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068◆遅れてきた人魚姫1011121314151617181920212223242526
 
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 トリクシーは勝手な男たちに腹を立てていた。
 まず伯父が突然の思いつきで、『安全なところで保管する』とトリクシーからとりあげたしるしの箱の行先を、息子ブランドンに決めた。
 その箱がトリクシーのものではないと証明するために本物のしるしの箱が必要だったのに、ベネディクト王子はトリクシーの箱をメルシエの図書室に隠したまま何年経っても返してくれるそぶりすらみせなかった。
 
 だから王子の鼻先からしるしの箱をさらって伯父の前で振ってみせ、二人の鼻を明かしてやりたいと思った。
 王族だというだけで他人の人生を左右する権利があると思うな、と言ってやりたかった。
 
 しかし昨日の午後、メルシエ王宮の図書室でしるしの箱ではなく嗅ぎ煙草入れが現れた時、トリクシーはつくづく嫌になった。
 もうあんな箱に振り回されるのはやめると心に決めた。トリクシーが欲しがるからこそあの箱には価値があるのだ。ならもう取り返そうと思わなければいい。
 トリクシーはしるしの箱の奴隷ではない。しょせんあれは、火事になれば跡形もなく燃えてしまうただの白木の箱だ。
 そう思い切ってみたら自由になれた。何故いままであんなにこだわっていたのかとおかしくなるほどに。
 
 あとはしるしの箱が入れ替わった経緯についてもっともらしい話をでっちあげるか、ブランドンのガールフレンドをうまく焚きつけるかだと思いながら帰国してみれば、伯父が今度はベネディクト王子と結婚しろと言いだした。
 トリクシーの人生を翻弄する二人の男のうちどちらにより多く腹を立てるべきかは決めかねたが、心の中で舌を出しながら伯父にしおらしく頭を下げ、王宮の前からタクシーに乗った。
 伯父はトリクシーがいなくなったことに気付いてせいぜい慌てればいい。ベネディクト王子はトリクシーを待ちたいならいつまでも待っていればいい。
 
 そう思っていた筈なのに。
 トリクシーはその勝手な男の片割れの足をつかんで、隠れ家に引き入れてしまった。
 
「さあ、話というのは何?」
 トリクシーは腕を組み、窓の下の壁にもたれて床に座り込んだベネディクト王子の横に立った。
 片手で白い顔を押さえた王子は話どころか身動きする余裕もないようだ。仕方がないのでトリクシーは王子にくっついた縄ばしごとハーネスを外してやった。
 よく見ればひげも生えているし、上着から覗くシャツもしわになっている。こんなにくしゃくしゃでもセクシーに見えるのだからたちが悪い、とトリクシーは腹立たしく思った。
 
「先祖に、王太子の身代わりになって海に身を投げた弟王子がいる」
 ベンは顔を伏せたまま、何の前置きもなく話を始めた。
「五歳か六歳の頃にその話を聞いて、その晩に見たのが海に身を投げて死ぬ夢だった。それから高いところが怖くなった。身を挺して王太子を守るのが自分の役目なのに、怖がる自分の弱さを恥ずかしく思った」
 ベンがこのことを人に話すのは初めてだった。
 トリクシーは聞けば聞くほどあきれた。
 高いところが怖いくせに、いったい何故縄ばしごにぶら下がって空を飛ぼうと思ったのか。海から崖までは塔の高さの倍はある。下を眺めれば普通の人でもつま先がうずくような場所だ。おそらく弟にそそのかされたのだろうが、よほどの世間知らずでもなければこんな無謀な手段をとろうとは思わないだろう。
 言っていることも何だかおかしい。第二王子の役目は、身を挺して王太子を守ることよりむしろ血筋を絶やさないようその場を離れることではないのか。ちょうど死ぬことを怖がる年頃に残酷なエピソードを聞いて強い印象を受けすぎたのかもしれないが、ベネディクト王子はよほどの理想主義か、強迫神経症なのじゃないかと思った。
 
 しかしトリクシーは自分の意見を胸にしまい、黙ってベンの話を聞いた。話したいと言ったのはトリクシーではない。
 ベンはトリクシーが何も反応を返さないことに頓着せず、視線を落としたまま話を続けた。
 
「本を読んでいる間だけは別の人間になれた。だから本が好きだった。勇気以外に何も持たない若者が運試しに出かけて、途中で出会った人に助けられ、試練を乗り越えて幸運をつかむ物語に胸を躍らせた」
 トリクシーにはベンの告白がどこへ向かうのかといぶかしみはじめた。窓の外に現れた時は結婚の話をしにきたのかと思っていたのだが、ゴールはまだまだ遠いようだ。
「初めて図書室で会った時」
 と、ベンはトリクシーを見上げた。
 不意打ちをくらったトリクシーの心臓が跳ねた。
「あなたは『本当はドラゴンなんていなかったと思う』と言った。昔話をそんな風に考えたことがなかったから、あなたの考えに驚いた。あなたは『昔はお姫様と結婚した人が王様になれるのが当たり前だった』とも言った。それを聞いて、昔話の結末に初めて納得がいった。――あなたのしるしの箱を開けた時は、自分が本当に物語の主人公になれたようだった」
 生まれついての本物の王子がいったい何を言っているんだ、とトリクシーは今度こそあきれはてた。
 本人が知らないだけで彼をモデルにした物語は既にいくつも存在している筈だし、夢見る少女たちの心の中で彼はヒーローとして崇められているに違いないのに。
「あの日の晩、しるしの箱を持って寝た。その晩見た夢はいつもの夢と違っていた。石造りのバルコニーから手すりを越えて海に飛び込むところまでは同じだが、つぶれた甲冑に挟まれて沈んでいくのではなく、海の女王と人魚たちが迎えに来てくれた。……高所恐怖症は治らなかったが、あの晩から悪夢は悪夢でなくなった」
 ベンはトリクシーを見つめたまま、かすかに微笑んだ。
 
 ここにいるのは今までトリクシーの邪魔ばかりしてきたベネディクト王子だ。トリクシーがあんなに何度も返して欲しいと頼んだしるしの箱の代わりに嗅ぎ煙草入れを出してみせた陰険きわまりない相手だ。
 それなのにこんな微笑みを見せられて、トリクシーはどうしていいか分からなくなった。
 
 いつの間にか腕組みが解けていたトリクシーの手を、ベンがそっととらえた。
 トリクシーはとっさに反応できなかった。
「あなたと、あなたのしるしの箱のおかげで悪夢から救われた」
 トリクシーは、今更ふりほどくと格好がつかないと気付いて不本意ながらされるがままになった。
 ベンはトリクシーの手のひらを上に向けて片手で支え、もう一方の手をポケットに入れて取り出したものを乗せた。
「ずっと返さなかったことを、申し訳なく思っている」
 
 トリクシーは手に乗った箱を見つめたまま、全身がしびれたように身動きできなくなった。声も出せない。
 ベンはもう一度片手を自分の上着の内ポケットに戻した。
「こちらもお返しする。アーマンド国王から渡されたもうひとつの箱だ」
 トリクシーの手の上に、ベンがポケットから出した白木の箱がもう一つ積まれた。
 これがトリクシーの再起動スイッチを押した。
「伯父が、これをあなたに?」
 トリクシーは声を取り戻したが、その声には怒りがにじんだ。
「『海の女王の娘たち』は、箱を渡す相手を自分で選ぶのよ。国王だとしても、例えあの人が私の父親だったとしても、そんなことをする権利はないのに」
 ベンは憂いを帯びた表情で、トリクシーの手を支えていた手をひっこめた。
「私も同罪だ」
 
 トリクシーは手が離れてほっとしたと同時に、拒絶されたように感じた。
 トリクシーはそれが気に入らなかった。
 押しかけて来た筈のベンが自分を拒絶することも、自分がそれで傷ついたように感じることも。
 
「そんな権利はないのに、しるしの箱は自分のものだと思い込んでいた。箱の本当の意味も知らずに、セルキーの毛皮のように、それを持っていればあなたを留めておけると思っていた」
 セルキーはアザラシの毛皮をかぶった海の妖精だ。毛皮を脱ぐと美しい女性の姿になり、毛皮を隠せば海へ戻れなくなって人間の男と結婚するという。
 確かに、しるしの箱を隠されたトリクシーのようだった。
「アーマンド国王にしるしの箱を渡された時に目が覚めた。私があなたにしてきたことは彼と同じだ。箱を奪うことであなたを思いどおりにしようとした。あなたが怒るのは当然だ」
 
 トリクシーの箱はベネディクト王子を悪夢から救い、母の箱はトリクシーを望まない結婚から救った。
 どちらもトリクシーが望んで人に預けたわけではない。取り戻そうと必死になった時にはどうしても無理だったのに、あきらめたとたんに二つとも戻ってきた。まるで役目を果たし終えたように。
 トリクシーは運命論者ではない。神秘主義者でもない。自分がちょっと勘がいいくらいで、目に見えない世界があると信じたりはしない。
 ……だからこれはきっと、たまたま偶然が重なっただけなのだ。
 
「アーマンド国王のところに行ったのは、私が箱を隠しているせいであなたが望まない結婚を強いられると聞いたからだ。こんなことで罪が許されるとは思わないが、私がゆがめたものを多少は元に戻せただろうか」
 トリクシーは、必要以上に辛辣な口調で言った。
「相手は変わったけど、相変わらず望まない結婚を強いられてるわ」
 
 気を引き締めていないと、どうして私を留めておきたかったの、どうして私を思うどおりにしたかったの、と訊いてしまいそうだった。
 ほんの少し反省の色をみせたからといって、ほだされてはいけない。
 この、身勝手で陰険かと思えば実はべたべたにロマンチックだった世間知らずの王子は、『海の女王の娘』や『しるしの箱』のような物語に憧れていただけなのだ。だから結婚の話もまるでなかったような口ぶりで、箱を返して寄越したのだ。
 箱は戻ってきた。話も聞いた。これでもう用は済んだはずだ。ひきとめる理由は何もない。
 
 ベンにはトリクシーの言葉に傷ついた様子もなく言った。
「あなたの夫になりたいとは思っていたが、強いるつもりはなかった」
 トリクシーの喉がごくりと鳴った。次の瞬間、トリクシーはぱっと笑顔を咲かせてベンの顔を上から覗きこんだ。
「ああ、悪夢が戻ってくるのが怖いんですね。母の箱でよければお貸ししましょうか?」
 嘲笑されているのは分かっているだろうに、ベンはただ一言、静かに告げた。
「あなたが好きなんだ」
 
 次の瞬間、ベンの顔はトリクシーの視界で水の中の景色のようにゆがんだ。
「本気で言ってるなら、救いがたいわねっ」
 ぽろぽろと涙をこぼしながら強くなじるトリクシーに、素早く立ち上がったベンが腕を回した。
 トリクシーは両手を体の両側に下げて握ったまま、ベンに体を預けようとせず背筋を伸ばし肩を震わせて泣いた。
「大丈夫だから、泣かないで」
 ベンは無理にトリクシーを自分にもたれさせようとせず、ただふんわりと抱いて、低い声でささやきながらそっと髪を撫でた。
「何が大丈夫なのよ、私のことなんて何も知らないくせにっ」
「知っている」
 以前と同じ、アイ・ノウという低い声が聞こえた。
 それを聞いた瞬間、トリクシーはどうして二年前にベンが「アイ・アム・アウェア」ではなく「アイ・ノウ」を使ったのかを理解した。ビアンカ王女のいとことしてトリクシーの存在に聞き及んでいたわけではない、トリクシー自身を知っていると言いたかったのだ。
 トリクシーの髪を撫でながら、ベンは低い声で繰り返した。
「知っているよ、ベアトリクス」
 
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