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2nd. セメスター 3(おわり)

 チップはすぐに車を道端に寄せて停めた。そしてキャットの目を覗き込んだ。

「誤解のないように言っておくけど。毎回違う女性と一緒なのは、同じ相手と出かけて噂になるよりましだと思ったからだよ」
「私もそうだと思った」
「なら一人で出ればいいじゃないって思うかもしれないけど、よく知らない相手を何人も紹介されるより、知ってるパートナーがいた方が安全なんだ」
「分かってる。別に疑ったりしてないよ。いいよ、走って」
 チップはキャットの手をとってキスを落としてから、再び車を出した。
「君の方はどう? 試験の日程は発表になった?」
「うん。レッシング教授はやっぱり最終日で小論文提出だった」
 ファースト・セメスターで単位を落としかけたいわくつきの講義は、今期末も小論文の提出だった。
「頑張れよ」
「うん」
 
 それからしばらくはデートもなしでキャットは試験勉強に専念した。
 持ち前の集中力で暗記ものは何とかつめこんだが、レッシング教授の小論文には今回も苦労した。資料を揃えて書き始めてはみたものの、どうまとめればいいか結びを思いつかない。
 試験前夜だというのにまだ書きかけの文章を眺めるうちに、キャットは既に書いた部分も前提が間違っているんじゃないかと思い始め、頭は回らず気ばかりが焦り出した。
 
 電話の着信音にキャットはPCの横に置いた携帯電話を無造作に取り上げた。
 キャットの母、リーのてきぱきした声が耳に届いた。
「今週末は帰ってくるの? そろそろ試験も終わるでしょ」
「まだだよ。小論文が終わらないんだもん。お母さんがもっと賢く産んでくれたらよかった」
 キャットは尖った声で言った。
 明らかな八つ当たりだった。

 リーは大きな声のひとりごとを言った。
「母親ってわりに合わない仕事よねぇ。良いところは全部子供自身の頑張りで、悪いところは全部親のせいにされちゃうんだから」
「ごめんね。小論文が終わらないのも、チップに勉強しろしろ言われて遊びに行けないのも全部私の努力が足りないせいですよー」
 キャットの憎たらしい言い方をたしなめる代わりに、リーは声を立てて笑った。
 ひとしきり笑ってからリーは言った。
「馬鹿ね」
 
 キャットはかちんときて言い返した。
「生まれつきだよ」
「馬鹿って言ったのはあなた達二人のことよ。キャット、あなた留学する時にジャックに何て言われたか忘れたの?」
「お父さんに?」
「私達はそんなこと期待してないわよ」
 キャットは何を言われているのか分からなかった。

 リーが噛んで含めるようにして説明した。
「ジャックはあなたに『足場を固める意味で』って留学を勧めたはずよ。わき目もふらずに勉強して優秀な成績を修めたけど友達をつくる暇もなかった、じゃ困るのよ。友達と知り合いを増やしてこちらで出来ない経験をするんじゃなきゃ、わざわざそこに留学した意味がないでしょ」
「でもチップは」
 キャットは言いつのったが、リーはとりあわなかった。
「それはあの人からしたら自分が留学を勧めて最下位じゃ困るんだろうけど、私達がいいって言ってるんだからいいの。どうせ最近のゴシップの原因もそれなんでしょ」
 
 キャットとしては親からもう少しは期待してほしいところもあるにはあるのだが、あっさり最下位でもいいと言われたことで、蜘蛛の巣のように顔の前に張り付いた見えない焦りがすっと引いた。
 そして気付いた。
 母が心配していたのは試験の方ではなくゴシップの方らしいと。キャットはあわてて恋人をかばって言った。
「全然お母さんが心配するような話じゃないからね? チップはただ私の勉強を邪魔しないようにって」
「あなたから見たらチップは大人かもしれないけど、私達から見たらあなたも彼もたいして変わらないわよ。彼の判断が絶対じゃないわ」
 キャットは、思いがけない母の言葉に目を瞠(みは)った。
 
「いい、キャット?」
 リーが普段は使わない柔らかい声になった。
「二度と会えないと思った娘がぴんぴんして帰ってきただけでもう、私達の期待以上なのよ? あまりむきになって勉強ばかりせずに、ちゃんと遊びにも行きなさい」
「……ありがとう、お母さん」
 そしてリーは普通の声に戻った。
「もしチップがまだ何か言ってきたら私に電話するように伝えて」
「えっ!」
 悲鳴のような叫びをあげた娘に、リーが笑って言い足した。
「ジャックにでもいいわよ」
「分かった」
 
 またもや母に言い負けたような気はするものの、電話を切ったキャットの気分は先程よりずいぶんと上向きになっていた。

 一度うーんと伸びをして気分を改めたキャットは、再び書きかけの小論文に取り組んだ。
 
 その晩やっと書き上げて持ち込んだ小論文を元に口答試験を受け、キャットはセカンド・セメスターを乗り切った。
 結果が出るには数日かかるが、もうキャットのやることは終わった。

 キャットは消耗しているものの晴れやかな顔つきで試験会場を出た。
 
 今頃チップはエド達と一緒に船上パーティに出ている筈だった。
 あともうちょっと出航が遅ければキャットも間に合ったのだが、この徹夜明けの状態でアルコールを口にしたらすぐ眠くなりそうだし、と負け惜しみで考えて自分を慰めた。 
「まあいいか。電話だけしておこう」
 
 メッセージを残すつもりでキャットがかけた電話は、呼び出し音二回で相手が出た。
「フライディ?」
「ロビン、どうしたの?」
「試験終わった。心配してくれてたから知らせておこうと思って。ありがとう」
「どういたしまして」
 電話の向こうとこちらで、穏やかな沈黙が流れた。
 キャットは今日のパートナーは誰なんだろうと思ったものの、その問いは口にしなかった。
「今日は海に出たら気持ちいいだろうね、いいなぁ。楽しんできてね」
「君と一緒にいる時ほどは楽しめないと思うけどね。その辺に魔法使いはいない?」
 チップの問いに、キャットが笑って答えた。
「うん。残念だけどかぼちゃの船も見当たらない。試験が終わらなかったくらいじゃ魔法使いのおばあさんもさすがに同情してくれないよ」
「なら指輪の精に頼んだらどうかな」
 キャットが笑いかけて、ふと真顔になった。
「フライディ、どこにいるの?」
「指輪をこすれば呼び出せるよ、ご主人様」
「えっ!?」
 きょろきょろと辺りを見回したキャットは、廊下の向こうで携帯電話を耳に当てて手を振るチップを見つけた。
 
「どうしたのっ! パーティさぼったのっ!? 私のせいっ!?」
 キャットが焦る様子を見聞きして、チップが笑いながら近づいてきた。
「違うよ。勉強しろって言っておいて、その僕が怠けたら君は怒るだろう? 今日は別件で出航に間に合わなくなりそうだったから欠席にしたんだ。まだ指輪をこすってないなら、君のせいじゃないと思うよ」
 キャットはほっとして、とたんに嬉しくなって恋人に駆け寄った。
「会いたかった!」
「僕もだ」
 チップがキャットの顎に軽く触れて上を向かせた。
「君はこの後なにか予定がある?」
 キャットが幸せそうに笑った。
「うん。フライディにうんと優しくしてもらうの」
「偶然だね。ちょうど僕もそうしたいと思ってたんだ」
 
 そして――――
 
「次は?」
「アイスクリーム」
 二人の隠れ家でキャットはチップの膝に乗り、銀のトレーに並んだ果物とチョコレート、それにアイスクリームとシャンパンを順番に口まで運んでもらっていた。
 キャットは雛鳥のように口を開けるだけでよかった。

「幸せ」
「僕もだ」
 キャットを甘やかしているチップも、甘やかされているキャットと同じくらい幸せだった。
 キャットが口を開けるたびにチップは原始的な幸福を味わい、愛する人に食べ物を運ぶのがキスの起源だという説を思い出していた。
 
エピローグ

 やがてキャットは眠そうにチップの胸に顔をこすりつけた。

「私もベスみたいにフライディとクラスメイトだったら良かったな」
 ちょうどいい場所に頭を落ち着けてからキャットがまた続けた。
「そしたらもっと一緒にいられるのに」
 
 チップは恋人の頭の上にキスをして、低い声でささやいた。
「僕はあの島で十六歳の君に会ったのが十六歳の僕じゃなくてよかったと思ってるよ。そんなことになったらきっと二人で途方に暮れてた。プライドと自信ばかりで何もできないただの王子が君に気に入ってもらえたとは思えないな。それにもしあの時の君が大人だったら」
 腕の中からは返事の代わりに、寝息が聞こえてきた。

「……いつか続きを話すよ。おやすみ、ロビン」
 
 チップは眠りながら微笑む恋人を抱き上げると、アイスクリーム味のキスをつまみ食いしてから寝室へ向かった。
 
end.(2010/07/29)

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