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今日よりいい日 2(おわり)

 カウンセラーは『無理に聞き出そうとせず、でも本人が話をしたくなった時にはちゃんと聞いてあげて下さい』と言った。

 そのアドバイスに従って、リーは淡々と食事の準備をして食べさせ、後は娘を自由にさせていた。
 キャットが人ごみにひるむ様子を見せたので、定期的なカウンセリングの他には無理に外出させようとせず、ただ夜中に車で行き先を決めないドライブに連れ出したりした。

 このカウンセリングも大使館の手配したもののひとつだった。
 カウンセラーによってスキルに大きく差がある云々といった説明に嘘はない筈だ。しかしリーもジャックも昨日生まれた訳ではない。きっとどんなにプライバシーが守られると保証されていても、キャットのカウンセリング結果は隣国のその筋に伝わるのだろうと思っていた。
 それでも彼らがその申し出を受けたのは、そのカウンセリングが最高であることに間違いはないからだった。

 しばらく経ったある日、キャットがCDを買いに行きたいと言い出し、リーが付き添って買い物に行った。
「考えていたより簡単だった」
 帰りの車中でキャットはぽつりと言い、それから毎日少しずつ外出する時間が増えていった。

 CDや小物、洋服など、キャットが出かけるたびに増えていった部屋の中の荷物はある日すべて大きな箱にまとめられた。

「お母さん、これ全部どこかにしまっておいて」
 昼食が出来たとキャットを部屋に呼びにいくと、ちょうど箱の蓋を閉めたキャットがさっぱりした表情で言った。

「それは――もう家でケーキビュッフェをしなくていいってことかしら」
 リーが入口に立ったままそう言うと、キャットは弾けるように笑い出した。
 キャットのこんな笑い声を、リーはずいぶん久しぶりに聞いた。

 キャットはもうひとしきり笑ってから、不意に真顔になった。
「私のことで、お母さん達に迷惑かけていない?」
 迷惑をかけたか、ではなく、かけていないかと現在形で訊いたのは、無遠慮な取材や無許可の写真撮影のことだろう。
 つまり、そのことを自分から口にできるほどキャットが快復したということだ。

「いいえ。そういう意味では、私たちもあなたに『ベーカーズの娘』ということで迷惑をかけてない?」
「全然、そんなことないよ」
「よかったわ」
 首を振って否定するキャットに、リーが笑ってみせた。

 実際にはキャットにとって名の知れたベーカリーの娘であることが不利益をもたらしていることをリーは知っていた。
 『ベーカーズのお嬢さんですよね』と声をかけられたら、キャットはその呼びかけを無視するわけにはいかないからだ。
 同じ理由で両親と店に影響を及ぼしたことにキャットも気付いている筈だ。
 しかしお互いその事実を認めないのだから、相手の謝罪を受け入れる余地はない。

 昨日よりよくしゃべるキャットとリーで昼食を済ませた後、キャットはテーブルについたまま白い線が入った自分の爪を見つめていた。栄養不足だった無人島生活の名残だった。
 それからひとりごとのように言った。

「……私たちは、全然そんなんじゃなかったのにね」
 リーはあっさりとした言葉を返した。
「そうでしょうね」
「お母さん、あのね」

 一旦言葉を切った娘をリーは無理に促そうとせず、磁器のカップから紅茶を一口飲んだ。
 リーはカジュアルな食事の時も口の部分が薄い磁器のカップを使うのが好きだった。

 キャットはやっと言いたいことを整理できたらしい。再び口を開いた。
「帰ってきた時に病院でお母さんが、『私の娘がいいえと言ったらそれはいいえの意味よ』って言ってくれたでしょ。あの時は分からなかったけど、お母さんってすごいって、後から思ったの。私だったら自分の娘に言えるか分からない」
「そう? 私が言わなければジャックが言っていたでしょうね」 
「すごく嬉しかった」
 リーは目を伏せたままのキャットの手をテーブル越しに握った。
「ねえ、キャット。あなたを知らない人が何を言っても傷つく必要はないのよ」
「……きっと王子の婚約者も、分かってくれてるよね」
 リーはその言葉に込められた娘の切ない思いを感じ取って眉をひそめたが、顔を上げないキャットは気付かなかった。

「私、何もできなくって恥ずかしかったな」
 リーが握る手に力をこめた。
「あなたは素直で快活で礼儀正しい、一緒にいて気持ちのいい娘よ。あの人はあなたと一緒で運が良かったのよ。もしあなたが反抗期真っ最中だったら毎日が憂鬱になったでしょうし、例えば、そう、ミセス・フォーンと一緒だったら、きっと毎日お天気の愚痴を聞かされてたに違いないわ」

 毎日ベーカリーに来てはどんな天気の日にも必ず愚痴を言って帰るお客の名を聞いて、キャットが声を立てて笑った。
「フライディ……彼と一緒だったらきっとミセス・フォーンはいらいらしたと思うよ。本当に嫌味なくらい明るいんだから。前にも話したかもしれないけど」

 いつの間にか顔を上げ明るい表情で話し始めた娘に相槌をうちながら、リーはあいまいな微笑を浮かべた。
 どうしようもない憤りを顔に出さないだけの分別はあった。

 『あれ』はどうして自分が『ロビンソン・クルーソー』になってこの子を『ガール・フライデー』にしてこきつかってくれなかったのかしら。
 それとも最初から自分が王子だって告白してうんと気取った喋り方で感じの悪い態度をとるとか、それが駄目なら軍隊式にしごくんでもよかったわ。
 確かにこの子は子供っぽく見えただろうし年にしては考え方も幼いけれど、下僕のフライディなんて呼ばせてこんな風に信頼させてから実は王子だったと明かしたら、若い娘が自分を好きにならないわけがないってどうして解らなかったのかしら。『あれ』がもっと役立たずだったらよかったのよ。

 理不尽なことは自分でも分かっていた。おそらく彼がリーの望んだ態度のどれかをとっていたとしたら、リーは怒り狂っただろう。
 およそ無人島で一緒に過ごすならこれ以上望むべくもないような相手だったことに腹を立てることが間違っていることは分かっている。しかし怒りというのは理屈では割り切れないものだ。

 『あれ』が王子様で良かった点が少なくとも一つだけあるわ。もう二度と会うことがないってことよ。
 最後に心の中でそう吐き捨てたリーは、しかし間違っていた。

「明日の午後、少し外出をする」
 ジャックの言葉が少ないのはいつものことだ。食べ物を扱う作業中は必要最低限しか喋らないから、それが習慣になったのだと言う。
 物静かな夫が不意に見せる笑顔を愛するリーが、無口な夫に不満を抱いたことはない。
「構わないかな?」
「ええ。もちろんよ、ジャック」
 そう答えたリーは不意に寒気を感じて身震いをした。
 自分のお墓の上を誰かが歩いたようだ。

 翌日の夜、帰ってきたジャックは言った。
「今日、チャールズ王子に会ったよ」
「ジャック、今なんて?」
「もう一度言おうか?」
「……いえ、続けて」
「王子はキャットを騒動に巻き込んで、名誉を傷つけたと詫びてくれた。それから、キャットが元気にしているか気にしていた」
「『この上もなく元気だ』って言った?」
 素早く訊いたリーにジャックが微笑んだ。
「リー。おいで」
 リーは少しためらってからジャックの傍に立った。
 ジャックはリーを促して一緒にソファに座り、リーの顔を見て笑った。
「リオーナ、リオンソー。そんな顔をするものじゃない」
「キャットのことなんかとっくに忘れてると思ったのに」
「そううまくはいかないようだよ」
 ジャックが話しながらリーを抱き寄せた。リーは素直に頭を夫の肩に乗せた。

「いつか周囲が落ち着いたら、キャットを招いて話がしたいと言っていた。『できれば好意以上のものを得られるように努力してもいいか』と訊かれたよ」
 ジャックの肩に頭を乗せていたリーが、大きく身じろぎをした。
「あなたが何て言ったか分かってるわ。『特に言うべきことはない』でしょ」
「不満か?」
 リーが勢いよく顔を上げた。
「もちろんよ。何か一つでも満足できる点があるっていうの? キャットにはずっと生まれや財産で人を判断してはいけない、大切なのはその人自身よって教えてきたのに、キャット自身にだって自分の気持ちが信頼や憧れじゃない本当の愛情かどうかまだ分かってないのに、よりによって王子なのよ? 試しに一度デートしてみたらって言う気にはとてもなれないわ。だいたい二十三なんて信頼するには若すぎるし十六の娘には大人すぎるわよ」
「君が私の店に初めて来た時も二十三だったよ」
「だからこそ言ってるのよ。ろくでもない年齢だわ」
 きつく眉根を寄せたリーをジャックが愛情を込めて見つめた。
「結果として正反対の道を進むようにみえるかもしれないが、キャットは君の教えをちゃんと身につけたように思うよ、リー」

 そして予告どおりある日キャットが王子に招かれ、その日の夕方、幸福に顔を輝かせて帰ってきた後でも、リーはまだ不満だらけだった。

 表立って反対する様子は見せなかったが王子のことはジャックに任せ、できる限り彼に会わずに済むように予定を引き伸ばした。
 が、とうとうある日ジャックから彼を家に招待すると言われて逃げられなくなった。

 玄関に来客を迎えに行ったジャックが、スーツ姿の男性を連れて応接間に戻ってきた。リーも嫌々ながら笑顔を作り入口まで来客を迎えに立った。
「チップ、こちらが妻のリオーナだ。リー、こちらは肩書きなしのチップだ」
「はじめまして、チップ。ようこそいらっしゃいました」
「お会いできて嬉しく思います、ミセス・ベーカー。何とお呼びすればいいですか?」
 微笑んだチップに、リーは驚いた顔をしてみせてからにこやかに答えた。
「皆さん『ミセス・ベーカー』とおっしゃいますけど、ミセスを使うのがお嫌いでしたらミズでも結構ですわ」
 チップの目が楽しそうに輝いた。リーはその顔を見ただけで、チップが思っていたとおりの人物であることを悟った。
 内心でもっとくみしやすい人物であればよかったのにとほぞを噛むリーに、チップが言った。
「キャットの話から想像していた通り、素晴らしいお母様ですね」

 つまづいた振りをしてハイヒールで踏みつけてやろうかしら、と一瞬考えてリーは思いとどまった。
 この男ならきっとうまくよけてから「そんなに緊張なさらないで下さい」とか何とか親切ぶった嫌味を言うに決まっている。
 ああ、窓から突き落としてやりたい。

 リーは足を踏む代わりに、極上の笑顔を浮かべてチップに尋ねた。
「もしあなたに会えたら訊きたいと思っていたんだけど、どうしてあなたが『フライディ』でキャットが『ロビン』なの? 後から来た方がフライディじゃないの?」
「彼女を『フライディ』なんて呼んだら、僕の居場所はここではなくあのあたりになったでしょうし」
 チップは窓の外、ちょうどリーが彼を突き落としてやりたいと思ったあたりの中空を指してそう言ってから、リーに負けない極上の笑顔を返した。
「実をいうとロビンソン・クルーソー役に飽き飽きしてたんです」
 リーはぐっと喉の奥の何かを飲み込んだ。

 ――そう、これだけはどうしても言わなくてはいけない。

「あなたが娘の面倒をみて下さったことに、まだお礼を申し上げていなかったわね」
「必要ありません。僕は彼女のフライディですから当然のことです」
 チップはあっさりそう言って話題を変えた。
「そういえば僕もお訊きしたいと思っていたことがあったんです。どうして彼女は『ロビンソン・クルーソー』を読んだことがなかったんですか?」
「冒険小説の類からは注意深く遠ざけておく必要があったからよ」
 リーが重々しくそう告げた途端、チップが気持ちのいい笑い声を弾けさせた。

 その声を聞きながらリーは思った。
 そう、ジャックのような男性でないことは残念ではあるけれど、ジャックのような男性が二人といるはずがないからそれはやむを得ないだろう。
 少なくとも笑い声は気持ちがいい。もちろんジャックには敵わないが。

 そこまで考えて目を上げたところで、リーは自分を見守るジャックの視線に気づいた。ぎりぎり及第点よ、と目で語ると、ジャックが微笑んだ。
「では、キャットを呼んできますわ」
 リーはお茶の支度をしてからそう言って席を立った。

 ドアが閉まったとたんに中で笑い声が重なった。人が部屋を出たとたんに笑い出すなんて、と減点しかけたものの――自分の部屋で呼ばれるのを待っていたキャットの顔を見てそれを思いとどまった。

 恋人の初訪問に緊張して白い顔をした娘に、リーは励ますように微笑んで言った。

「キャット、応接間にいらっしゃい。あなたのフライディが来ているわ」

end.(2010/11/21)

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