遅れてきた人魚姫 04
最初にソファに座った時から姿勢を崩すことがなかったトリクシーが、少し奥に座りなおしてから再び顔をあげ、相対する二人の注意を自分の方に引き寄せた。
私もこういう大人になりたかった――とキャットは仮定法過去で思った。彼女と同じ歳になるまで努力したとしても、彼女のような存在感を身につけることはできないと自分で分かっていた。
バレエを辞めた時の古傷がまたちりっとうずいた。
トリクシーがチップに訊いた。
「エリザベスおばさまの葬儀があった日の午後、子供みんなでかくれんぼをして遊んだのを覚えている?」
「多分ね」
あいまいな返答に、キャットが隣に座るチップをもの言いたげに見上げた。
チップはトリクシーにではなくキャットに向かって言い訳をした。
「誰と一緒だったかとか、どこに隠れたとか、それが本当にその日のことだとかはっきりと覚えているわけじゃない。誘導されて『そういえばそんなことがあったかも』なんて答えたら話がどこへ向かうか分からないだろう?」
それからチップはトリクシーにこう答えた。
「僕が『確かにその日の出来事だった』と言い切れるのは、さっきも言ったけどエリザベスがたくさんいて面白かったこととアートに追い掛け回されたことくらいだよ」
トリクシーが再び問いかけた。
「そのエリザベス達にキスしたのは?」
「どうだったかな」
ふたたび断定を避けたチップに、トリクシーが重ねて言った。
「聞いた話だと、あなたとキスしたエリザベスは私の他にも何人かいたみたいよ」
なるほど、チップがさっき言った『ゆさぶりをかける』というのはこのことか、とキャットは思った。
もっともチップはこの程度のことで動揺したりはしないだろう。キャットも、今までに聞いた数々の逸話から『またか』と思いはしても動揺はしない。……あとでちょっとチップの頬をつねりたいとか、噛みつきたいとか思っているけれど。
キャットの予想通り、チップはのんびりした口調で返していた。
「チャールズも僕一人じゃなかったよ。一族には多い名前なんだ」
「ああ、じゃあ私と一緒に隠れていたのはあなたじゃないチャールズだったのね」
「ありそうな話だ」
チップは他人事のように言った。
こんな調子でお互いの攻撃を避けながらうねうねと続く二人のやりとりを横で聞き、キャットはもし自分がトリクシーの立場ならと考えてみた。
いくら小さい頃のことでも、キスした相手にこれだけ覚えていないと主張されたら。
自分なら腹が立つ。ううん、それよりもまず悲しい。トリクシーはそういう気持ちにならないのだろうか。
キャットはトリクシーの、一見してどこの出身とは言い難い顔をじっと見た。
美人の定義にはあてはまらないが、どこが普通と違うのか興味をひかれて見ているうちに忘れられなくなるような印象的な顔立ちをしていた。モデルや女優になったら人気が出そうだ。
彼女には今のところ怒ったり悲しんでいる様子はない。でも顔色ひとつ変えずに人に平手打ちをくらわせ、その事実をなかったことにできたウーマン・フライディのことだ、そんなに簡単に感情を顔に出したりはしないだろう。
チャンシリーってどんなところだったっけ、島国なのは知ってるけど……とキャットの考えが横に逸れ出したところで、チップが呆れたような声を上げた。
「あなたは、そんなに大事なしるしを他所の国の図書室に隠したまま帰ってきたっていうのか?」
「私だって帰りたくて帰ったんじゃないわよ」
「すぐに人を使って取りにやらせればっ……」
「それどころじゃなかったし、その時はもう必要ないと思ったのよ」
トリクシーの話は、要約すれば非常に短かいものだった。
名づけ親の葬儀に来たメルシエで、図書室に隠れているときに王位継承のしるしである木箱を壊してしまった。そこへ急いで帰国するようにと迎えがやってきたので、とっさに壊した木箱を一緒にいた男の子に隠してもらった。今になってその箱が必要になったので取りに来た、という話だ。
問題は、一緒にいたはずの男の子がその出来事をまったく覚えていないところにあった。
「でも、さすがにそこまで印象的な出来事を思い出せないということはないと思う。それは本当に僕じゃない」
チップが嘘をついているようには見えなかった。
キャットの胸が少し軽くなった。
それが本当なら、二人はキスもしていないし、結婚の約束もしてない。トリクシーも悲しむ必要がない。ただの人違いだったのだ。
「この際、それはもうどうでもいいわ」
キャットの同情と心配はトリクシーのあっさりした一言によって振り捨てられた。
「あなたは王宮の図書室に自由に出入りできるでしょう。この週末にあなたが沖に出ると知って、こんなチャンスはもうないと思ったの。しるしの箱を見つけるのを手伝って。迷惑はかけないわ」
「もうかけられてる」
チップは真面目な顔で言った。
「この上あなたに協力するということは、チャンシリーの王位継承問題にメルシエ王家を巻き込むということだ。僕の一存でそんなことはできない」
「あなたさえ言わなければ誰にも分からないわよ。私がここにいることは誰も知らないんだし、しるしさえ見つかればすぐいなくなるわ」
すまして言うトリクシーに、チップが感じの悪い笑顔を向けた。
「なるほど、密航まではうまくいった。でもそのあとは? 船からどう降りるつもりだ? 僕があなたを海上警備隊に引き渡すとは考えなかった?」
「大事にはならないわ。伯父がいくらでも握りつぶすでしょう。息子を次期国王にするためには、私の評判を落とすわけにはいかないもの」
それから、トリクシーはチップに笑いかけた。
「私が乗っていたことが知られたら、あなたこそ身の破滅だと思わない? 自分が知らないうちにチャンシリーの王位継承者が船に乗り込んでいましたって言って、誰が信じてくれると思う?」
チップはとっさにキャットを見た。それを見て、キャットにも分かった。
二国の王家の未婚の男女、つまり身分の釣り合う二人が付き添いもなく洋上で密会していた。そんな画像がゴシップ誌の関心を引かないわけがない。この場にキャットがいたことは全く問題にもされないだろう。フォトボム扱いの三人目は編集で塗りつぶされるかフレームの外に切られて終わりだ。
そんなスキャンダルを収める方法は一つしかない。
「……ということで、お互いの望まない未来を避けるためにも手を貸して頂けるかしら?」
トリクシーがにっこり笑った。
彼女を船に残してチップが忘れ物を取りに行く、という案はすぐに却下された。
クルーザーは帰港すると陸上ヤードにあげられてしまう。高価なクルーザーに傷をつけられたり侵入されたりするのを防ぐため、陸上ヤードにはゲートやカメラが設置され、警備員が巡回する。トリクシーに、明かりも空調もないキャビンに音も立てずに隠れて待っていろというのは無理があった。
二人で乗った船から三人で降りるという難問を解決したのは、キャットの一言だった。
「私、ここに入れると思う」
キャットが指したのは、今日の釣りのためにチップと大はしゃぎして買った大型のクーラーボックスだった。
「馬鹿言うな、ロビン!」
チップの叫びを無視してキャットはクーラーボックスの蓋を開けた。中に座り、体を前に倒して足の間に頭を入れてみる。それからもぞもぞと動いて、体の片側を下にして落ち着いた。その状態でキャットが言った。
「ほらね?」
「まあ」
トリクシーが品よく驚いてみせた。
マリーナの桟橋は、まだ早い時間なので空いていた。
ナイトクルージングを楽しむ船以外は、日が落ちる前に港へ戻ってくることが多い。
一斉に戻ってきた船の帆が蝶の群れのように見えるのはなかなかの壮観だが、その時間帯はちょうどオンショアとオフショアの風が切り替わる時間、夕凪にあたるのでエンジンのないディンギーでは風をうまく捉えられずに帰港に苦労することも多い。
クルーザーの場合、右側の船の進路を妨害しないようにさえ気をつければ、早い段階で帆を下ろしあとはエンジンで戻れるので凪は心配しなくていいのだが、もやい綱を受け取ったマリーナのスタッフは王子は桟橋が一番混む夕方を避けて早めに帰ってきたのかと考えた。
「おかえりなさい。釣れましたか?」
マリーナのスタッフは、王子が抱えたクーラーボックスを受け取ろうと手を伸ばしながら訊いた。
「いいよ、空だから。釣りはやめて早めに帰ってきたんだ」
チップはそう言いながら自分で桟橋の先のコンクリートの護岸までクーラーボックスを運び、いったんそこに置いた。
それから船に戻り、今度は毛布に包んだ女性を両腕に抱いて、再び桟橋に下りた。
「医者を呼びましょうか」
「いや、船に酔っただけだ。後を任せていいかな」
「はい、もちろんです。お大事に」
スタッフはそう言って、女性を軽々と抱いて運ぶ王子を見送った。さすが『理想の恋人』という憧れの視線はチップを足止めしなかった。
チップは自分の車までたどり着き、毛布に包まれた塊をやや乱暴に助手席に降ろしてドアを閉めた。それから置いてきたクーラーボックスを抱えてあっという間に車に戻ると荷室に降ろし、急いでクーラーボックスの蓋を外した。
「ロビン、大丈夫っ!?」
箱詰めされ、鼻の頭に汗をかいた恋人が、心配性の恋人に押し付けられた携帯酸素スプレーを手にしたままにこりと微笑んだ。
※このお話はフィクションです。ないとは思いますが、作中に登場する行為は絶対に真似しないで下さい(フィクションなのは分かってるけど大丈夫だったのかとご心配な方へ→クーラーボックスには排水のための穴も開いています。でも危険なのでホントに真似はしないで下さいね
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