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ただ一人 1

 日が長くなるこの時期、今年もまた本格的な社交シーズンが始まっていた。
 キャットも一応社交界といわれる場に出入りして三年目になるので、多くはないが顔見知りもそれなりにできて(パーティやイベント会場でしか会わない知り合いがほとんどだが)挨拶される機会も増えてきた。

 こうなるとチップもそろそろ、六歳年下(チップの誕生日がくるまで)の恋人が場慣れしていないことを口実に番犬のようにぴったりとついて回るわけにはいかなくなってきた。
 
 本来はこうでなければいけない。二人は保護者と被保護者ではなく、夫婦でもないのだから始終一緒にいる必要はない。
 チップもキャットもそれぞれにできるだけ多くの人と会話することが、顔つなぎという目的に適っている。
 キャットが他の誰かと話していれば、チップの知り合いや知遇を得ようとする知り合いの知り合いもタイミングを見計らってチップに近づきやすい。
 という理屈は当然チップにもよく分かっているのだが。

 自分が会話を終えて周囲を見回し、はるかむこうで楽しそうに笑うキャットを見つけるたび、チップは恋人の美点を周囲に知ってほしい気持ちと、誰にも知られないように隠しておきたい気持ちの二律背反でひどく苦しむことになった。
 
 そんな恋人の内心を知らないキャットにとって、今年は間が持たなくなることが少ない、過ごしやすいシーズンだった。
 元々チップと親しかった年上の知り合いや歳が近いからと紹介された同年代の知り合いが、向こうから声をかけてくれる。
 キャットにとって年上の知り合いは顔見知りではあるがチップの友人という意識が強く、同年代の知り合いは大学の友人と同じような気楽に会話ができる相手だった。
 身分や年齢が上の相手に親しくもないのにこちらから話しかけるのは礼儀上宜しくないとされているため、こういう場でお互い声をかけやすい若い世代が固まるのは仕方ない部分もあるのだが、彼らは時に盛り上がりすぎたり、場にふさわしいふるまいを忘れて年長者に眉をひそめられることになる。
 
 チップは先ほどから少し離れた場所で別の相手と話しながら、キャットが同年代の知り合い、とある子爵の孫息子と笑いながら二つに折った紙片らしきものを押し付けあっているところに、注意のほとんどを向けていた。
 今のところ悪目立ちはしていないが、じゃれつきが度を越すのも間近という様子だった。

 チップは会話の相手にはそう悟られないよう笑顔で会話を続けていたが、そろそろ我慢の限界……もとい、仲裁に入る潮時とみてとった。
「失礼、連れに呼ばれているようなので。続きはまた」
 珍しく相手の話を遮って、チップは一歩を恋人に向けて踏み出した。
 
 キャットの相手は近づいてくるチップに気付いて、しまったという顔をした。
 キャットはその顔を見て振り向き、ゆったりした足取りで近づく恋人に気付いた。
 チップはキャットからあと二歩という距離で立ち止まり、彼女だけに向けて(もちろん周囲の注目を集めていることは分かっているが)王子らしく微笑んだ。
「君を放っておいてごめん。退屈しなかった?」
 チップの、目の前の相手に対し失礼きわまりない質問にキャットがぴくりと眉をあげた。
 チップはにやりと笑いそうになったがこらえた。キャットのこの素直さは本人には得にならないことも多いけれど、チップにとっては彼女の魅力のひとつだ。
「ううん、ぜんぜん。とっても楽しんでる」
 この負けず嫌いもまた魅力のひとつだ、とチップはまたもにやりとしそうになったが、見た目はさっきと変わらない爽やかな微笑のまま言った。
「紹介したい人がいるんだ」
 チップはそこで言葉を切って待った。キャットが誰のパートナーとして来たのかを思い出すように。
 キャットの眉はさっきと違って感情を現さなかったが、かわりに少しだけ顎が上がった。
 キャットは一緒にいた相手に、急にとてもいい笑顔を向けた。
「じゃあジャスティン、また」
「う、うん」
 キャットがこちらを向いたところで、チップがさっきのジャスティンの手真似で人差し指と中指を立てて振ってみせた。
「忘れ物は?」
 キャットはチップをにらんだ。ジャスティンの顔色が悪くなった。チップはどちらにも知らん顔をした。
 ジャスティンは直前まで指に挟んでキャットの前に突き出していたメモをびくびくしながら取り出した。それをキャットは無言で受け取り、クラッチバッグの外ポケットに乱暴に押し込んだ。
 チップはキャットの腰に手を回し、ジャスティンに軽く頷いてその場を離れた。
 
「わざと感じ悪くしたんでしょう」
 キャットが低い声でチップに言った。チップも低い声で返した。
「君たちも感じ良くはなかったよ」
 キャットに回した腕から、彼女がぴくりとしたのが伝わってきた。
 素直すぎる反応にチップは笑いたかったが、笑えなかった。
 
 チップはさっきの口実を無視してパーティ会場である広間を離れ、隣接したテラスの暗がりにキャットを引き込んだ。
「あのねっ、さっきのは」
 二人きりになった途端キャットは意気込んで言いかけたが、チップが止めた。
「その話題は今したくない」
 
 キスで口をふさがれたキャットは一瞬チップを押し戻そうとしたが、すぐ思い直して体の力を抜いた。ここでキスを拒んだりしたら余計にチップの機嫌が悪くなり、結局キスがもっと長くなることは今までの経験で分かっていた。
 それにこういう時でもチップのキスは受けるだけの価値があり……やめるのは惜しい気がした。
 キャットはこのままチップの機嫌が戻るのを待って、それから落ち着いてさっきのなりゆきを説明すればよかったのだ。

 しかし気が急いた彼女はつい、キスをしながらクラッチバッグのポケットを探ってメモを取り出そうとし、事態を思いがけない方向に転がしてしまった。
 

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