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宇宙よりもっと 9

 チップとキャットはその日の夕方、連れ立ってキャットの実家にやって来た。
 二人の前にキャットの両親、ジャックとリーが座ったところでチップが口を開いた。

「今日はお二人にお詫びに来ました。昨日、キャットは僕の仕事に関わるトラブルに巻き込まれて、一時武装犯に監禁されました」

 ジャックとリーの顔色が変わった。
 チップの訪問の目的をこのとき初めて知ったキャットも、両親と同時に顔色を変えた。

「犯人は個人的な事情で罪をおかした若者で再犯の心配はありませんが、僕のせいでお嬢さんを危険な目に遭わせてしまったのは事実です。心から謝罪します」
「ちょっと待ってよ、そういう話じゃないでしょ? 私が勝手にケイトーを追いかけて車に乗せたんだよ? それに犯人っていっても十歳の子供だよ?」
「お二人がもし留学をとりやめた方がいいとお考えでしたら、そのための手続きは僕の方で責任を持ってします」
 チップはキャットの抗議に構わず、ジャックとリーを見つめたまま淀みなくそう告げた。
 キャットは思わぬ話の展開に、隣に座るチップの腕を掴んだ。
「フライディ何言ってるのよ、勝手に決めないでよ。フライディはもうガーディアンじゃないでしょ?」
「僕はもうガーディアンじゃないけど、君の学費を出しているのはご両親だ。このことに関する決定権は僕にも君にもない」
 チップが苦い口調で言った。

 ジャックより先にリーが口を開いた。
「あなたはそうやって、『僕も辛いんだ』って言いながらキャットと別れるつもりなの?」
 リーの言葉にチップが答えるより早く、キャットが叫んだ。
「嫌だよっ、『何があっても絶対手を離さない』って約束したじゃないっ!」
「そんなつもりは一切ありませんっ!」
 チップが強い口調で答えた。
 
「ただ……僕の近くにいることでキャットに危険が及ぶなら、少し離れてでも安全を優先した方がいいと思うんです」
 続いた声には力がなかった。
 さっきの一言で力を使い果たしたようだった。
 
「あら、よかったわ。小さい頃は可愛かったけど、大きくなったらやっぱりライオンの子は手に負えないって返しに来たのかと思ったわ」
 雌ライオン(リオーナ)の名を持つキャットの母が口元だけで笑って言った。チップに向けたまなざしは笑っていなかった。
 
 微笑みながらちくりちくりと言葉で刺すのがいつもの彼女だった。しかし本気で腹を立てたリーと対峙するのはナイフ投げの的になるようなものだった。
 普段と変わらないにこやかな話し方でリーは、弱ったチップの心にひとつひとつナイフのような言葉を突き立てた。
 
「ただキャットを守る自信がなくなったって告白しに来ただけだったのね。その前にキャット本人とはボディガードをつけるかどうか話し合ったりはしなかったのかしら。さっきの様子だとキャットの意思は確認してないみたいだけど、この子を説得する自信がないからって私達に憎まれ役を押し付けるためにわざわざ来たの?
 この子にはこの子なりに留学で得たものがあるのよ。あなたのことは、この子にとってはきっかけに過ぎません。安全のためというなら、留学をやめさせるんじゃなくてあなたと別れる選択もあるんじゃないかしら」
「お母さん、私そんなことしないからっ!」
 キャットが恋人と母の間に立ちふさがった。しかしナイフとは違って言葉は、キャットが間に立っても相変わらずチップのところまで飛んできた。
 
「あなたのような立場じゃなくても、警察官や弁護士、医師、政治家……人から恨みをかう可能性のある仕事はいくらでもあるのよ? そういう人たちは皆、危険だからって理由で恋人を遠くに追いやるのかしら? 恋人の意思は尊重されないのかしら?」
 
 とうとうチップが喉の奥からしぼりだすようにして叫んだ。
「ミセス・ベーカー、どうしてキャットに射撃訓練を勧めたりできるんですかっ!? あなたは怖くないんですかっ? 何かあったら」
 リーのにこやかな見せかけが破れた。
「キャットが遭難した時に私達が後悔しなかったとでも思ってるのっ!?」
「リー、やめなさい。それはチップには関係ない」
 チップの話が始まってから初めてジャックが口を開いた。

 その場がしんと静まった。
 
「……お茶が冷めてしまったわね。淹れ直すわ」
 いいわけをしてリーが席を立った。ジャックが穏やかに言った。
「キャット、かけなさい」
 元の場所に座り直したキャットがチップの手を両手で包み込むように握った。
 ジャックがチップの顔を見た。
「キャットが戻ってきてからのことなんだが、この子は自分の知識のなさをひどく気にしていてね。もっと色々なことができたら君の足手まといにならなかったのにと言っていたんだ。リーと私はもともとキャットにはやりたいことはできる限りやらせるつもりで育ててきたから、本人がやりたいと思ったことを危険だからといって止めるつもりはこれからもないんだよ。
 君がキャットにどんな意見をするのも自由だが、最終的に決めるのはこの子だ。君が恋人としても年長者としてもキャットを思いやってくれていることは分かっている。しかし私達に筋を通そうとするあまり、キャットをないがしろにするようなことはして欲しくない」

「★返す言葉がありません。ミセス・ベーカーが、いえ、皆さんがご不快に思われたのもごもっともです」
 チップはそう言って目を伏せた。
 言い方は違っても、彼が言っていることは先程リーから投げられた言葉と同じようにチップの心に刺さった。
 
「キャットが判断を間違えるんじゃないかと心配になるのはよく分かる。しかし私達も君も、二十四時間ついているわけにはいかないからね。このおてんばを家に閉じ込めておくのはとても無理だし」
 ジャックが愛情を込めてキャットを見た。キャットがにこりと笑い返した。
「今回の件もダイビング中の遭難も、本人がやりたくてしていることの中で偶然起きた不幸な出来事だ。君の責任じゃない。ともかく、無事に解決してよかった」
 
 チップの全身に入っていた力が抜けた。チップはとっさにソファのひじかけを握り締め、ぐらついた体を支えた。
 隣にいたキャットはチップの手を離してぱっと立ち上がり、ジャックの首に腕を回していた。
「お父さん、大好きっ」
 ジャックはキャットをまとわりつかせたまま、チップに呼びかけた。
「チップ、よければ泊まっていきなさい。君も色々なことがあって疲れただろう。顔色が良くない」
 チップはすぐに笑顔で答えた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
「キャット、リーにチップが泊まると言ってきなさい」
「はい」
 キャットがジャックから離れて部屋を出ていきかけ、一度チップのところへ駆け戻るとぎゅうっと抱きしめてから今度こそ本当に出ていった。
「うちの娘は可愛いだろう」
 ジャックがキャットの後姿を見送って言った。チップが力強く同意した。
「はい。世界中の誰よりも」
 
 夕飯の後でキャットがジャックに昨日の詳細を話しはじめると、リーは一緒に聞く代わりに後片付けを始めた。

 チップがリーの後を追ってキッチンに入った。
「手伝います」
「ありがとう」
 リーがチップににっこりと微笑みかけ、ふきんを差し出した。
 

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