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『理想の恋人』と現実

 世間で『理想の恋人』と噂される私の恋人は、実は数学マニアだ。一見外に出て人に囲まれているのが好きなように見えるし、実際に大好きらしいけど、それと同じくらい一人で数学のことを考えるのも好きみたいだ。
 本人は「退屈なオペラを全幕見なくちゃいけない時には非常に有効な気付薬」とか「夜十一時に寝る恋人を持つ男にはどうしても必要な趣味」だとかいいわけしてるけど、時々私といる時でも数学のことを考えてるなと分かる時があって、私はそんな時には数学というものに、しても意味のない嫉妬をする。

「ロビン、これ見て」
 その日フライディは自分の部屋に私を案内し、私をPCの前の椅子に座らせると、後ろからマウスに手を伸ばして画面を開いた。
「なあに、これ?」
「数学専門誌のウェブサイト」
 そう言って、ひとつのリンクをクリックした。なんとかの問題の解法に関する考察、そういうタイトルの下にフライディの名前があった。前書きは数式じゃなくて文章だったけど、書かれた内容は私には難しくてまるっきり理解できなかった。それは私が子供だからというわけではないと思う。私は画面を読むのをあきらめて後ろにいるフライディを見上げた。
「これ、何が書いてあるの?」
「僕が考えた、ある問題の解き方」
「チャールズの定理とか名前がついちゃうの?」
「つかないよ。そんなに画期的な発見をしたわけじゃないから。きっと数年後には、もっと新しい解き方を見つける誰かがいてこれも陳腐になると思う」
 そう言いながら、フライディの顔は得意さを隠せなかった。
「じゃあ今は?」
「どうやら僕が考えたのが世界で一番スマートな方法ってことみたいだよっ! やったよ、ロビンッ!」
 フライディは私を椅子から抱き上げ、その場をぐるぐると回って私に悲鳴を上げさせた。そして笑いながら私ごとソファに着地した。
「あの島でずっと考えてたんだ。自分でもいけると思ってたけど、認められて掲載してもらえたなんてまだ夢みたいだ」
 あんな何もない島で、ふざけたり貝を掘ったり私に数学を教えたりしながら、フライディはそんなことまで考えてたんだ。フライディってほんとに……すごく複雑にできている。
「おめでとう、フライディ」
「ありがとう、ラッキー・ガール。祝福のキスを」
 そう言われて私がしたキスにフライディが応えて、キスの目的が段々変わってきた。そこにメールの着信音が聞こえた。
 フライディが私の背中に回した腕がぴくっと動いた。でもむきになったようにそのままキスを続けるから、噛み付いてやった。
「ロビン? 何するんだよ」
「いいよ、メール見たいんでしょ。見てきたら」
「君の方が大事だよ。メールは逃げないからね」
「逃げるかもよ」
「そうかな」
 なんだ、やっぱり見たかったんじゃない。
 フライディったらいそいそと立ち上がって机の前に立って、マウスに手を伸ばした。
「わおっ!」
「どうしたの?」
 残された私は、ソファにもたれたままそう訊いた。迎えに来たフライディが私を荷物のようにすくい上げ、机の前の椅子に座って私を膝に乗せた。
「見てロビン! 神様からのメールだ!」
 神様がメールアドレスを持ってるとは知らなかった。そこに開かれた短いメールの内容にも、どこにも神様らしいところはなかった。
「どの辺が神様なの?」
「やっぱり君はラッキー・ガールだ。ロビン、愛してる」
 私の話を聞きもしないでフライディが私にキスした。
「数学の神様が、僕の論文をエレガントだって!」
 フライディはそう言ってもう一度キスをした。さっきのキスの続きになりそうなところで、またメールの着信音。
「また神様からかもよ」
 そう言うとフライディがキスをしながらマウスに手を伸ばした。もうっ!
 私はフライディを押しのけた。
「どっちかにして。『ながらキス』なんて嫌」
「ごめん」
 フライディがしゅんとなった。一応私とのキスを優先するつもりらしい。マウスに伸ばした手を私の腰に戻してくれた。

 雑誌に書かれた噂とか、社交界の評判という奴はあまり信用できない。私についてもデタラメばかりだし。

「いったいフライディのどこが『理想の恋人』なのよ。私ぜんぜん分からない。ただの数学マニアじゃない」
「うーん、僕にもよく分からないな。そういえば君以外の恋人には数学の話はしたことないけど」
 ふくれている私に、フライディがわざとらしく『理想の恋人』らしい微笑みを作って答えた。
「そうなの?」
「ああ。だって他の恋人は数学の授業で苦しんだりしてなかったからね。君と違って」

 『理想の恋人』は、真面目な話の途中で人をからかったりしないと思う。

「どうせまた私のこと子供だって言いたいんでしょ」
「ロビン、さっきのメール見ただろ? 僕の弟子であることにもっと誇りを感じてほしいな。今日ウェブに掲載されるって連絡もらったから、君に一番に知らせたくてうちに呼んだんだ。ねえ、一緒に喜んでよ、バディ」
 そう言ったフライディが浮かべた笑顔は、さっきのわざとらしい微笑みよりずっとずっと素敵だった。

 フライディは全然『理想の恋人』なんかじゃない。キスの途中で人をソファに置き去りにして神様からのメールを読みにいったりする数学マニアだ。それに不真面目だし私をからかってすぐ子供扱いする。

 でもなんとかの問題の世界で一番スマートな解き方を知ってる。

 私はフライディの首に腕を回して、軽くキスしてから訊いた。
「フライディ、私と数学とどっちが好き?」
「もちろん君さ、ロビン。数学とはキスできないからね」
 私はもう一度キスしてからまた訊いた。
「キスできなくても数学も好きなんでしょ?」
「もちろんさ。数学は生意気言わないからね」

 フライディは本当にいつもいつも私に失礼だ。でも今度こそちゃんと最後までしてくれそうな、『ながら』じゃないキスに免じて許してあげることにした。
 
end.(2009/02/13)

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