんなのでもいい」
 チップがへそを曲げるのは実は珍しくもないが、たいていは一言二言文句を言えばすぐ冷静になる。説明も聞かずにキャットのものを投げ捨てたのは多分これが初めてだ。
 あきれたキャットはつい、考えたことをそのまま口にした。
「大事なメモだったらどうするのよ」
「そんなに大事なものなら、すぐ受け取ればよかったじゃないか」
 チップの言ってることはむちゃくちゃだ。
 キャットはだんだん腹が立ってきた。人間関係は鏡のようとはよく言ったものだ。相手が不機嫌なら自分が不機嫌になるのはとても簡単だ。
 受け取れと言ったのはチップだ。捨てるくらいなら受け取らせなければ良かったのだ。そもそもキャットは受け取りたくなかったのだ。
「大した内容じゃなかったもの」
「なら捨ててもいいだろう」
 チップは自分でも頑なすぎると分かっていたが、だからといってすぐ機嫌を直す気になれなかった。
 キャットの非難する口調も気に入らなかった。ひとこと謝ってくれさえすれば、こちらも素直に折れる気になるのに。
 恋人が他の男と話しただけで嫉妬するほど心が狭くはない。良識の範囲であれば仲のいい友達とハグを交わしたり、場合によっては軽いキスを交わすくらいは理解する。親愛の挨拶をそれ以上の意味に受け取ったりはしない。
 しかし恋人が自分とキスをしながら、他の男からもらったメモをいじるのは駄目だ。
 チップは決して何も感じないわけではないのだ。
 
「まさか変なこと疑ってない?」
 キャットの不穏な質問にも、チップは冷たく返した。
「話題をすりかえないでくれ。僕が腹を立てているのは、キスの時ぐらいは恋人を優先するべきだと思うからだ。少なくとも僕自身はそうするようにしている。君は自分が受け取る気もなかった、大した内容じゃないメモを僕とのキスより優先させ」
 チップの言葉をキャットが途中で遮った。
「もう頭にきた。いい、フライディ? 私が戻るまでその場を一歩も動かないで。続きは『私が受け取る気もなかった、大した内容じゃないメモ』を読んでからにして」
 キャットはそう言い捨てると、テラスの端にある螺旋階段を、見ている方まで目が回りそうな勢いで駆け下りた。
 
 やがて紙片を捜してきょろきょろするキャットの頭がテラス下の植え込みの間に見え隠れしたが、チップは上から覗いて一緒に捜すことはしなかった。一歩も動くなと言われていたから。
 かわりに猫がひっかいたような三日月を見上げてため息をついた。
 
 キャットに背中を向けられた瞬間から、チップはさっきの衝動的な行動を悔いていた。
 キャットが自分から離れることはない。彼女が『絶対手を離さない』と誓ったら、それは言葉どおり絶対手を離さないということなのだ。例外はなし、免責事項もなし。
 にもかかわらず背中を向けられたチップは急に不安になった。自分がキャットの誓いに甘えていたことを強く自覚した。年下の恋人に我がままをぶつけて、怒られて当然のことをした。
「……まったく」
 早く追いかけて謝るべきだ、そう思いながらもチップはその場を離れるのはなぜか気が進まなかった。
 きっと自分は彼女が戻ってきてくれることを確かめたいのだ、とチップは思った。きっとすごく腹を立てて戻ってくるだろうけれど。必ず戻ってくる。それさえ確かめれば、あとはどんな非難も受け止める。
 
「チップ、こんなところに隠れていたのね。捜したのよ」
 背後からかけられた声が誰のものか気付いて、チップは一瞬前までの途方にくれた表情を社交的な笑顔に変えて振り向いた。そこには久しぶりに会う友人、テレーノ夫妻の姿があった。
「やあ、ニコラ、リンダ。二人の結婚式以来だね。僕も後で挨拶にいこうと思ってたんだ。わざわざ捜してくれてありがとう」
「向こうで何か飲み物でもいかがですか?」
 ニコラの誘いに、チップは笑って答えた。
「そうしたいけど、月と太陽が何度廻ろうと、彼女が戻ってくるまでここから一歩も動くなって命令されてるんだよ」
「命令? 穏やかじゃないわね」
 そう言ったもののリンダは、夫に向かって言った。
「まあいいわ。ニコラ、シャンパンと炭酸水を持ってきて。ゆっくりでいいわよ」
「おやおや」
 ニコラはそう言って肩をすくめると、おとなしく飲み物を取りに行った。その背中を見送ったチップとリンダが二人きりになった。
「あんなにあからさまに追い払ったら傷つくんじゃない?」
「大丈夫よ、慣れてるから」
 チップはリンダのすました顔をしみじみと眺めた。
「幸せそうだね、リンダ」
「分かる?」
「分かるよ」

「あなたの方は最近どうなの?」

「うん、恋人を見つけた」
 リンダはチップのさりげない口調に、何かを感じ取った。
「もしかして」
「うん、僕の『ただ一人』」
――ああ、チップ。それを聞いてどんなに嬉しいか」
 リンダがチップに身を預け、両腕をしっかりと回して抱きしめた。チップは彼女の気持ちに応えてしっかりと一度強く抱き返してから、笑いを含んだ声で言った。
「もう気が済んだ? 肋骨にひびが入る前に離してくれないか」
「もう、喜び甲斐のない人ねっ」
 憤然としてリンダが顔を上げ、チップを押すようにして離れた。
「彼女にはいつ会えるの? 紹介して」 
 期待した顔であたりを見回したリンダが、ぱっと顔を輝かせた。
「彼女がその人?」
 
 チップが振り向くと、螺旋階段のところに本物の猫そっくりに顔だけのぞかせたキャットがいた。
「おいで、ロビン。友達を紹介するよ」
 階段まで迎えにいったチップが差し出した手に、キャットがそっと自分の手を乗せた。チップはその手をしっかりと握り、キャットをテラスまで引き上げた。チップはキャットの腰に軽く手を回して、歩みを促した。
 二人がリンダのところへ戻るのと、シャンパンと炭酸水のグラスを持ったニコラが戻ってくるのがほぼ同時だった。リンダはニコラの手からシャンパングラスを取り上げてキャットとチップに渡し、自分は炭酸水のグラスを受け取った。お互いの紹介とグラスを合わせた乾杯の後、リンダがキャットに語りはじめた。
「私がニコラと結婚できたのは、ここにいるチップのおかげなの」
 キャットはまだ初対面の緊張が解けずにいたが、リンダの話に興味を惹かれた。
 
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