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遅れてきた人魚姫 10

 帰りの車内は、行きよりも更に静かだった。
 チップは無言でキャットの車を運転し、助手席のキャットは会話を切り出すきっかけがつかめずに時々チップの方を向いたり、横目で運転席の後ろに座るトリクシーを眺めたりした。
 チップが何を考えているのかは分からないが、笑顔を浮かべるような気分ではなさそうだ。
 トリクシーはキャットが初めてパウダールームで言葉を交わした時と同じ、落ち着き払った表情で静かに座っていた。

 キャットはため息の代わりに大きく深呼吸をして前を向いた。信号が赤になった。

 隣に座るチップと後ろに座るトリクシー、それに王宮に残ったベン。
 三人が三人とも、キャットには分からない何かを抱えたまま口をつぐんでいる。
 
 ――みんなに思っていること、知っていることを全部洗いざらい話すようにって言えたらいいのに。
 
 そう思いながら、キャットは自分がそうできないことを知っていた。

 信号が青に変わった。チップが無言でブレーキをゆるめ、車は再び走り出した。
 
 チップの知人のものだというボートハウスはもう扉が開け放たれ、海につながった水路にはマストのないモーターボートが停泊していた。
 ボートハウスと屋敷の間は、道に面した入口からずっと続く高いフェンスで仕切られていた。
「お家の人にあいさつする?」
「いや、ここからだとぐるっと回らなくちゃいけないし……ヘリがないから留守みたいだな」
 チップが屋敷を見上げて言った。どうやら屋上はヘリポートらしい。
「どんな人?」
 思わず聞いたキャットに、チップが人の悪い笑みをうかべて答えた。
「僕の仕事仲間」
 それからチップは表情を改めて防水バッグを取り出し、二人に言った。
「この船はキャビンがないから、貴重品以外は持っていかない方がいい。タオル以外にも濡らしたくないものがあればここに預かる」
 言われた方の二人はそろって首を横に振った。キャットはもう携帯電話や財布を防水ポーチに入れて自分で身に着けていた。トリクシーは水着ひとつでやってきた身だ。持っていくものなどなかった。
 
 チップがトリクシーに聞いた座標をGPSにセットして、航行ルートを確認しながら言った。
「海上で引き渡しなんて、密売組織の一員になった気分だな。もし座標を間違えて覚えていて、迎えが来なかったらどうする?」
「覚え間違えはありえないし、もし迎えが来なくても連絡すればだれか呼べるでしょう。用事は済んだから、別にもう秘密にしなくてもいいんだし」
 キャットが、少しためらいながら言った。
「……私たちで、もう少し探してみるよ」
「いいえ。もう出てこない方がいいのよ」
 トリクシーはそう言った後、納得していないキャットの目を見つめて軽く微笑んだ。
「『知らない苦労より知ってる苦労』って言うでしょう。親戚として私がいとこの面倒をみるべきなんじゃないかと思いはじめてきたから」
 
「『べき』を使うのはたいてい、実際にはしたくない時だよね」
 横槍をいれたチップに、トリクシーが視線を向けた。
 さっきまでキャットに向けていたのとは違う、感情のない仮面のような無表情だった。
 チップは意地の悪い薄笑いを浮かべて更に続けた。
「海の中で、このまま行方不明になれたら面倒なこと全部置いていけるのにって思ったんじゃない?」
 それがトリクシーの仮面を剥がすためだったとしたら、チップは失敗した。
 彼女は眉ひとつ動かさなかった。
 チップは代わりにキャットから無言の非難を向けられ、逃れるようにエンジンを始動し、辺りに爆音を轟かせた。
 
 声を張らなければ相手のところまで届かない状況を内心の言い訳に、三人は会話をする努力をやめていた。
 GPSを確認しながら、チップは船を目的地まで操縦していった。キャットはチップの隣に座り、近づいてくる船が現れないか見張りを続けながら時折後ろのトリクシーを振り返った。
 トリクシーはずっと顔を上げたまま、現れる船影にも気を取られることなく前を向いていた。
 その姿はキャットに船首像を彷彿させた。
 堂々と頼もしく、人に心の中を窺わせない誇り高い女神の姿だった。
「速度を落として」
 ご神託が下った、かのように重々しい口調でトリクシーが告げた。
「あの灯台と手前の岩が重なる方向に進んで」
「ロビン、灯台と岩を見張ってずれたら教えてくれ」
 そう言ってチップは灯台と岩が重なるよう、進路を微調整した。
 
 トリクシーの指示は『山立て』と呼ばれるものだった。
 海の上には道もなければ目印を記す場所もない。しかし遠くにある動かない目印の位置関係を違う二方向で覚えておくことで、その目印を見た時とほぼ同じ位置に戻ることができる。太古から行われてきた航法で、数学でいう三角法の応用になる。
 一度も行ったことのない場所では使えない方法だが、チップがいた頃もまだ海軍では、その日の潮や風向きにあわせた各寄港地への最適な進入コースの山立てが代々引き継がれていた。
 
「ミズ・モーガン。GPSに設定した目的地から離れていくようだが?」
「その通りよ」
 トリクシーが当然といった口調で答えた。

 何か言い返しそうになったチップは口を閉じ、やつあたりでキャットの髪をぐしゃぐしゃに乱した。
 チップはそのお返しにキャットに膝をばしばしと叩かれ、恋人の素直で分かりやすい反応に心を癒やされた。
 

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