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ロビンと僕 2

 約束の一時間が経ってロビンのところへ戻ると、彼女はまた僕を見て悲鳴を上げた。
 女性に「顔が怖い」なんて言われたのは初めてだったからショックだ。
 しかし彼女の反応から、人目に晒されない環境で少しのびのびしすぎていたかと反省した。彼女を見つけたのが、ちゃんと服を着ている時でよかった。

 食欲がないというロビンに自家製のドライフルーツをふるまうと、彼女の腹の虫が鳴いた。空腹は健康な証拠だ。ほっとした。
 何か温かいものでも作ればもっと食欲も出るだろう。火を熾せば彼女が使うマットレスも燻蒸(くんじょう)できるしちょうどいい。

 ここであっという間に火を熾(おこ)せたら海軍軍人として格好もついたんだが、他人が見ている時に限って普段できることがうまくいかない法則に、もう名前はついていたっけ。
 種火をつくるのは(ファイアスターターのおかげで)それほど難しくない。そこから先が問題だ。地面に膝と手をつき、煙に目をしばたたかせながら二人がかりでなかなか燃えようとしてくれない湿った枝が安定して燃えるまで世話をした。

 ようやく消える心配がなくなったところで火の番をロビンに任せ、ホテルの客室からマットレスを一枚引き出してきた。小さな虫たちが安らかな眠りから起こされた驚きで走り回る。ロビンが虫アレルギーじゃなければいいんだが。
 火のそばに戻り、沸いたお湯にホテルの裏に生い茂るハーブを落として彼女にふるまい、マットレスを燻(いぶ)して虫たちに穏やかな退去を願った。

 焚火の向かい側で、両手でカップを持ってハーブティーを少しずつ飲むロビンは実際の年齢よりも幼く見えた。
 本人には言えないが、早く大人になりたくて背伸びするタイプじゃなくて助かったと思った。きっと彼女の同級生の中にはもう、女らしさを猫の爪みたいに出したり引っ込めたりして男を操縦する方法を知っている子もいる筈だ。ロビンはそういう技巧とは無縁にみえる。志向として僕は異性愛者(ヘテロセクシャル)であるし女性の女性らしさを好(この)ましく思うが、庇護(ひご)する相手としてなら女性より子供の方が面倒が少なくていい。
 素直で働き者なのもいい。当然という顔で何でもやってもらうお客様みたいな相手だったとしたら……想像するだけで寒気がする。何が一番恐ろしいって、そういう相手を厳しく突き放す自信がないことだ。
 僕は恋人達のわがままに振り回された過去の自分を思い出した。最後に付き合っていた(僕が振られて終わった)彼女なら多分、火を熾そうと地面に顔をすりつける僕の横で「お茶が入ったら教えて」とでも言ってのんびり爪を眺めていたに違いない。
 あの頃はそれでも全然構わなかった。爪を痛めてまで手伝ってもらわなくても、彼女の望みを叶えるくらいのことは簡単にできたから。でも今は事情が違う。僕に万一のことがあっても一人で最低限死なない程度に生きられる方法を、ロビンには教えなくちゃいけない。

「それ代わるよ。フライディも座ったら」
 ロビンが焚火の向こうから言った。うん、彼女がいい子でよかった。
「大丈夫だから、燻製の魚か果物を食べるといい。お腹空いてるんだろう」
「分かった。ありがとう」
 彼女が今夜使うマットレスから虫が逃げまどうところは見せない方がいい。燻(いぶ)されて逃げていくのを見さえしなければ、最初からいなかったのと変わらない。

 果物を手の中でくるくると回し、ロビンは器用に皮をむいた。
 一つ一つ彼女ができることを確認しては、僕は心の重石を捨てていく。
 ロビンは刃物をうまく使える。大事なことだ。
「持病やアレルギーがあったり、歯の治療中だったりする?」
「ううん」
 僕はその答えにまた心の重石を捨てる。大丈夫、彼女は見た目どおり健康だ。ダイビングをしていた時点で深刻な健康上の問題がないことは予想できたけど、はっきりと聞けたことで安心できた。こんな場所では虫歯だってばかにならない。ひどくなれば痛み止めなしで耐えるのは辛いだろう。僕はなったことがないのでよく分からないが、そういう話を聞いたことがある。

 元々が健康なら、ここで生き延びるのは多分それほど難しくない。今の状態をできるだけ保てばいい。この島に歯ブラシはないが、塩とハーブと新品のデンタルフロスがある。あるものだけでも工夫すれば結構何とかなるものだ。
 ふざけた僕のサバイバルレッスン開始の挨拶に、ロビンはくすくす笑って立ち上がろうとし……ぐらりとよろけた。
 とっさに掴んだ手首が熱かった。焚火からは離れていたのに。

 彼女は熱を出していた。
 さっき捨てたはずの重石が僕の心を上から押し潰そうとした。

 急いでマットレスを敷いてがたがたと震えるロビンを寝かせた。その上にあるだけのタオルやバスローブ、はがしたカーテンを積み上げたが震えは止まらない。つまりこれから更に熱が上がるってことだ。寒いと泣き声で訴える彼女が気の毒で、布でくるんだ身体に腕を回した。
 病気の時は他に何が必要だったか。水、温かい部屋とベッド、着替え、薬と医者――
 僕は彼女には聞かせられない悪態を飲みこんだ。

 少しでも熱を下げようと水を飲ませ、震える彼女を腕に抱えて、泣き言のようなうわ言のような言葉に答えながら励ました。

 どうか普通の熱でありますように。
 神様、さっきの祈りで名前を呼ばなかったことなら謝ります。せっかくこの島に辿りついて、僕と会話まで交わした彼女を奪うような真似をしないで下さい。いや、僕のためじゃなく、こんなに健気に頑張っている彼女をこれ以上辛い目にあわせないで下さい。
 平和な国で、この時代に、毛布一枚なく薬もなく、家族も友達もいない場所で一人で苦しむなんて、たった十六歳の女の子が受ける試練としてはちょっと厳しすぎやしませんか?

 やがて熱が上がりきった彼女が今度は掛布を蹴り飛ばして熱いと言い出した。僕はタオルであおいで風を送った。
 昔の話でこういう奴隷が出てこなかったっけ。フライディなんて名乗ったせいで下僕らしい仕事がやってきたんだろうか。そんなことを考えながらひたすらにあおいだ。手を止めると「熱い」と催促される。彼女は催促しているつもりではなかったと思うけど、他にできることがない僕はあおぎ続けるしかなかった。
 どれ位そうしていたか。彼女の呼吸が穏やかになったことに気付いて額に手を当てた。まだ少し熱っぽかったけど、あの熱はもうなかった。
 ほっとした僕もタオルを放り出し、彼女の横に転がった。

 誰かに呼ばれる夢を見て目を開けると、前に女の子がいた。にこりと笑った女の子を見ながらまだ夢を見ているのかと考えた。
「フライディ」
 そう呼ばれて一瞬で目が覚めた。昨日の記憶も甦った。あわててロビンの額に手を当てたが、もう僕の手のひらの方が熱いくらいだった。
「よかった。下がったみたいだ」
「ありがとう」
 眠そうな目をしたロビンに水を飲ませ、もう少し眠るように言った。
 僕も寝るつもりだったが色んなことを考え始めたら目が冴えてしまったので、一人で起きて道に出た枝を払ったり、運動をしたり……要は今やらなくてもいいようなことをしながら今後について考えた。

 昨日歳を聞かれた時は、とっさに二十九と答えた。あまり若いと頼りにならないと思われそうだと思ったのもあったし、素性が知られるとやっかいだという計算もあった。ロビンは「歳のわりに若く見えるのね」とも言わず、素直に受け入れていた。さすが十六歳、自分と同世代以外に関心はないらしい。

 あとは何を答えたっけ。メルシエの軍人だということは話した。王子だというのはとりあえずここにいる分には関係ないし、このまま言わずにいるつもりだった。僕は若い女性が(若くない女性も)王子様に抱く数々の幻想のおかげで今まで何度もやっかいな目に遭っていたので、この点では慎重にならざるを得なかった。
 そろそろ戻ろうかと思ったところで、そういえばひげが怖いと言われたなと思い出した。サバイバルナイフのハサミで長いところを切り、ナイフの刃を当ててみたけどこれは痛いばかりでちっとも切れなかった。この島で刃物は貴重だから、こんなことのために刃をつぶすのも勿体無い。これで何とか許してもらおう。

 戻るとロビンがまた人の顔を見て悲鳴をあげた。ひどい。
 でもその後で人の顔をまじまじと見つめてひやっとすることを言い出した。
「私……あなたと会うの初めてだよね?」
「デジャヴっていう奴かな。僕と君は生まれる前から出会う運命だった……なぁんてね」
 そう言って茶化すと、赤い顔で目を逸らした。
 そうそう。できればそのままずっと目を逸らしたままでいてくれよ。

 さすが十六歳というか、昨日の熱は何だったのかと思うくらいにロビンは回復していた。食欲も旺盛。果物を美味しそうに食べると、何かやることはないかと訊いてきた。
 僕は紳士としてではなく、新兵訓練の教官式でロビンと付き合うことにした。まず自分のトイレの場所を決めろというとかなり動揺していた。僕だって顔に出さないだけで気まずいのは同じだ。でも大切なことだ。
 この時は軍隊経験があって良かったとしみじみ思った。入隊前の僕だったら、レディに首から下の話題をしてはいけないというマナー教師の教えに従ってお互い困った事態になっていたかもしれない。

 最初の数日はロビンが慣れない手つきで下枝を払う様子や足元を見ないで歩いて躓く様子に、いちいち心臓を押さえながら後ろをついて回った。
 一度派手に喧嘩した後、僕もロビンが特に不器用でもなく、運動神経が悪いわけでもなく、ついでに言うと大人の一方的な命令に反発を感じる年頃であることを理解して、お互いにバディ(相棒)としてやっていく距離が測れるようになってきた。

 こうしてまた、気が抜けないわりに単調な毎日が戻ってきた。
 でもロビンがいる分、以前よりずっといい。
 僕はあまり自分のことは話さなかったが、それを補って充分なほど、ロビンが喋ってくれた。僕がふざけると「もうっ、どうしていつもフライディは私が言ったのと違うことを答えるのよっ!」と怒ってふくれるくせに、黙っていられなくてまたすぐ僕に話しかけてくる。人懐っこさは犬並みだ。

 それでも時々、ロビンは一人でいなくなった。一人の時間が欲しいこともあるだろうと追いかけないことにしていたが、ある日あまり長い間戻ってこないので、どこかで怪我でもして動けなくなっているんじゃないかと心配で捜しに行った。

 ロビンは狭い砂浜の端の方に隠れるようにして、一人で声をあげて泣いていた。

 一人でいなくなった時の全部が全部、泣くためだったとは思わないけど、きっとこれが初めてではないだろう。

 最初に会った日にロビンは二度ほど泣いたけど、それから僕の前で泣くことはなかった。
 ロビンはスーパーガールじゃない。普通の女の子だ。
 僕達はお互いにちょっとずつ相手に腹を立てることもあったけど、ちゃんと仲直りができたし、問題がおきればそれを解決しようと工夫して、小さな楽しみを見つけて二人で笑ったりもできた。僕は時折、ロビンの命まで預かっている重圧に押しつぶされそうな気がすることもあったけど、でもやっぱりロビンという相棒がここにいてくれて本当によかったと思っている。
 だからこそ。
 僕はそのまま一人で泣くロビンを残し、静かに砂浜から立ち去った。

 子供だとか女の子だとか、そういうみくびりは彼女に失礼だ。ここは僕の出る幕じゃない。彼女はできる限り、自分の面倒を自分で見ている。
 自分がこの島に先に着いて、いわば彼女の露払いをして、彼女に一番助けがいる時に手が貸せたことを誰にともなく感謝した。

 ロビンは多分泣いた後の顔を見られたくなかったのだろう。日暮れ前になって、ようやく戻ってきた。僕もロビンの腫れた目には気付かない顔をした。翌朝にはまたいつもの元気でおしゃべりで人懐っこくてちょっと生意気なロビンに戻っていた。

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