楽園までは何フィート 3
エドはこれでももうすぐ修士号を授与される学者の端くれだ。研究のために資料を読み込んで読み込んで、そこにひらめきが降りて来る至福の瞬間は過去にも経験している。
ロマンチックなプロポーズが課題なら、きっと同じ方法であの瞬間にたどり着けるに違いない。
資料に関していえば、エリザベスに関する記事の密かなスクラップは後世の研究者に残したいくらいに充実している。
一方的な片思いを長く続けてきたエドにとって彼女は憧れの存在だった。
幼い頃から会う機会は多かったが、物心ついた時にはもう感じていたぼんやりとした思慕が恋だと気付いてからは、正面から彼女を見られなくなっていた。
代わりに公式写真や記事を何時間も眺めて過ごした。実際のエリザベスをそんなに長い時間見つめることはできなかったから。
――もっとも、四兄弟の末っ子が美しい年上の従姉を見ていようがいまいが誰も気にしたりはしなかったのだが。
思いがけない巡り合わせで彼女の恋人になったエドは、他の誰も知らないエリザベスを知っている。
エリスと呼ぶと羽根で頬をくすぐられたような顔をすると知っているのは、この世界でエドただ一人だ。
(今までの僕に欠けていたもの、そしてエリザベスが求めるものはロマンスだ。
僕だってやるときはやってやる。
……ひらめきさえ降りてくれば)
ラテン語でエリザベスを讃える詩を書くという案も浮かんだが、賢明にもエドはすぐ思いとどまった。
彼はもちろんヘクサメトロス(六歩格)の詩形もその美しい韻律も愛しているが、普通の人にとってのラテン語が教会の碑文や賛美歌、百科事典の見出しの後ろにかっこで括られた学名と結びつく枯れた言葉であることも理解していた。
残念だがラテン語とロマンスは切り離した方がいいだろう。
もっとエリザベスのための特別な何かを、とエドは思った。
バイオリンでも弾いて少し頭を整理しようと、エドは自分の部屋を出た。
キャットのメモに管弦楽というキーワードがあったのもエドが音楽室に向かった理由のひとつなのだが、エド自身にその自覚はない。(更に言えばメモにあった管弦楽はプロポーズの当事者が演奏するという意味でもなかったのだが、これに関してはキーワードを箇条書きしただけのメモを渡したキャットにも少し責任があった)
エドは作り付けの楽譜棚からいくつかの楽譜を取り出して、楽器と弓を構えて初めの何小節か弾いてみては止め、また違う楽譜を手にして同じことを繰り返していった。
実際のプロポーズで弾くかどうかはともかくとして、偉大な作曲家たちが愛をテーマに作った曲を奏でているうちに、何かいい案が浮かぶかもしれない。
有名なバイオリン曲でタイトルに「愛」と入ったものは数多くあったが、結婚式ならともかくプロポーズにはどれも曲調が明るすぎるような気がエドにはした。
それからバッハとヴィターリの「シャコンヌ」を両方弾いて、こちらの方が自分の気分には近いと思ったがすぐまた思い直した。テクニックをひけらかすような真似をしても、エリザベスは喜ばないだろう。
大切なのは「自分が」何ができるかではなく、「エリザベスが」何をしてほしいかだ。
エドはキャットの箇条書きのメモから、ある真理にたどり着いていた。
プロポーズにおいては、何を言われるかは重要ではない。
どのように実行されるかが重要なのだ。
結局その晩エドは食事もとらずに夜が更けるまで楽譜を散らかし、様々な曲を弾き比べていた。
修士号がとれたらエリザベスと結婚するつもりだということは、兄弟達には(牽制のため)既に伝えてあったが、エリザベス本人にはまだはっきりと伝えていなかった。多分聡明な彼女は気付いているだろうけれど。
二人の交際は最初から結婚を前提としたものだったし、エリザベスの父であるアンソニー王子の子孫を王位継承者にするために必要な結びつきだったが、エドの気持ちはそれとは全く別に、ずっと昔から存在していた。
それを改めてプロポーズでエリザベスに伝えたい。ロマンチックに。
いったん楽器を置いて、演奏用ではなく音楽鑑賞のために置かれたソファに腰掛けたエドは背もたれに頭を預け目を閉じた。
プロの演奏家でもないエドがこんなに長い時間バイオリンを弾き続けたのは久しぶりだったので、少しだるかった。
どこかから音楽が聞こえた気がして、エドははっと目を開けた。
部屋には誰もいなかった。
そんなつもりはなかったが、少しだけ眠りかけていたのかもしれない。
耳に残る旋律をハミングしたエドは、すぐそれが何の曲か思い出した。さっそく楽譜棚に向かい、いくつかの楽譜を取り出した。全て同じ曲だが編曲が違うものだ。技巧的にはそれほどの難曲でもない。
譜面台までの短い距離を歩きながらエドは手に持った楽譜を見比べて、ひとつを選んで台に載せた。楽器と弓を手にしたエドはすっと背筋を伸ばして息を吸うと、最初の音を奏でた。
様々な曲を弾きながら頭の別の場所を使って、どんなプロポーズをするかはもうほぼ決まっていた。
想像の中では全てがうまくいった。あとはほんの少しだけ手伝いが欲しい。
しかしここですぐに部屋を飛び出すというのはエドの流儀に反している。
深夜には素晴らしい発見だと思ったものが朝の光のもとで陳腐化したことは何度もある。
もう少し一人で考えを整理してから話すべきだ。
音楽室中にエドの心を乗せた旋律が広がっていった。バイオリンを弾くエドはかすかに微笑んでいた。
自分がひらめきをつかまえたことを、エドは疑っていなかった。
Copyright © P Is for Page, All Rights Reserved. 転載・配布・改変・剽窃・盗用禁止