「ジェットパックの操作は単純で上昇、下降、右旋回、左旋回の四つを覚えるだけ。前進という操作はないから、前進したければ体を前に傾けて上昇。後退は体を後ろに傾ける。一番難しいのは空中の一点で静止することだけど、今回はそこまでできなくても問題ない」
そう言ってジョナスは地面から少し上昇し、左右に三十度ほど旋回してから前進後退までやってみせ、元の場所に戻って着陸した。
「覚えておかなくちゃいけないのは、自分を基準にした三次元で考えて頭の向いている方に進むのが常に『上昇』だってこと」
キャットが一瞬考えて質問した。
「じゃあ、頭を下にした時は、下に『上昇』?」
「理解が早い。ただし下を向く時は同時に上に『下降』して重力を相殺してやらなきゃいけない」
ジョナスがにやりとした。
「さっそく実践だ。まずは垂直を保って上昇と下降の訓練から」
キャットがジェットパックの速成講習を受ける様子を、ベンとチップは離れた場所から眺めていた。
チップがさりげなさを装って訊いた。
「ベン。実際のところミズ・モーガンとはどういう仲?」
「将来を誓った」
チップがさりげなさをかなぐり捨てて迫った。
「いつ!?」
ベンは答えなかった。
チップは自分の知っているいくつかの事実をつなぎ合わせ、頭の痛くなりそうな解にたどりついた。
「もしかしたら、二十年くらい前?」
「ああ」
ベンが短く答えた。
チップは大げさな溜息をついて額を押さえた。
「僕の兄弟たちはどうして揃いも揃って気が長いというか、あきらめが悪いというか……」
「お前は違うとでも?」
面白くなさそうなベンの問いかけに、チップは自分の手の下でにやりと笑った。
「そう、実際のところ、同じ血が流れてると認めざるを得ないね」
ベンはしばらく無言だった。それから思い切ったように口を開いた。
「――チャンシリー王室との縁組は、二年前の視察の時にも検討されていた」
「おかげで僕はベンの代わりにハンターに狙われて大変な目に遭った」
チップが横槍をいれた。今でこそあの時バルコニーに登ったのも笑い話にしているが、当時チップはキャットが離れていくのではないかと本気で心配していた。ここはぜひ自分の貢献を主張したいところだ。
ベンはチップのアピールを無視して続けた。
「あの時と相手は違うが大筋は変わらない。手伝ったお前の立場が悪くなることはないだろう。最後には全て丸く収まるはずだ」
「……そう聞いて、どうしてまったく丸く収まる気がしないんだろうね」
チップは硬い表情の兄に笑いかけた。
ベンのこの緊張が高所恐怖症のせいだけとは思えなかった。もちろんプロポーズに行くのだから緊張するのは当然だが、それにしても……もうちょっと嬉しそうな顔をしそうなものでは?
上空から、キャットの朗らかな笑い声が降ってきた。
「どこまでも飛べそう」
何かの曲を機嫌よく口ずさみながら、キャットは空中でくるくると踊っていた。
難しい作品の解釈や表現はできなくても、キャットは子どものころ好きだったように思い切りジャンプしたりターンしたりして、飛行装置の操縦を空中バレエとでも呼べそうなパフォーマンスに変えていた。
チップはその姿に顔をほろこばせた。ベンも硬い表情をわずかにゆるめた。くぐもったエンジン音に負けないように口に片手を添えて、ジョナスがチップに呼びかけた。
「見ろよ、チップ! お前の彼女はアリエル(空気の精霊)だ! 曲技飛行隊向きだと思わないか?」
チップがジョナスに叫び返した。
「でもパイロットには向かない。飛行計画書を作るには数学が……わっ!」
いきなり逆さまになったキャットが急降下してきたので、チップは思わず助けにいこうと体が動いた。しかしキャットは完全に機体の動きをコントロールしていた。
「フライディ、私の苦手なもの言いふらさないって約束したのに。嘘つき」
ひとことそう言うと、キャットは再びくるりと回って上昇していった。ジョナスは専門家の目つきでその姿を見送った。
「練習はもう十分みたいだ」
キャットの準備はできたが、どうやってベンを塔へ連れて行くかはまた別の問題だった。
スカイダイビング用のタンデム(二人乗り)ハーネスを装着すればうまくいきそうだが、さっき思いついたことなのであらかじめの用意がない。ロープをつたい降りるヘリボーンはラペリング(懸垂下降)の訓練を受けていない上に高所恐怖症のベンには不可能とみていい。速成パイロットのキャットにも多分無理だろう。
「とにかく何を積んでるか荷室を調べてみよう。手持ちの材料を使って問題解決を図るなんて宇宙飛行士になったみたいじゃないか?」
チップはうきうきした調子でそう言った。困難に遭えば遭うほど楽しむというやっかいな性格だが、こういうシーンでは助けになることも多い。キャットはふと島で過ごした日々を思い出し、ひそかに微笑んだ。
「これでいくか」
「これしかないな」
チップとジョナスがそう言い合って選んだものを見たとたん、キャットは手を打って笑い出した。
「すごいっ、映画みたいな登場ができるね!」
二人が選んだ装備は縄ばしごだった。ヘリが着陸できない凹凸のある場所などで乗降に使われるものだ。
「ベンにハーネスをつけてはしごにカラビナで固定しよう。もし塔内への侵入路が見つかったら、はしごをベンごと切り離す。この操作はロビンがしてくれ。ミズ・モーガンも塔への侵入路も見つからなければそのまま戻ってくる」
「了解」
今にも飛び立ちたそうな顔をしたキャットに、チップが大事な注意をした。
「ベンが振り子のように揺れていたら塔に近づくなよ。石壁の硬さを試したいなら、もっといいものを用意するから」
「ここで振り子の公式なんか披露しなくていいからね。どうせ覚えないから」
生意気を言うキャットを、チップがいきなりぎゅっと抱きしめた。
「ラッキーガール、君ならきっとできると信じてるよ。でも無理はするな」
信頼に顔を輝かせ頷いたキャットに、チップは祈りを込めて口づけた。
キャットを抱きしめたまま、続いてチップはベンに呼びかけた。
「目をつぶっていればすぐに着く。ベンの活躍はその後だ。成功を祈ってるよ」
「お前が弟でよかった」
控えめだが気持ちのこもった兄の言葉に、チップはいつもの人の悪そうな笑みを返した。
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