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Night and Day 3(おわり)

5.キャット

 その夜キャットは実家に電話をした。
 
 両親と話すのは一昨日のパーティ以来だった。
 キャットは電話口で母の声を聞いたとたんに強い口調で言った。
「あっ、お母さん! チップに失礼なこと言ったでしょ、名前を書くのが好きかとか!」
「そうだったかしら?」
「こっ……指輪のことも!」
「それはもちろん、あなたみたいな若い娘が似合わない大きな石のついた指輪をしてのこのこ歩いてたら強盗に狙われるんじゃないかと心配だもの」
「『のこのこ』ぉ!?」
「テニスのたびにつけたり外したりしてたら洗面所で失くすかもしれないし。さりげない指輪の方が邪魔にならなくていいでしょう? それとも普段は貸金庫にしまっておくような指輪が良かったの? ……ジャックが私にくれた指輪みたいに、大切なのは気持ちがこもっているかどうかよ」
 父の名前を口にした途端、母の声が柔らかくなった。
 キャットは母に見えないのをいいことに、ぐるりと目を回した。

 キャットが両親のロマンスに目を輝かせて聴き入ったのはもうずいぶん前の話だ。
 いまだにことあるごとに娘にのろけたがる母親の気持ちはキャットには全く分からなかった。
 そこでキャットは強引に話題を変えた。

「あーあと今日学校でこっちに出店する予定ないのかって訊かれた」
 一瞬で、母の口調はいつものてきぱきしたものに戻った。
「たとえ実の娘であっても、そんな店の経営に関わる内部情報を漏らすわけにはいかないわね」
 キャットは塩加減を間違えたスープを飲んだような顔になった。
 どうしてお母さんはお父さんに関すること以外はこんなに意地悪なんだろう、とキャットは情けなく思った。
「……お父さんに代わって」

 キャットがのびのびと育つことができたのは父がいたからこそだ。
 チップとケンカしたときに言い返せるのはたぶん母との口論で慣れているせいだが、だからといってキャットはそのことに感謝する気にはとてもなれなかった。
 もちろん母が自分を愛してくれていることはよく分かっていたけれど……特にあの漂流事故でよくよく思い知ったけれど。キャットが大事な話をする相手は小さい頃も今も、いつも父のジャックになる。

「お父さん。週末は色々ありがとう。領収書貰ったから送る。それと――チップから指輪を貰ったよ」
「うん。よかったな」
 いつものように父は穏やかだった。
 キャットはつい愚痴をこぼした。
「お母さんはチップのこと嫌いなのかな」
 電話の向こうで低い笑い声がした。
「嫌いなわけじゃない。リーはちょっと面白くないだけさ」
「何が?」
「お前がお母さんじゃなくていつもチップの側にばかりつくから」

 ジャックは妻が一言で言い表せない複雑な思いを抱いていることを知っていたが、娘にそれを話しても仕方のないことだし、おそらくまだ理解もできないだろうと思って口にはしなかった。

 そしてもちろん、キャットは両親の口にしない思いを悟るほど大人ではなかったので、迷いもなく言った。
「だってお母さんにはいつもお父さんがついてるじゃない。だから私がチップの味方にならないと」
「もちろんそうだ。そうしなさい。お父さんもお母さんの味方になる」
 ジャックもまた迷わず言った。こういうのを血は争えないという。

 しかしキャットは自分と陣営の分かれてしまった父に、ひとこと愚痴をこぼさずにはいられなかった。
「そうやってお父さんがお母さんのこと甘やかすから、お母さんはいつまでもお父さんにべったりなんだよ」
 ジャックは笑った。
「リーにもそっくりなことを言われたよ。もっともリーの意見では私がお前を甘やかしているそうだが」
 キャットは思わぬところで嫌な血のつながりを実感させられたが、母の意見にはまったく賛成できなかった。この件に関して母娘の見解が一致する日は永遠にこないだろう。


6.チップとキャット――またはロビンとフライディ

 父と、それから母にも最後にお休みの挨拶をして実家への電話を切った途端、キャットの手の中からハッピーバースディのメロディが流れ出した。

 電話を当てたキャットの耳に、明るくて暖かい声が響いた。
「ロビン、今話せる?」
「うん、大丈夫。フィレンザが洗濯に行ってて一人なの」
「……一日中、君のことを考えていた」
 甘い囁きにキャットの胸がふんわりと温かくなった。チップの腕の中にいるようだった。
 ――しかし次の瞬間、電話に向かってキャットは叫んだ。

「ねえ、フライディ、大変なの! 皆が私のこといつもと違うって言うの! 何かあったでしょって! どうしてっ!?」
 一瞬前の甘い空気はどこかへ吹き飛び、チップは電話の向こうで笑い転げていた。
 笑い声の合間でチップが言った。
「明日は髪をブルーに染めて行けよ。皆にいつもと違うって言われてもそんなに動揺しないで済むだろう?」
「フライディ、ねえ、私そんなに変わったと思う?」
「今からブルーのヘアカラーを持って確かめに行こうか?」
「ねえ、ふざけないで。真面目に聞いてるの」
「僕が今までふざけたことがある、ハニー?」

 チップの蜂蜜より甘くとろりとした声に、キャットは氷よりさらに冷たい声で応えた。

「私、今ものすごくフライディに会いたくなった」
「僕は二十四時間いつでも君に会いたいと思ってるよ」
「面と向かって『うそつき』って叫びたくてたまらないの」
「二分で行くよ、ラッキーガール」

 キャットの悲鳴の途中で電話は切れた。携帯電話を手に一瞬固まったキャットだが、次の瞬間から着替えを出すのと部屋着を脱ぐのを同時に始めた。

「ものすごく会いたいって言われたから、嬉しくて飛んできたよ」
 会ったとたんチップに満面の笑顔でそう言われ、キャットは思わず顔をほころばせてしまった。

 車の中で二人は自然に顔を寄せ合いキスを交わした。キスの後も、まだキャットの頬にはチップの手が添えられていた。
「僕に言いたかったことがあるんじゃない?」
「――愛してる」
「いい子だ」
 唇を親指でなぞられたキャットは、不意に泣きたいような不思議な気持ちになった。
「ねえ、私、変わったと思う? そんなに変わるものなの?」
「変わりたくなかった?」
 キャットは横に首を振った。
 照れくさいのもあるし、自分には分からないのに他人には分かる変化がどんなものか不安だったのは確かだ。でも、変わる前に戻りたいかと訊かれたら、答えは一つしかない。

「何があったのかなんて訊かれても言いたくない。でも何もなかったって言うのも嫌」
「何も言わなくていい。分かる人には言わなくても分かるし、分からない人にはどうせ言っても分からない。そういうものだよ。本当のことは僕達二人が知ってる」
「フライディ」
 キャットは胸が一杯になった。
 頬に添えた手はそのままで、チップがキャットの目を覗き込んだ。
「ロビン。明日の朝まで一緒に過ごせる?」
 キャットの頭をちらりとレポートの陰がよぎったが、首はもう勝手に頷いていた。

エピローグ

「念のため訊くけど」
「なに?」
 チップの唇が動くのをぼんやりとみつめ、チップの手から頬に伝わる熱を意識しながら、かすれた声でキャットが訊いた。
「勉強の方は問題ないの?」
「えっ!?」
 思わず声を上げたキャットが大きく身じろぎし、頬に添えられた手がずれた。

 チップは黙ったままで長い間キャットの顔を見つめ、それから溜息をついた。
「ロビン。寮に戻るんだ」
 キャットが信じられないという顔でチップを見返した。
 さっきまで私のことあんなに熱っぽく見てたくせに、どうしてそんなことが言えるの、とその目が強く訴えていた。
 チップは何かに耐えるような口調で続けた。
「危なそうな科目の教科書・演習の課題、何でもいいから持って戻っておいで。僕もできるだけ協力するから」
「フライディ?」
「ほら、急げロビン。僕は一晩中勉強だけして過ごすつもりはないからな」
 最後の言葉で、キャットはぱあっと笑顔になった。
 素早く車を降りたキャットが寮の玄関へと飛ぶように駆けていくのを、チップは運転席から見送った。

「あれで変わってないつもりなんだから恐れ入ったね。百万カンデラの照明弾みたいな笑顔で誘われてるっていうのに、僕はこれから本当に勉強を手伝わなきゃいけないのか? おあずけをくらった犬は多分こういう気持ちになるんだろうな」

 皮肉な口調と裏腹にゆるむ頬をひきしめようと苦心しながら、チップは恋人の姿がいつ現れるかと、閉まった扉をじっと見守った。

end.(2010/05/21)

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