前へ もくじ 次へ

日没前の一瞬

※一話完結。「Venerdi」の後日譚になります

 
 もし本当に大切な相手と先に出会っていなければ、きっと今この場所でキャットはこの人に恋をしていた筈だった。
 
(でももう私はフライディに出会っているから)
 
 その恋が一瞬のものなのかずっと続くものなのかは分からない。でもその恋をのがしたことを、キャットは惜しいと思わなかった。
 
 心の奥を覗くような瞳に惹かれたことは確かだったが、キャットはまつげを伏せる代わりににっこりと微笑み、不真面目な個人教授から教わったイタリア語のフレーズを口にした。
 
 カルロが自分の手で目を隠した。
「何てことだ」
 そのままくすくすと笑い出した。
「誰に教わったの?」
「恋人から」
 
 その返事にまたひとしきり笑ったカルロが、目を上げてキャットに海を指し示した。
「ほら、夕日が沈むよ」
 キャットは夕日の輝きがとろけたように水平線に広がっていくのに見とれた。

 それはほんの数秒で全て海の底へと沈んでいった。

 キャットが溜息をついた。隣にいたカルロは塀から降りてキャットに手を差し出した。
「足元が暗くなる前に戻ろう」
 カルロの口調にはもうさっきの視線に込められていたものはなかった。
 キャットは素直に手を借りて塀から立ち上がり、パラッツォへの道を二人で辿った。
 
「お帰りなさい。今夜で最後なんて寂しいわ。必ずまた来るって約束して」
 迎えたフィレンザにキャットは笑って頷いた。
「うん、約束する」
「楽しんでもらえたかしら」
「本当に楽しかったし、ここが大好きになった。招いてくれてありがとう、フィレンザ」
「本当はもっと長くいて欲しかったのだけど……」
 フィレンザが残念そうに言ったが、キャットは柔らかい微笑みを浮かべて少し目を伏せた。
「うん」
 その一言で何か通じたものがあったのだろう、フィレンザがキャットをぎゅっと抱きしめた。
 
 翌日、フィレンザとカルロに空港まで送ってもらったキャットは、フィレンザに付き合ってもらっていかにもな土産物や化粧品などを楽しく選んでいた。
 そろそろ搭乗手続きが始まる頃、少し前にフィレンザに何か告げていなくなったカルロがスーツ姿の男性を連れて戻ってきた。
「もうお買い物はお済みでしょうか。航空券をお預かりします」
 キャットが何のことだろうと理解できないうちに、その男性がさりげなくキャリーケースを持ち上げた。
「こちらもお預かりして宜しいでしょうか」
「なっ、何ですか?」
「VIPサービスを頼んであるから、後は任せていい」
 カルロがキャットにそう告げてエスコートに頷いてみせた。促されるままに航空券とパスポートを差し出したキャットは、呆然として彼の背中を見送った。

 やがて手続きが終わってエスコートが戻ってきた。キャットはフィレンザからはハグつき、カルロからは手の甲へのキスつきの別れの挨拶を受け、エスコートに連れられて外交レーンを通り、フィレンザの故郷を後にした。
 
「夢、みたいだったな」
 
 飛行機の、何故かファーストクラスに変更されたシートの上でキャットはひとりつぶやいた。
 パラッツォのひんやりとした朝、猫足のバスタブ、二十人もいる親戚、毎回一時間以上かかるにぎやかな食事、音楽のような異国の言葉、それにあの澄んだ海の色、沈む夕日の色、黒い瞳……
 
 やがて飛行機はキャットの地元の空港に着陸し、空気を震わせてハッチが開いた。
 イタリアから運ばれてきた空気と外の空気が混ざり合い、キャットはカテリーナからキャサリンに戻り、夢から現実に戻ってきた。
 
 思い出の詰まったキャリーケースを引いてゲートを出ると、見慣れた笑顔があった。
「フライディ!」
「おかえり、ロビン」
 キャットは用心も忘れて荷物をそこに置いたまま走り出し、チップの腕の中に飛び込んだ。
「会いたかった」
「僕もだ」
 その場でしっかりと抱き合ってキスを交わす若い恋人達を、周囲は無関心に、または微笑みながら避けていった。

「イタリア男に口説かれなかった?」
「それが! 本当に口説かれたよ!」
 チップが顔をしかめた。
「やっぱり心配してたとおりだ。一人で行かせるんじゃなかった。シャペロン(未婚女性の付添い役)は現代にも必要だと思うんだ」
「何言ってるのよ、フライディ」
 キャットはけらけらと笑った。
 キャット自身も行き帰りだけとはいえ初めての一人旅だったので少し緊張していたのは事実だけれど、チップはちょっと過保護すぎるんじゃないかと思った。帰りの便名は教えたが出迎えを頼んだ覚えもなかった。
 この空港からキャットの実家までは三十分とかからない。チップが二時間以上かけて隣国から来る必要などなかった……会いたいという理由以外には。

「行く時には何も言ってなかったくせに」
 キャットが幸せそうな目つきでチップを見上げると、何故かチップは目をそらした。
「君が楽しみにしてたし、キャリーバッグひとつで友達の家に遊びに行けるのも、そう長い間のことじゃないし」
 
 じわじわとキャットにも言葉の意味が沁みこんでいった。いつかそのうちキャットも、あのVIPサービスを眉ひとつ動かさずに受けるようになるのだろうか。

「フライディ、大好き」
 キャットは恋人の体に回したままだった腕に力を込めてぎゅっと抱きついた。
 一瞬息ができないほど強く抱き返され、幸せで眩暈がした。
 すぐに力を抜いて、いつもの余裕ある微笑みを浮かべたチップがキャットを見下ろした。
「これから君をさらうつもりだけど、いいかな」
「駄目って言ったらどうするの?」
「言わないよ」

 その自信たっぷりな笑顔の奥に、あの時カルロから感じたのと同じ熱を感じたキャットがふっと微笑んだ。
 
 いきなりチップが顔をしかめた。
「今、誰か別の奴のこと考えただろう」
「――なんでわかったのっ!?」
 口を押さえる暇もなくキャットの口から言葉が飛び出していた。チップが感じの悪い微笑を浮かべた。
「これはどうしたって帰すわけにはいかないな。ゆっくり話を聞かせてもらおうか」
「なんにもないよ、何もない」
「当たり前だよ。あってたまるか」

 しっかりと手をつないで出口に向かいながら言い争う恋人達を、周囲は無関心に、または微笑みながら見送った。
 
end.(2010/02/22)

前へ もくじ 次へ

↑ページ先頭
 
inserted by FC2 system