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068◆遅れてきた人魚姫1011121314151617181920212223242526
※連作シリーズのためこの作品から読み始めるのはお勧めしません。シリーズ第一作はこちら、他の作品はFI 時系列からご覧下さい。
 
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 三人が見守る中、近づいてきた車はヘリの横をしずしずと通り過ぎて塔をぐるりと囲む柵の正面に止まった。
 最初に運転手が車から降り、トランクから寄せ木とクジラの骨細工で装飾された優雅な車付の椅子(これをただ『車椅子』と呼んでは間違った印象を与えてしまう)をとり出して広げた。
 準備ができたところで後部のドアを開き、中で待っていた老婦人をうやうやしく椅子へと移した。
「そこの若い方たち」
 椅子に腰掛けた老婦人が、運転手が支える日傘の下から三人を呼ばわった。
 決して大声をあげたわけではないのに、声はまっすぐ三人に届いた。他人を従えるのに慣れた人の話し方だった。
「あなたとあなた」
 と、老婦人はチップとジョナスの顔を順番に見た。
「あの門を開けなさい。あなたは」
 今度はキャットを見て言った。
「塔へ行って、中にいる者を呼んできなさい。エルデストが来たと言えば分かります」
 老婦人はそれだけ言うと、犬でも呼ぶように三人に手の中の鍵を振ってみせた。
 
 チップとジョナスは、一人では動かせない鋳鉄製の門扉を二人で押し開けながら、耳障りな軋み音の合間に会話した。
「なあチップ、どうして俺たち、あのおっかないばあちゃんの言うことに従ってるんだ?」
「僕は困っている女性を見過ごさないように躾けられているし」
 チップの言葉が終わるのも待たず、ジョナスがまぜっかえした。
「あのばあちゃんは困ってる女性には見え『ない』ぞ」
「……お前は軍を辞めるのが遅すぎたんだな。『考えるな、従え』が染みついてるんだ」
「あのばあちゃんは千里眼かよ」
 二人はにやりと笑い交わし、もう一方の扉にとりかかった。大きく事態が動く予感がしたが、しょせん彼ら二人は当事者ではない。いざとなればこの場から逃げる足もある。むしろ、もうすぐ幕が上がる舞台の観客として開演の合図を待つ気分だった。
 
 キャットの方はチップたちが取り組む門のすぐ横の、人ひとり通れる幅のアーチ――こちらには門扉がない――をくぐって敷地内を塔の入口まで歩み、重厚な鉄製の扉に鍵を差して回した。かちりという手ごたえで錠が開いたのを確認し、キャットは昨夜入れなかった『潮見の塔』の中を初めて覗いた。明るい戸外に慣れた目には、石を敷かれた床とがらんとした空間があることしか分からなかった。
 
 開いた扉が、塔の床に長方形の光を届けた。
 あともう百段ばかり下りれば階段が終わるというところで、トリクシーはそれに気づいた。
 扉が開いたということは、鍵を持っている海の女王の娘の一人がやってきたということだ。トリクシーはとっさにベンを隠そうと体でかばった。
「トリクシー?」
 聞き覚えのある声で、トリクシーは緊張を半分だけ解いた。
「キャット、どこから鍵を?」
「エルデストっていう女の人に、トリクシーを呼んできなさいって言われた」
 トリクシーが喉の奥で小さくうめいた。
 エルデストは名前ではなく『海の女王の娘』のうちの最年長の意、つまり刀自の別名だ。
「すぐに伺いますと、刀自に伝えて」
 
 階段下まで降りたところで、ベンがほっと息をついた。
 トリクシーはそれどころではない。自分の荷物を無言でベンに突き出して渡す。おとなしく受け取ったベンの、荷物を持たない方の腕にトリクシーは自分の手をからめた。
「いい? これから私が何を言っても黙って同意して」
「内容によっては同意しかねる」
「困らせないで」
 トリクシーは艶めいた声と微笑みで、ベンを懐柔しようとした。
 が、ベンが顔を覗き込んできたので一瞬で笑顔を消し真顔に戻った。
「何?」
「笑って」
 ベンの要望どおりもう一度笑ってみせたトリクシーは、重ねられた唇を拒まなかった。
 自分でもずるいと思ったが、ロバを歩かせるにはにんじんも必要だ。ずいぶんと……甘い……にんじんが……
 
 トリクシーは喉の奥から出た自分の声に驚いて我に返り、キスを続けようとするベンの胸を押しのけた。
「……食べたにんじんの分は働いてもらうわよ」
 言いすぎかとも思ったが、ベンは満足げにこちらを見返すだけだった。その顔を見てトリクシーは衝動的にベンの足を踏みつけたくなったが、そんなことをしている場合ではないと気付きなんとか思いとどまった。
 
 塔を出たトリクシーは、待ち構える人々に向かってにこやかに微笑んだ。
 滅多に開かれない正門の扉を開いたのは扉の前に並ぶチップとその連れらしい。ベンを焚きつけたのがこの弟だろうと疑うトリクシーは、こき使われていい気味だと思った。キャットは刀自の横に控え、話しかける刀自に前屈みになって何か答えていた。多分、トリクシーと腕を組む男は誰かとでも訊かれているのだろう。
 刀自の前に進み出たトリクシーは、膝を曲げて正式な礼をした。何も言わなくてもベンも同時にトリクシーに合わせ、滑らかに頭を下げた。
「トリクシー、説明しなさい」
 隣にあるのは空気だとでもいうように、刀自はトリクシーだけを見て言った。
「刀自、紹介致します。こちらはメルシエ王国のベネディクト王子殿下で、私の夫となった方です」
 刀自の横でキャットが目を剥いていた。
 その場にいた全員が初耳の話だったが、そういう分かりやすい反応を表に出したのはキャットだけだった。ジョナスは王子たちが自ら奔走していたのはこういうことだったのかと素直に納得してしまったし、海千山千のチップと刀自はぴくりともしなかった。
「昨夜国王陛下のご命令で婚約を決めたばかりだったので、ベンは『海の女王の娘たち』の決まりごとを学ぶ時間がなく、彼は『潮見の塔』のことも男子禁制なのも知らずに、私を追いかけて来てしまったのです」
 トリクシーはつるつると滑らかな舌でもっともらしい話をつくりあげた。
「『海の女王』は、娘たちとの会話を盗み聞きされるのを喜びません」
 刀自は厳しい声で言った。刀自がそこで初めてベンに目を向けたが、それは『ほんの数百年前なら、その先にある崖から突き落としてやれたのに』とでもいうような冷ややかな視線だった。
「本来なら直接女王の許にお詫びに向かわなくてはいけないところです。二度はありませんよ」
 
 意外にもベンがあっさり許されたので、トリクシーがしおらしく伏せた目をきらりとさせた時のことだった。
――しかし、わたくしがここに来たのはそのためではありません」
 トリクシーは、嫌な予感におそわれて反射的にベンの腕を握った。
「トリクシー、ベネディクト王子が受け取ったのはあなたのしるしの箱ではありません。婚姻は無効です」
 
 キャットが思わず驚きの声をもらした。ジョナスも驚いた顔をした。チップはいつもの楽しげな外向きの顔から、何一つ聞き逃すまいという集中した顔に変わった。
 トリクシーも別の意味で驚いた。刀自が何故、そのことを知っているのだろうと。
「刀自、どういう意味でしょう」
「あなたも国王陛下に預けたのが自分の箱ではないと知っていた筈です。あなたの母のベレニスは、失われたあなたのしるしの箱の代わりに自分の箱をあなたに譲ったそうですね」
 刀自は厳しい顔でトリクシーを見つめた。
 トリクシーは自分が最初の手を打ち間違えたことに気付いた。
 
 男子禁制の塔に入ったベンが咎(とが)をうけることが心配で、ベンのことを夫だと紹介してしまった。とりあえずこの場はそれで通して、しるしの箱のことは後で分かったことにして白紙に戻せばいい。彼がチャンシリーに来ることは二度とないだろうし……トリクシーはそんな風に考え、いったんはうまくいったように思えたが、実際には刀自がここに来た理由は全く別のものだった。
 
 刀自が何故トリクシーの箱の秘密を知っているのか訊いてみたいが、しかしそれを訊いたらもうしらを切ることはできなくなる。
 答えられないトリクシーを、刀自は更に責めた。
「それが分かっていてどうして婚姻を交わしたのですか? あなたは『海の女王の娘』の王位継承をそれほど軽く考えているのですか?」
 トリクシーは頬を叩かれたようにはっとした。
 刀自の言葉は真実だった。
 昨夜のトリクシーは、箱のことをただの白木の箱だとうそぶいて国を離れるつもりでいた。王位継承の権利と義務、その両方を捨てるつもりでいた。だから口先だけで婚姻を交わしたなどと嘘がつけたのだ。
 たとえ嘘でも周囲が婚姻を認めれば、ベンは次のタニストリーで国王の後継者として選ばれる可能性が出てきてしまう。
「あなたがしるしの箱を失ったのは、あなたがそれに値しないからではありませんか?」
 畳みかけるように迫る刀自に、トリクシーは一言も返せなかった。刀自の横でキャットが口をはさみたくてじりじりしているのも目に入らなかった。
 トリクシーは軽率で、その場しのぎの嘘を数えきれないほどついてきた。今、その報いを受けている。
「あなたは自分が、『海の女王の娘』と名乗るのにふさわしいと思うのですか?」
 刀自が高圧的に尋ねた。
 
 生まれてからずっとトリクシーが属していた絆が目の前で断ち切られた。
 我が家だった筈のものが黒く焦げた廃墟になっていた時と同じ、絶対になくならない筈のものがなくなってしまった。
 
 ベンまでも、トリクシーが力なく添えていた手を振り払った。
 物語からはじき出されたトリクシーにはもう用がないのだろう。
 手をつないで階段を下りていたあの時の楽しさも幻だったのだ。トリクシーはぎゅっと目を閉じた。
 
「話が済んだのなら、ベアトリクスはメルシエへ連れ帰らせて頂く」
 すぐ前から聞こえた声にトリクシーは驚いて目を開けた。ベンが一歩前に出て、刀自からトリクシーをかばうように頼もしい背中をこちらへ向けていた。
「刀自にひとつ伺うが、彼女がしるしの箱を失ったとご存じだったのなら、何故いたいけな彼女を助けようとしなかったのか。彼女が早くに両親の庇護を失い、誰にも頼れずにいることはお分かりだったはずだ」
 アートとベンの兄弟はどちらも無口だが、アートの場合は言葉を選びすぎて、ベンの場合は自分が話す気がないせいで、とそれぞれに理由が異なっていた。そのベンがこれだけの熱意と怒りを露わにするのは、よほどのことだ。チップも初めて目にした。
 
 トリクシーは、こんな情景に漠然と憧れていた。
 自分をかばってくれるのは気まぐれな母でも、ぼんやりとしか思い出せない父でも、他の誰でも良かった。ただ無条件に自分を受け入れて味方になってくれる人がいたらいいなぁと思っていた。
 大丈夫だから、泣かないで、と呼びかけて手を握ってくれた少年がそうなのかなと思ったこともあった。
 それがまさか今こんなところで実現するとは思ってもみなかった。
 
「少女に一人で重たい責任を負わせて平然としていられる、始祖から連綿と続くという『海の女王の娘たち』はそれほど薄情なのか? もし本当にそうだとしたら、あの箱は何の価値もないただの組木のおもちゃだ」
「そうですよ」
 刀自があっさりと認めた。ベンが刀自に向けて思わず一歩を踏み出した。
「あの箱はただのおもちゃです。箱自体に価値はありません。『海の女王の娘』に、その体を流れる血の他に資格などありません」
「……刀自?」
 トリクシーは、刀自の口調が変わったことに気付いてベンの後ろから出て呼びかけた。刀自はトリクシーを見た。
「ベレニスからは、もし自分が亡くなった後であなたがが意に染まぬ相手との結婚を迫られるようなら、箱の真実を告げてくれと頼まれていたのです」
「母から、ですか?」
 トリクシーは思わず訊き返した。母がそんなにトリクシーの将来を気にかけてくれていたとは、初めて知った。
「もし相手がそれを聞いて引き下がるようなら、あなたにふさわしい相手ではないからと。あなたたちの様子をみる限り、ベネディクト王子は意に染まぬ相手ではないと思ってよいのですね」
 トリクシーは、何故かほてる頬の赤みを気にしながら刀自に答えた。
「ええ……はい」
 トリクシーの目の端で、キャットが会心の記録を出したアスリートのようにこぶしを握るのが見えた。
 
 その後――
 刀自はトリクシーと二人だけでしばらく話した。
 
「国王陛下が箱を手元に置くと決めたので、ベレニスは自分の箱をあなたに譲りました。その方が安全だったからです。幸いベネディクト王子はしるしの箱の真偽にこだわらないようですが、ベレニスの箱ではタニストリー(王の選定)に加わることができません」
「殿下はこだわらないのではなく……」
 トリクシーは、ずっと抱えていた秘密を、ようやく降ろせる時がきたと知った。
「私のしるしの箱を既に持っていたので、あれが本物でないことを知っていたのです」
 それを聞いても刀自に驚いた様子はみられなかった。平然として言った。
「では、代わりの箱は要りませんね」
「代わりの……箱?」
 トリクシーは愕然とした。そんなものがあるならトリクシーは海を渡ってまで自分の箱を取り返しに行く必要などなかった。伯父の言うことなど聞かなくてもよかった。
 刀自はとがめるようにトリクシーを見た。
「あなたはさきほどの話を聞いていなかったのですか? 箱には何の価値もありません。『海の女王の娘』が夫に与えた権利を明らかにするのが『しるしの箱』の役目です」
「では何故っ」
 トリクシーは言いかけて一度止め、深呼吸をして気持ちを落ち着けてから改めて続けた。
「『海の女王が認めた人だけがしるしの箱を開けられる』とされているのですか?」
「現在では『海の女王の娘たち』がタニストリーで選ばれた候補者を承認する儀式のことをいいますが」
「開け方をあらかじめ教わって?」
 トリクシーのあけすけな物言いに、刀自は直接の回答を避けた。
「タニストリーなどというものが始まる前は、しるしの箱を開けることだけが王となる条件でした。その頃の王は海の女王への挨拶に代理を立てたりはしませんでしたから、女王の声も今よりよく聞こえたのでしょう」
 トリクシーの全身が粟立った。
 背中の真ん中を誰かが冷たい手で触れていったようだった。
 ベンが繰り返し見たという夢は、海の女王が島の王を呼ぶ声だったのでは?
 
 トリクシーは思わずベンの姿を捜した。彼は弟とキャットのやりとりから少し離れ、ひとり潮見の塔を見上げていた。
 ふと視線を感じたようにベンが振り返り、トリクシーを見て微笑んだ。日差しに照らされたその姿は穏やかで、しっかりと大地に立っていた。
 トリクシーは詰めていた息をそっとはいた。大丈夫、ベンが海の女王の許を直接訪れることはない。
 一瞬、ほんの一瞬だけ、箱自身に意志があってベンを選んだのではないかと非現実的なことを思ってしまったが、そんな考えはまるでトリクシーらしくない。
 そんなトリクシーを見て、滅多に笑わない刀自の口元が満足げにゆがんだ。 
 
 刀自は話を終えるとまた運転手に車の後部座席まで運ばれ、しずしずと退場していった。
「トリクシー、トリクシー! ベンと結婚するのっ!? それとももう結婚したことになってるのっ!?」
 キャットがトリクシーの周りをぴょんぴょんと跳ねながら訊いた。トリクシーは小首を傾げて考える振りをした。
「申し込まれてもいないのに、そんなこと勝手に決められないわ」
「ベーン!」
 チップが様々な感情のこもった声で兄の名を叫んだ。
「あれだけ頑張ってっ!! まだそこまで行きついてないのかっ!?」
 ベンは軽く肩をすくめて答えた。
「申し込んではいないが、結婚は望まないとは言われた」
「トリクシー!?」
 今度はキャットが様々な感情をこめ、他人事のようにそっぽを向いたトリクシーに叫んだ。
 
 ヘリに戻って出発の準備をしていたジョナスが戻ってきた。
「最寄の飛行場に着陸許可を貰えたから、そこで給油して出国審査を受けたらメルシエに戻れる。乗るのは何人?」
「僕とキャットと……ベンはどうする?」
「もちろん戻る。夜は公務の予定がある」
 当たり前のように答えたベンに、チップはもどかしそうな顔をしてから言った。
「僕たちは先に乗ってるから(彼女とちゃんと話せよ)」
 最後のところは目顔で語ったつもりになって、チップがキャットに腕を回してヘリに向かった。
 
 トリクシーに向き直ったベンが、涼しい顔で訊いた。
「夜中までは公務があるんだが、できれば寝室の窓を開けておいてくれないか?」
「……あんな目に遭ってもまだ懲りないのーっ!!!」
 トリクシーに罵詈雑言を投げつけられながら上機嫌でヘリに向かうベンには、誰がどう見てもチップと同じ血が流れていた。
 
 その晩トリクシーの許をベンが訪れたかどうかは明らかでないが、次の日の朝、王宮に呼び出されたトリクシーの左手には海と同じ色のサファイアの指輪が嵌まっていたとかいなかったとか。
 
end.(2013/01/25)
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あとがき(別ページ)
時系列続き(並列含む)→「072◆夜のカフェで」 →時系列の話(最初から) →時系列以外の話
 
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