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フライディと私シリーズ第二十三作
068◆遅れてきた人魚姫1011121314151617181920212223242526
※連作シリーズのためこの作品から読み始めるのはお勧めしません。シリーズ第一作はこちら、他の作品はFI 時系列からご覧下さい。
 
【 1 】
 
 二度目のカーテンコールが終わり舞台に幕が下ろされたところで、キャットはようやく拍手の手を止めた。
「フライディ、誘ってくれてありがとう!」
「どういたしまして。君こそ付き合ってくれてありがとう」
 チップの言葉は心からのものだった。
 ロイヤルボックス(貴賓席)もない小さな劇場、踊るのはまだ無名の若手ダンサー、演目もよく知られた古典ではなくコンテンポラリー……と興味のない人にとってはとことん退屈なバレエ公演だった。チップ自身も、友人が後援団体の理事を務めていなければここに来ることはなかっただろう。しかし誘ったときはあまり乗り気でなかったキャットが、予想外に楽しんでくれた。
「三番目と五番目の演目に出てた人、上手だったよね。出てくるだけで舞台がピッとするの。あとあの黒いドレスの死神」
 よく喋るキャットの様子に、チップはにこりとした。
「やっぱり経験者の君を誘って正解だった」
「うーんと昔のね」
 子ども時代を抜け出してまだそれほど経たないキャットの大人ぶった口調に、キャットの横に座っていた年配の婦人が思わず微笑み、チップがまたそれを見て微笑んだ。
「結局合わなくて辞めたし」
 キャットがさりげなく付け足したので、チップは注意と視線を恋人へと戻した。
「また習う気はないの?」
「……小さい頃は本当に楽しかったんだけど、バレエってジャンプするだけ、ターンするだけじゃないんだよね。上のクラスになると表現力がないと駄目なの。テニスみたいに、インとアウトしかないスポーツの方が私向き」
 とたんに、チップが人の悪そうな笑みを浮かべた。
「何、その顔」
「うん、色々と」
「色々と何?」
 キャットは座席から立ち上がり、チップを見下ろすようにして先を促した。
「確かに出会った頃の君は割り切れないことが苦手だったなって思い出して――
 話しながら立ち上がったチップに今度は見下ろされたキャットが、チップの顔つきと口調に何かを予感して顔をしかめた。
「そんな君を僕はよくここまで育て」
「ああ、数学おしえてもらったよね。ありがとう」
 キャットはにこりともせず、チップの言葉にかぶせるように言った。二人だけの時なら『いばり虫』とか『そんなに鼻を上に向けたら鳥が止まりにくるんじゃない』とかいくらでも言い返しようはあるのだが、公演が終わったばかりの劇場の真ん中ではこれがキャットにできる精一杯だ。
 チップが本気でそう思っているのか、わざと自分を怒らせて楽しんでいるのかは疑わしい。もっともエドもベスもよく同じようなことで怒っているから、わざとではなく息をするように失礼なのかもしれない。
 どちらにしても腹が立つことに違いはない。
 僕が育てたとかって。
 キャットの母、リオーナの前でも同じことを言えるかと聞いてやりたい。
 
 黙って怒りを燃やすキャットの左手をチップが取り、自分が贈った指輪のすぐ上にキスしてから、満ち足りた様子で言った。
「君がテニスを選んでくれてよかったよ。今の君はきっと昔より上手く踊れるだろうけど、テニスの方がミックス(男女混同ダブルス)でもパートナーとの距離が遠くていい」
 キャットは、失礼で、うぬぼれが強くて、なおかつ独占欲まで強い恋人をにらんだ。
 
 バレエを辞めてから何年も経った今、やっとキャットにもジュリエットが、ジゼルが、オデットが、やむにやまれず恋をした気持ちが分かるようになった。恋というのは、はまるまでそれとは気付かない落とし穴みたいなものなのだ。
 本当ならキャットはもっと物静かな、父親のような男性の方といる方が好きなのに。どうしてこんな腹の立つ人と一緒にいるんだろう。
 ――もちろん、キャットが彼を好きでたまらないからだ。彼に笑いかけてほしいからだ。どんなに失礼な態度をとられても、愛おしくてたまらないという目で見つめられるだけで鼓動が速くなるからだ。自分が情けなくなる。
 
 キャットはほっと体の力を抜いて、握られたままの手に視線を落とした。その手を、チップが合図のように握った。
「さあ帰ろうか。明日も早いし」
 キャットは目を伏せたまま、こくりと頷いた。
 
 翌日の土曜日、二人はチップの運転でマリーナへ向かっていた。
 車がいつものコンバーティブルではなく銀色のワゴンなのは潮風の中に長時間置くためと、それからもうひとつ、荷室に収められた大きなクーラーボックスのためだった。
 
 普段は陸上ヤードに保管されているセイリング・クルーザーは、既に桟橋につけられていつでも乗れるようになっていた。その外観からは王族所有のものとは分からないくらい簡素な船だ。
 
 チップから学生の頃には自分のクルーザーで友人たちと何日も航海をしたと聞いて、最初キャットは船上パーティーやシャンパン、ビキニで日光浴をする女性の姿を思い描いたのだが、実際に乗せてもらうと船の上での過ごし方はキャットの想像とは大きく異なっていた。
 セイリング・クルーザーとはエンジンもついているが帆走を目的とした乗り物だ。普通のクルーザーが自動車なら、セイリング・クルーザーはオートバイ。乗り物というより、操縦の手間を楽しむ遊び道具といってもいい。
 エンジンを切り帆を張って走らせる時は風向きと行きたい方向にあわせて帆の角度や舵の向きを変えるため、天候によってはちょっとしたスポーツ以上に体を動かさなくてはいけない。追い風の時にデッキでぼやぼやしているとワイルドジャイブでブーム(横梁)に殴打される危険もある。キャットも見様見真似で働かざるを得ない。
 一度だけ「『僕の歴代の彼女』もこんな風に働かされていたの?」と聞いて、「僕がバディと呼ぶのは君だけだよ」と返されたキャットは、うまく乗せられていると思いながらもいそいそとこき使われていた。
 
 エンジンでマリーナ付近の混雑から抜けると、チップは帆走に切り替えてしばらくクローズホールドで走り、湾から出てしばらく経ったところで縮帆し、錨を打って停泊した。
 作業を終えた二人はキャビンが作ったわずかな日影に並んで坐った。耳に届くのは船体にぶつかる波の眠たげなたぷんたぷんという音と、時折金具がぶつかって響く澄んだ金属音、それに船体のどこかがきしむ音。
 帆を揚げたり降ろしたりで忙しく働いた体に、水面を渡ってきた風が心地よかった。
 
――ねえ、フライディ。昔の私ってどんなだった?」
 目を半分閉じて、キャットが訊いた。
「陸に上がったばかりの人魚姫みたいだったよ」
「うそつき。『死体モドキ』って呼んでたって言ってたくせに」
「ああ、僕はうそつきだよ。知ってるだろう?」
 続くチップの笑い声に、キャットは鼻の奥が何故かつんとなった。全然悲しくはないのにどうして涙が出そうになるのか、キャットは自分自身のことが分からなかった。
「キスして」
 そう言っただけで自分から動こうとしない怠惰な恋人のために、チップはキャットがもたれるデッキの壁に片手をついてキャットの唇に軽いキスを二度落としてから言った。
「僕がしたいキスをするには、まだ陸に近すぎるな」
「じゃあ船を動かせば」
「釣りがしたいんだろう?」
「喉が乾いた」
 キャットは急にそう言うと、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「キャビンで何か飲んでこようかな」
「僕もすぐ追いかけるよ」
 チップが確認のためデッキを一回りする間に、キャットは船首側のハッチから先にキャビンに降りた。
 
 二人が異変に気付いたのは、ほぼ同時だった。チップは船尾側のデッキで、ラダー(はしご)からハッチまで続く水の跡に気付いた。キャットはキャビンで同じように、船尾側の階段から寝室のドアまで続く水の跡に気付いた。
 
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