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068◆遅れてきた人魚姫1011121314151617181920212223242526
 
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 キャットとトリクシーは車が着く音に気付かなかった。
 玄関から「ただいま」という大きな声が聞こえてきて初めて、チップが戻ったことを知った。
「ここにいるって言ってきます」
 キャットはそう告げてしとやかにサロンを出、廊下に敷かれた絨毯の上を玄関まで走った。もちろんゴールはチップの腕の中だった。
「やあ、バディ。こんな風に出迎えてもらえるのはすごく嬉しいよ。彼女は?」
「サロンで待ってる」
 チップはキャットの肩に腕を回し、一緒にサロンへ向かった。歩きながらキャットが言った。
「トリクシーが、ここの庭を『楽園』ねって」
「変わった女性だ」
 チップが真面目な声で言うので、キャットは思わずむっとした顔で見上げた。チップの眼が楽しそうに躍っていた。
「困ったことに、君と気が合いそうだ」
 そう言ってチップは、キャットのこめかみにキスをした。
 
「図書室の見取り図を持ってきた」
 チップはシャツの胸ポケットから記録メディアを取り出した。それを見たキャットが心得顔で部屋を出て、ノートPCを持って戻ってきた。チップはそれを受け取って、ソファの前の低いテーブルで広げた。
「ミズ・モーガン、ご存じのとおり図書室は細長く非常に広い。君のちょっとした週末旅行で全部調べるのが無理だということは分かっていると思う。できるだけ調べる場所は絞りたい。昔のことだから難しいだろうが、その時のことで他に思い出せることがあれば教えてほしい。エリザベス達が来たあの日は、プライベートスペースに通じる扉は閉めていただろうから、君はパブリック側のこの三つの扉のどれかから入った筈だ」
 チップはトリクシーにディスプレイの三か所を指し示した。
 キャットは、チップのためのお茶を用意しながらそんな恋人の姿をほれぼれと眺めていた。
 
 普段より少し低い声で相手の反応を引き出すように語りかけるのは、彼がスピーチの訓練を受けているから、テクニックのひとつなのだと分かっていても思わず説得されたくなる。
 それが分かっているのか、チップは普段キャットにこういう話し方をしない。そのフェアプレー精神は立派だが、キャットにはほんの少し残念でもあった。
 
 探索する場所が決まった後、チップが明日の予定を決めた。
「トリクシー。君をキャットの友人として、明日の軽い昼食に招待するよ。通用門から入るのに抵抗はない? そう、よかった。キャット、君たち二人は君の車で一緒に来て欲しい。できる?」
 キャットが頷くと、チップはPCを閉じた。
「夕飯はあるもので済ませることになるから大したものは出せないが、明日の料理は期待してていいよ。はしりのチェリーを使ったデザートを早く出したくて、コックが手ぐすね引いて待ってるからね」
 キャットの顔が期待に輝いた。その素直な反応を見てチップが微笑んだ。トリクシーは目の前の二人が交わす視線にあてられて今日もう何度目か分からない邪魔者感を味わっていたが、ふと気付いて言った。
「人を使ってないと言っていたけど、夕飯は誰が……」
「もちろん僕が」
 すかさずチップが答え、キャットがあわてて割り込んだ。
「私が作るよ」
「まだ誰も僕が作った料理で死んでないぞ」
「死ぬとは言ってないでしょ。レパートリーが問題なの」
 そこから始まった言い合いに、だんだん付き合いきれなくなってきたトリクシーが、結論を出した。
「皆で作りましょう」
 
 三人は夕飯を作るのも、食べるのも楽しんだ。
 チップにはサラダのドレッシング作りという、計算好きにとって楽しそうで、かつ、あまり重要ではない仕事を任され、キャットはメインの肉と付け合せの野菜をオーブンに入れてからテーブルの準備をし、デザートを任されたトリクシーはケーキを焼いた。
「美味しいぃ」
 チップが0.1グラムまで量れるデジタルのクッキングスケールを駆使してレシピを完璧に再現したドレッシングは期待どおりの評価を受け、キャットが用意したメイン料理は素材の質がそのまま評価につながったが、特筆すべきはデザートだった。
 
「名前どおりベルベットみたいに滑らかでしっとりして、この重みが美味しいーなのにさっぱりー」
 キャットは興奮して意味不明な賛辞を連ねた。チップはトリクシーに言った。
「一切れもらっていっていいかな? うちのコックにも作らせよう」
「レシピ教えてもらえる?」
 キラキラした目で言うキャットに、トリクシーが微笑んだ。
「ええ、いいわ。あなたは?」
 訊かれたチップは首を横に振った。
「レシピがなきゃ再現できないようじゃ、王室専属コックの肩書が泣くよ」
 
 食後のコーヒーを飲み終えたところで、チップがトリクシーに言った。
「僕たちはそろそろ部屋に引き上げる。今日は君も疲れただろう。ゆっくり休んでくれ。このサロンの向かい側にAVルームと図書室もあるから、退屈だったら自由に使ってくれて構わない。何か緊急の用があれば内線で」
「ありがとう。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 
「僕はさっきシャワーを浴びたから、ゆっくりしておいで。髪を乾かすのは僕がやる」
 チップの宣言どおり、キャットがバスルームを出たとき洗面所にドライヤーはなかった。くすっと笑ってキャットは濡れた髪にターバンのようにタオルを巻いた。
 チップが自分が座るソファにキャットを呼び寄せ、膝に乗せた。タオルを外し、濡れたキャットの髪にぬるめの風を当てながら訊いた。
「熱い?」
「大丈夫。もっと熱くていい。これじゃ時間かかるよ」
「その分、君に長く触れていられる」
 チップの声は触れ合った場所からキャットの心に響いた。ドライヤーの熱でキャットまで溶けていきそうだった。
 こうして甘やかされると、チップが失礼なのも、うぬぼれが強いのも、独占欲が強いのも、全てが相殺されてしまう。残るのは愛情だけだった。それもたっぷり。
「今日は大活躍だったね、ロビン。君のおかげで彼女は海に投げ込まれたり海上警備隊に引き渡されたりしないで済んだ上に、僕たちは美味しいデザートが食べられた」
 低く柔らかい声は、ドライヤーの風とともにキャットの耳を熱くした。
 
「……ねえ、フライディ。トリクシーが小さい頃に会ったのって誰だと思う?」
 チップはしばらく答えなかった。
「僕じゃないことは確かだけど、誰かまでは。あの日はずいぶん遠い親戚まで集まっていたし、名づけ子の兄弟が僕を騙って女の子にキスしても『またチップなの』って皆は納得してただろうから」
 キャットは何も言わなかったが、チップがキスした相手が評判より少ないかもしれないと思って、キャットの気分は明るくなった。明るい気分のまま、キャットは思ったことを口にした。
「ベンに訊けないかな。ほら、ベンのこと『図書館の主』って前に言ってたでしょう? もしかしたら隠し戸棚の場所とか知ってるかも」
「この件にベンは巻きこめない」
 チップはきっぱりと答えた。そういえばメルシエ王家を巻きこめないと言っていたっけ、と思い出してキャットは話題を変えた。
「結婚の約束って聞いた時は、すごくびっくりした」
 チップがドライヤーのスイッチを切って、キャットを自分の方に向かせた。
「僕は小さいころから周囲に言われるまま、大人になったらベスと結婚するんだって思っていたんだ。キスはしたかもしれないけど、何かを約束するようなことは絶対にしていない」
 チップの顔つきも口調も真剣であることは間違いなかったが、内容が内容だった。キャットが笑いそうになった瞬間に、チップもそれに気づいてにやっとした。
「信用されなかったのは、自分のせいだって分かってる?」
「分かってる。悪いのは僕だ。平手でも拳でも気が済むまで殴ってくれ」
 チップが自分の頬を指して言った。
 キャットはチップの首に腕を回し、殴る代わりにかみつくようなキスをした。もちろんチップが抵抗するはずもなかった。
 
 チップがキャットの髪を指で梳いた。
「ふわふわになった」
 キャットはチップの指が触れる心地よさに目を細くした。
「ロビン、今にも喉を鳴らしそうだ」
 そう言われたキャットは猫の真似をして喉を鳴らしてみせた。
「おいで、猫ちゃん。枕を分け合って一緒に寝よう」
 チップはそう言ったが、キャットは羽根枕をチップに譲り、自分はチップを枕にして眠った。
 
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