前へ もくじ 次へ

ただ一人 3(おわり)

「チップと待ち合わせていたレストランのクロークでぶつかったのが、ニコラとの出会い」
 リンダは幸せそうな顔で隣の夫を一瞬見上げた。
「その瞬間この人が私の『ただ一人』だって分かったの。会ったのはその時が最初で、まだ彼の名前も何も知らなかったのに。
 ぼうっとしたままウェイティングバーにたどり着いてチップにそう言ったら、チップはすぐに私のピアスをひとつ外してタクシーに押し込んで、運転手にニコラの車を追うように言ってくれたの」
 ニコラが話に加わった。
「何も知らない僕は宿泊先のホテルに着いて、部屋に戻ろうとエレベーターに乗ったところで、閉まりかけたドアを押さえて乗り込んできた彼女に腕を掴まれたというわけです。
 見知らぬ美女から『あなたとぶつかった時に、祖母の形見のピアスを落としたみたいなんです。お願いですからポケットの中を捜してみて下さい』と懇願されては、とても断われなくてね」
「ポケットにピアスが?」
 キャットの疑問には、チップが笑いながら答えた。
「あるわけない。僕が持ってたんだから」
 ニコラは続けた。
「僕は当然そんなことは知りませんから、リンダが困っている姿を放っておけなくて、ホテルのジュエラーから代わりのピアスを取り寄せてプレゼントしました。リンダからお礼にと次の日の夕食に誘われて……三週間の出張が終わるころには同じジュエラーから取り寄せた婚約指輪を彼女に差し出していました。
 チャールズ王子から頂いた結婚祝いのジュエルボックスにリンダが失くしたはずのピアスが入っているのをみて、ようやく二度目の出会いが仕組まれたものだったと知ったわけです」
 その幸せそうな様子からみて、ニコラは仕組まれた出会いに何の不満も抱いていないらしかった。
「嘘をついてごめんなさいって謝ったら彼は『恋と戦争ではどんな手段も許される』って。あの時チップが背中を押してくれなかったら、外国に住むニコラとは二度と会えずに終わっていたかもしれないわ」
 そう言ってリンダはチップに感謝の笑みを向け、チップは舞台を終えた手品師のように一礼して応えた。

 キャットがニコラに訊いた。
「あなたも会った時から……?」
 ニコラは苦笑した。
「僕はそういうことに鈍感らしくて。ぶつかったのが彼女だったことも、言われるまで気付きませんでしたから」

 今度はリンダが、期待に満ちた顔でキャットに訊いた。
「チップに会って何か感じなかった?」
 チップとキャットは目を合わせた。
 初めて会った時と同じようにチップがにっと笑った。

 キャットは噴き出した。
 あの時必死に逃げた自分を思い出すと、抑えようとすればするほど笑いがこみ上げた。

 笑いが止まらないキャットの代わりにチップがリンダに答えた。
「もちろん僕たちはお互いに自分には目の前の相手しかいないって一目会った時には気付いたよ」
 キャットは笑い涙をハンカチで押さえながら、頷いて同意した。
 チップは正しい。他に誰もいなかったのだ、間違えようがなかった。リンダが期待したのとは違う意味でだが。
 チップはキャットに回したままだった腕に力を込め、キャットもチップに身を寄せた。
 その時チップが小さなため息をついたのに気付いたのは、キャットだけだった。

「『ただ一人』に」
 そう言ってニコラがグラスを挙げると、泡が消えかけたグラスがそこに集まって涼しい音を奏でた。
 
 友人夫妻と一緒にパーティ会場に戻ったチップたちはまた知り合いに次々と声をかけられたが、キャットはもうチップを置いていったりはせず、チップも今夜ばかりはキャットから離れようとしなかった。

 帰りの車に乗り込んだところで、やっと二人はテラスでの喧嘩の残りを片付けにかかった。……もう二人のどちらも相手に腹を立ててはいなかったが。
 
「ロビン。リンダたちが来る前のことだけど」
 運転席に乗り込んだチップは、エンジンをかけずに助手席のキャットに顔を向けた。
「君の話をちゃんと聞きもせずに腹を立てたりして悪かった。今夜の僕の態度は酷かったしそれに関しては弁解のしようもないが、許してくれる?」
 キャットは質問にこたえる代わりに、チップの顔をまっすぐ見て訊いた。
「リンダは『僕の歴代の彼女』?」
「違う」
 すぐに否定したチップは、かすかに微笑んで続けた。
「彼女未満の友人。長い付き合いでお互いに気心も知れてるし、付き合ってみようかって話になったこともあるけど」
 自分から聞いたとはいえ聞きたくはなかった言葉を聞かされて凍りついたキャットに、チップがそっと手を伸ばした。
「その最初のデートの日に、レストランの入口で彼女はニコラに出会ってね」
 凍りついた手にチップの手が触れたとたん、魔法が解けたようにキャットの体に熱が戻ってきた。多分止まっていた心臓が動き出したのだろう。
 と同時にキャットはチップの言葉を理解した。
「じゃあフライディ、振られちゃったの?」
「まあ、そういう見方もできるかもね」
「かわいそう」
 キャットの言葉が、チップ自身も忘れかけていた傷跡に触れた。

 ――あれはチップがひどい失恋をした直後、リンダも好きになれる相手がみつからないことに悩んでいて、いるかどうかも分からない『ただ一人』を捜すよりもっと現実的になろうと二人が考えた時期だった。

 お互いの長所も短所も知っている自分たちはたいていの恋人同士よりも幸せに過ごせるんじゃないかと二人で話し合い、いつもの食事とは違うデートの約束を初めて交わした。
 やがては本物の恋人同士になれるだろうかと少し浮き立つ気持ちで待っていたバーで、チップはリンダから運命の人との出会いを聞かされた。

 ――あの時チップが感じたのは、キャットが想像しているような失恋の痛みではなく、「やはり自分には奇跡が起こらないのだ」という乾いた諦念だった。
 
「……前に話したかもしれないけど、僕は恋人としてあまり魅力的ではないらしくて」
「嘘でしょう?」
 その一言に込められたキャットの絶対的な信頼に、チップは傷跡をやさしく撫でる手を感じた。
「僕の外側を気に入った相手は中身が気に入らないし、僕の中身を気に入った相手は外側が気に入らないんだ。
 僕には『ただ一人』なんていないんじゃないかとずっと思ってた」
「ここにいるよ」
 そういって頼もしく微笑んだ六歳年下の恋人の存在に、傷跡を含めたチップの全てが包まれた。
 チップは静かに息を吐いた。
「――君は僕を甘やかしすぎだ」
 どこか苦しげなチップのつぶやきに、キャットは答えの代わりに腕を伸ばした。

 他の車が通るたびにヘッドライトに照らされて車中は明るくなり、また暗くなったが、今度こそは気を散らすこともなく二人はキスだけに集中した。
 
 唇が離れてずいぶんたってから、キャットが思い出したようにバッグを捜し、くしゃくしゃになった紙をチップに差し出した。
「読んで」
 チップは一瞬迷ってから、メモに目を落とした。
 チップはそこに繊細で美しいペン跡で書かれた単語を読み上げた。
「ホールウィート(全粒小麦粉)、サワークリーム、レモン、オリーブオイル……何のレシピ?」
 キャットはとびきりのしかめ面になって答えた。
「ジャスティンがお祖母さまから私にって預かった、そばかすに効くパックの作り方」
「子爵夫人から?」
 チップが一瞬あっけにとられた顔をして、それからくすくすと、やがて高らかに笑いだした。
「僕はこんなメモ一枚で何を血迷っていたんだろう。おばあちゃん秘伝のそばかすパック!」
 チップは、キャットが気付いていないであろう事実を伏せたままで自分とジャスティンの両方を笑った。
 メモの中身が何であろうと、あの時のジャスティンは気安さを通り越してキャットに接近しすぎていた。
 無意識に異性に惹きつけられる年頃とはいえ、ジャスティンはキャットの前をうろつくことでチップのテリトリーを侵していた。チップの態度で本人がそれに気付いて顔色を失っていたから、これ以上の警告は必要ないだろう。余計なことを言ってキャットに変に意識させる必要もない。
 それにしても喧嘩の原因がそばかすパックだったとは、チップは想像もしていなかった。
 
 キャットは怒ったような口ぶりで続けたが、目は笑っていた。
「こんなのいらないって言ったのに、フライディのせいで受け取るしかなくなったんだからね。一度も話したことない人にまで心配されるほどそばかすが目立つとは思わなかったよ」
 口をとがらせたキャットの頬に、チップが片手で包んだ。
「僕は魅力的だと思ってるよ。でもそれが僕のせいなら、責任とらなくちゃな。材料を買って帰ろう」
「材料?」
「君はエステのつもりで目を閉じていればいい。僕に任せて」
 チップの親指が目の下の薄い肌をすべり、キャットは思わずうっとりと目を閉じた。
 が、次の瞬間にぱっと目を開けた。
「駄目っ、顔中白くなったとこなんか見せたくないっ!」
 チップはキャットの瞳を覗き込んで言い聞かせた。
「ロビン。『ただ一人』はね、見た目に惑わされたりしないんだよ」
 チップの声は心をとろけさせるほど甘く、キャットは蜂蜜に沈むようにチップに身を任せそうになった――その瞬間、チップの目にいたずらっぽい輝きが閃いたのに気づいてキャットは自分を取り戻した。
「絶対に嫌っ、私が嫌っ!」
「ロビン、僕の謝罪を受け取ってはくれないの?」
「そんな顔しても駄目!」
「僕しか知らない特別な君をもっと見たいんだ」
「駄目だってば!」
「いい?」
「もう! 話を聞いてよ!」
「そうだね、キスの続きをしようか」
 
 周囲の車はもうとっくにいなくなっていたが、二人が乗った車が動き出すまでにはまだまだ時間がかかりそうだった。

end.(2012/06/27初出・2015/02/13加筆)

前へ もくじ 次へ

↑ページ先頭
 
inserted by FC2 system