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王太子の結婚 08

 アートとアンに続いて、付き添いのベンとモリーンが、そしてアートの両親である国王夫妻とアンの両親ベンシングトン侯爵が拍手に送られて退堂して、儀式は完了となる。
 
 アートは通路の両側で見送る招待客が、アートとアンに拍手を送りながら背後にちらちらと目をやるのに気付いていた。
 何が起きているのだろうと気になりながらも式の流れを止めるわけにはいかず、控えの間に入ったところでアートはようやく後ろを振り返った。
 
 アートのすぐ後ろからは付き添い役が、そして少し遅れてアートの父、国王デイヴィッド三世と王妃イザベラが腕を組んで歩いてきた。
 
「陛下の杖はっ」

 アートは自分が花婿であることを忘れ、摂政としてとっさにそう口にしていた。
「大丈夫だ」
 答えたのは控えの間に入ってきた弟のベンだった。
 すぐに向けられたアートの鋭い視線を、ベンは穏やかに受け止めた。言葉にならない問いかけの答えを、アートはベンの顔から読み取った。
 アートの喉が鳴ったのは、隣にいたアンにしか聞こえなかっただろう。アンがそっと腕に寄り添い、アートの気持ちを受けとめ支えようとしてくれた。
 
 アートが務める摂政という役職は、常に置かれるものではない。国王が何かの理由で執務を行えない時に限り、国事を代行するよう国王の名において任命される。

 アートの父デイヴィッド三世の場合、四年前の落馬事故がその理由だった。
 当初は車椅子も覚悟されたが、リハビリで歩けるようにまでなった。しかし長時間立ったままでいることが難しくなり、国王が人前で転ぶようなことがあってはいけないからと杖を使うようになった。
 デイヴィッド三世が杖を持たずに公の場に出たのは、事故以来これが初めてだった。
 
 デイヴィッド国王は少し消耗した、でもどこか得意そうな満ち足りた顔で微笑んでいた。隣に立つイザベラ王妃も同じだった。
 アートがそこに見たのはいつも公式行事の時に見せる威厳のある姿ではない、息子の結婚式を無事に終えた親の姿だった。

 しかしアートは息子として過ごすのに慣れていない。どういう顔をしていいか分からずに言った。
「……驚かせないで下さい」
「お前に言うと、式を台無しにするつもりかと怒られそうだったからな」
 あまりの言い草にアートの眉根がきつく寄った。が、父王は続けて言った。
「イザベラが私の杖になってくれた。これからお前が困難な道を歩む時には、杖の助けを借りなさい」
 それは、やがて王冠を託す息子の人生の門出に、その重みをよく知る父から贈る餞(はなむけ)の言葉だった。
 
 アートは長男として、王太子としてずっと一人で立ち続けてきた。
 アートにとって家族というのは自分が守るべき存在で、杖となるものではないはずだった。
 しかしこれからアートにとってアンは、困難に立ち向かうとき彼を支えてくれる確かな杖にもなる。
 それを、デイヴィッド国王は王妃の助けを借り、今の彼にしかできないやり方で息子に示してみせた。
 
 アートは一度眉根を開き、急に何かをこらえるように顔をゆがませた。
 デイヴィッド国王がアートに腕を回した。
「おめでとう」
「ありがとう……ございます。父さん」
 アートはそれだけ言って目を閉じた。

 王太子として、どんな時にも感情の赴くままに涙を見せるようなことがあってはならなかった。
 
 二人の横では、王妃がアンの手を取っていた。
「あなたを家族の一員として迎えられることを喜びに思います」
「ありがとうございます、イザベラ殿下」
「アーサーは家庭的とはいえませんが、信頼するに足りる夫になるでしょう」
「はい」
 王妃は、アンの顔を見てそれ以上の言葉は必要ないことを知った。
 自分達が長い時間をかけて築いたのと同じ絆が、新婚の二人の間に既にあることを見て取った。
「幸せを祈ります」
 そう言って王妃は、義理の娘に抱擁を与えた。
 
 続いてアートとアンはもう一組の両親、ベンジングトン侯爵夫妻とも親子の抱擁を交わした。

 もちろんアンの両親の心には長年手許に置いていた娘を手放す寂しさがある。
 しかし今日の花嫁姿を見られた喜びはその寂しさを上回った。
 何度も心で願っては打ち消してきた夢が現実になったのだ。

 彼ら二人は、義理の息子が確かに結婚の誓いを守りどんな時も妻を愛し敬うと心から信じられるという、めったにない幸運に恵まれていた。
 アートはアンだけではなく、アンの両親との間にも長い時間をかけて信頼を築いていた。彼らは皆、あの年月がただ虚しく過ぎたのではないと知る人々だった。
 
 この後は新郎新婦を先頭にして、王宮までのパレードが行われる。
 それからバルコニーでの挨拶と家族写真の撮影を経て、その間に催される午餐会に招待した人々の前で、新婚の王太子が挨拶をすることになっていた。
 

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