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068◆遅れてきた人魚姫1011121314151617181920212223242526
 
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「あなたは意味なく微笑んだりはしない。あなたが微笑むのはあなたにとって楽しい時か、そうでなければ相手を魅了しようとしている時だ。構われるのが嫌いで、人と群れない。他人の思惑を気にしない」
 低い声でベンはトリクシーに語りかけた。
 ほんの五分ほどの邂逅まで含めても顔を合わせるのはまだ五度目でしかないのに、ベンはトリクシーの本質をどうやって知ったのだろう。
「頭が良くてしたたかで権威に懐疑的だ。発想がユニークだ。誰も思いつかないようなことを思いつくし、それを実行に移す行動力がある」
 トリクシーはいつしか、ベンの言葉に聞き入っていた。
 
 そこに描かれるのはトリクシーがよく知る自分の姿だった。わかりやすい褒め言葉はないがベンの口ぶりからは、仲の良い友人からも理解されにくい通常美徳とはとられない部分も含めて、ベンがトリクシーを評価してくれているのが伝わってきた。トリクシーをよく知らない男性が称賛しがちな、トリクシーの容貌やスタイルへの言及がないのも信頼できた。
 
「逃げ足が早くて、細いヒールの効果的な使い方を知っている」
 ベンがいつのことを言っているか気付いて、トリクシーがくすりと笑った。あれはキスをした方が悪いのだ。謝るつもりはない。
 髪をなでていたベンの手が、ゆっくりと移動して耳の下からトリクシーの輪郭をなぞりおとがいに添えられた。
「大人になって再会した時、あなたが変わっていなくて嬉しかった」
 
 後になって考えてみても、二人のどちらからキスをしたのかは分からなかった。
 気付いた時には、唇が重なっていた。
 お互いの身体のすきまを埋めないままのキスは、祭壇の前で交わすもののようにどこか儀式めいていた。
 
 そっと離れた唇が、ベアトリクス、と音にならない声でトリクシーを呼んだ。
 何か答えようとしたトリクシーの、声の代わりに出た吐息は途中でベンに引き取られた。
 トリクシーはこの時初めて、二年半前の再会からやり直せたらと思った。そして、自分が何から逃げてきたかを思い出した。
「手を離して」
 トリクシーがそういうと、ベンは回した腕をすぐ解いた。もう少し名残惜しそうにしてくれてもいいのに、とトリクシーは勝手なことを思った。
 
 ベンは何も置かれていない板張りの床と、窓がひとつ切ってあるだけのがらんとした石づくりの空間を見回して聞いた。
「夕べはどこで休んだ?」
「この下に宿坊があるのよ。この塔で瞑想する『海の女王の娘たち』のための」
「よかったら見せてくれないか」
「あまりよく知らない男性を寝室にお招きする習慣はないの」
 トリクシーは警戒するように言った。ベンが苦笑した。
「あなたの寝室に興味がないとは言わないが、他の場所がどうなっているのか知りたいんだ」
「……いいわ」
 きびすを返したトリクシーの後に、ベンが従った。
 窓と反対側の壁際に、床の板張りが四角く欠けた場所があった。近づくと、その穴から下に板張りの階段が続いているのが分かった。ベンは頭をぶつけないよう注意しながら、トリクシーに続いて狭い階段を下りた。
「この塔は瞑想の場だったのか」
「昔は、海の女王の言葉を聞くために『娘たち』が、ここで過ごしたそうよ。『海の女王の娘たち』がここに来るのを止めてはいけないと決まっているの。塔に入ってしまえば外界からは連絡がとれなくなるから、うるさい夫から隠れるためにもっともらしい理由をつけただけかもしれないけど」
 そう聞いて、ベンはトリクシーが何故ここに来たのか納得した。ここは教会などと同じく世俗の権力が及ばない場所、アジールだ。
「本当に、チャンシリーには古い習慣が残っているんだな」
「辺境ですから」
 そう言ってトリクシーは、通路を挟んで並ぶ扉の一番手前を開け、真っ暗な部屋に入って行った。
 中でマッチを擦るシュッという音がして、部屋の中はろうそくの灯で照らされた。
「どうぞ。ここが宿坊」
 ベンは、出てきたトリクシーと入れ替わりで狭いアルコーブのような窓のない小部屋に足を踏み入れた。
 中にはベッドと机と椅子が一つずつあるだけだった。
 壁から突き出ている古い真鍮製の蛇口を見て、ベンが戸口に立つトリクシーを振り返った。
「水道?」
井戸が掘れないから天水桶から水を引いているの。飲むのは薦めないわ」
「食事は?」
「持ち込んだものを。燃料も窓もないから、火をつかった料理は食べられないけど」
 ほとんど見るものもない部屋を一通り観察して出てきたベンが、通路の奥の暗がりを透かすように見た。
「あの向こうは?」
「出口に続く階段」
 そう答えたトリクシーが、にっこりと微笑んだ。
「この塔を出るにはあの階段を降りなくてはいけないのだけど……あなたはキャットに迎えに来てもらった方がいいんじゃないかしら」
 この微笑みが、ベンを魅了するためのものでないことは確かだった。
 
 トリクシーの言葉の意味は、突き当りの扉を開けてすぐに明らかになった。
 四角い塔の中は、煙突のように中空になっていた。真下までの吹き抜けを囲むように、木の階段が壁に添ってぐるり続いていた。入口から入った吹き抜けの玄関ホールを一階とすると、木の階段をひたすら上がったところにある宿坊が二階、その上の見張り場が三階だった。
「……苦情を言える立場ではないが、どうしてこんな構造になっているんだ」
「もとが哨戒塔だったから。入ってきた敵に上から石や油を降らせたら登ってこられないでしょう。宿坊とこの階段は後から作ったもので、その前は長いはしごをいくつも使って登ったそうよ」
 トリクシーはうきうきと語った。困っているベンを見て意地の悪い喜びを覚えているのは確かだが、トリクシーは昔からこの、現代人からみると馬鹿げたつくりの『潮見の塔』が気に入っていたのだ。
 
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