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宇宙よりもっと 5

「貸して」
 声にひるんだキャットの手から、ケイトーがさっと電話を取り上げた。

「チャールズ王子ですか?」
「君は誰だ。この電話の持ち主はどうした?」
 キャットが今まで一度も聞いたことのないような硬い声が、携帯電話から漏れ聞こえた。ケイトーはあっさりと答えた。
「キャットはここにいます。元気ですよ。俺が誰かはきっと分かってるんじゃないですか? あなたに特別なお願いがあるんです。きいてもらえますよね」
 ケイトーがチップの答えを聞き、無言でキャットに携帯電話を渡した。
「えーと……ごめんね、心配かけたみたいで」
「ロビン、今の状況を説明してくれ。どこで何をしてる?」
 チップの声はさっき聞こえたのとは違ってずいぶん穏やかだ。穏やか過ぎるくらいだった。『状況を説明』なんて妙な言い方だと思いながらキャットは素直に質問に答えた。
「車の中にいて、ケイトーの家の前で、彼は私の隣に乗ってる」
「そいつをドアから蹴りだせないか?」
「えっ!? 何言ってるの、捜してたんでしょ?」
 驚いてそう言ったキャットの手から、ケイトーが携帯電話を取った。
「もういいですか、チャールズ王子。僕はADMCで十一年前の六月から九月に受けた相談の記録が全部見たいんです。持ってきてもらえませんか? その記録と交換に彼女を解放します。誰か他の人に知らせたら彼女の安全は保障できません。僕は銃を持っています」

 キャットは自分の耳が信じられなくてケイトーを振り向いた。
 ケイトーはいつからそうしていたのか、片手に携帯電話を、もう片方の手には黒い自動拳銃を握っていた。銃口はキャットの方を向いている。
「えええーっ!?」
 キャットの叫びが車内に響いた。

 ケイトーはうるさそうに顔をしかめて電話を耳に押し当てた。
「……え、どこです?……いいですよ、替わります」
 
 ケイトーが電話をキャットに差し出した。銃口はこちらを向いたままだ。
 キャットはまだこれが現実だと信じられないまま電話を受け取った。

「ロビン、こんなことに巻き込んで本当にすまない。愛してるから、お願いだからケイトーの言うことに逆らわずに従ってくれ。彼と『九月三十日荘』に行って、応接間で待つんだ。僕はすぐ行く。君は言われたことだけして、あとは壊れやすい陶器の人形みたいにおとなしくしてるんだぞ」
「分かった」
 チップは普段よりゆっくりと、噛んで含めるように語りかけていたが、キャットは言われたことを理解するのに精一杯でろくな返事ができなかった。
「愛してる」
「私も愛してる」
 横から手を出したケイトーが勝手に通話を終わらせ、キャットの手から携帯電話を取り上げた。
 
「運転して、キャット」
 ケイトーが『この子、迷子みたいなんだ』と言った時と同じ淡々とした口調で言った。
 
 車内はほぼ無言だった。キャットは必死で運転に集中しようとしていたし、ケイトーもそれを邪魔しなかった。
 途中で続いた会話はほんの二往復だった。
「今の信号、赤だったよ」
「うん、分かってる」
「俺、事故に遭うの嫌なんだけど」
「うん、分かってる」
 
「本当に誰もいないの?」
 入口の門扉を開けて車を進めたキャットに、ケイトーが訊いてきた。
「誰も住んでない」
 それだけの説明で納得したのか、ケイトーはまた黙った。
 
「入って」
 車を降りたキャットが、金の鍵で『九月三十日荘』の玄関を開けてケイトーを促した。
 
 応接間までの廊下を先に立って歩きながらキャットは、何でこんなことになっちゃったんだろう、と昨日からのことを振り返ってみた。

 チップはケイトーのことでキャットを問い詰めた時、普段の冷静さを失っていた。
 それを見たキャットは、理由は教えてくれなかったがチップにとって重要らしいケイトーの居場所を突き止めたら役に立てる、おめでたくもそんな風に思っていたのだ。

 二人の因縁がどういうものなのかキャットには分からないが、チップがケイトーの父親である可能性もまだ否定はされていない……ああ、そんなことはもう全部どうでもよかった。
 今はキャットが人質になってチップが脅迫されている、そのことが一番重要なことだ。
 駐車場でケイトーを見かける前まで時を戻せるなら、悪魔に魂を売り渡してもいい――キャットはそう思った。
 
 チップが送ってきたメールの必死さを笑ったりしなければよかった。
 
「ゆっくり座って」
 ケイトーの指示にというより、チップに言われたことをできるだけ守ろうと、キャットはゆっくりと応接間のソファに腰をかけた。でもどうしてもひとこと言わずにはいられなかった。
「何でこんなことするの?」
「持ってきてほしいものがあったんだよ。王子じゃないと手に入らないもので、普通に頼んだら絶対断られそうなもの。キャットに会えたのは幸運だった。あ、泣かないでよ。俺、めそめそ泣く奴は嫌いなんだ」
 幸い今のキャットにその心配はなかった。自分に腹を立てるのに忙しくて泣く暇はない。怒りの裏にある身がすくむ恐怖の気配に気付いていたから、キャットは他の事が考えられないくらい必死に自分を憎んだ。
 
 やがて沈黙に耐え切れなくなったキャットが再び口を開いた。
「バザーに来てたのはチップに会うため?」
「友達に誘われて行っただけ。まさか王子に会うなんて思ってなかったし、まさかあんな人込みで俺に気付くとは思わなかった」
 キャットは重ねて問いかけようとしたが、ケイトーの手の中でキャットの携帯電話が鳴り出した。
「もしもし?……分かった。待ってる」
 ケイトーが電話を切って、キャットに言った。
「今、着いたって。早いね」
 キャットはチップが得意げに『軍隊仕込みだよ』という時の声を思い出してしまい、不意に泣きそうになってあわてて深呼吸した。
 
「キャット?」
 玄関ホールからチップの声が響いた。ケイトーが応接間のドアを開けて答えた。
「ここだよ。両手を挙げてゆっくり歩いてきて」
 
 チップがファイルをもったまま両手を挙げて入口に姿を現した時、キャットはソファに座り、ケイトーは入口からみてキャットの陰になる場所に椅子を置き後ろからキャットに銃を向けていた。
「そこにあるテーブルにファイルを置いて、手を挙げたまま壁のほうを向いて立って」
 ケイトーの声は硬かった。対するチップは先程の電話とは違って普段の快活さを取り戻していた。
「ひとつ頼みがあるんだが、その銃口は彼女じゃなくて僕に向けてくれないか。君がくしゃみでもしてうっかり引き金をひかれたら非常にまずいことになるんでね」
「嫌だ」
 ケイトーの返事はにべもなかったが、キャットはチップのいつもと変わらないふざけた口調にほっとした。

 チップが現れたことでむしろ状況は悪くなっているのにもかかわらず、彼さえいれば大丈夫だと何の根拠もなく信じられた。
 

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