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遅れてきた人魚姫 19

 というわけでベンは自らの洞察力と弟の協力により、王宮内でただ一人トリクシーの居場所を知る人物となった。

 チャンシリーの関係者はトリクシーの出奔に気付いているのかいないのか、ベンが待つ部屋に事情を説明する誰かが訪れる気配は一向にない。
 しかしメルシエの王子を待たせる時間が長ければ長いほど、トリクシーを糾弾する声が大きくなることは間違いない。
 自分がここにいるせいでトリクシーが責められるのは、ベンの本意ではなかった。
 
 座っていたソファから立ち上がり貴賓室の扉を自分で――人払いをしてあったので従僕はいなかった――開けたベンは、扉の外にいたブリジット王妃とはちあわせをした。
 ベンはダンスの相手と向き合った時のように優雅に一礼し、王妃が返礼の膝を伸ばしたところで言った。
「国王陛下に求婚の許可を頂いたことで訪問の目的は果たせました。そろそろお暇をしなくてはなりません。ミズ・モーガンには日を改めて正式な申し込みをさせて頂きます」
 ブリジット王妃の緊張がゆるむのが分かった。
 どうやら姪の遁走をどう言い訳しようかと扉の前で頭を悩ませていたらしい。あるいは国王に知られることを恐れていたのか。
「大変お待たせしてしまったことを、申し訳なく思います」
「いえ、突然押しかけたのはこちらですから」
 ベンは公式訪問ではないからと見送りを辞退したが、王妃からせめてヘリポートまでだけはと言われて受けることにした。
 ベンは王妃に訊きたいことがあった。
「アーマンド国王から、ミズ・モーガンのしるしの箱を頂きました」
 ベンの言葉でブリジット王妃の顔に一瞬何かの感情が浮かんだが、すぐに消えた。
 ベンは後でゆっくりと解釈しようとその表情を記憶にとどめた。
「それは『海の女王の娘』との婚姻の証となる箱です。それをお持ちになっているということは、既に婚姻を交わしたと見做されます」
「失礼?」
 ベンは眉を上げ、王妃の言葉の意味を問うた。
「本来は『海の女王の娘』本人から渡されるものですが、それを受け取った時からベネディクト王子はトリクシーの夫としての権利をもちます」
「……そのような大切なものを、本人以外から受け取ってよかったのでしょうか」
 ブリジット王妃はちらと目線を動かし、声の届く範囲に誰もいないことを確認してから低い声で言った。
「陛下の手元に置いておくよりは安全ですから」
 ベンはその答えに、剛毅果断な国王に従順な、気の弱い王妃という印象を改めた。
「信頼を裏切らないよう努めます」
 二人は交わす視線で、互いが誰の利益のために動いているかを理解した。
 一瞬のち、王妃は再び気の弱そうな微笑みの裏に本来の自分を隠した。
「大変よいお話を頂いたと、国王陛下をはじめとした皆が喜んでおります。トリクシーはほんの少しばかり、そう、感情表現が苦手ですが、あの子もきっと喜んでいる筈です」
 そう言って、王妃はベンを見送った。
 深刻な状況にもかかわらず、否、それゆえにというべきか。
 王妃の言葉にうっかりトリクシーのにこりともしない顔を思い浮かべてしまったベンは、王妃に背中を向けヘリの方を向くまで何とか真面目な顔を保つのに苦労した。
 
 ベンの乗ったヘリは、先程から光る川のような幹線道路の上を飛行していた。
 弟の海軍時代の仲間だったというパイロットはベンに気軽に話しかけてきた。
「あ、殿下。下を飛んでる鳥が見えますか? あれ鳩ですよ」
 ベンは閉じていた目を開けてちらりと指し示された方を見たが、それらしきものを見つける前に視線をパイロットのジョナスに向けた。
「鳩が、夜に?」
「ええ。鳥目で夜は飛べない筈なのに、レース鳩のうちでも頭のいい奴は早くゴールするために夜でも明るい道路の上を飛んで戻るんです」
「興味深い」
「そうでしょう。伯父が趣味で鳩レースをやってるんですが、その辺りにいる鳩とは顔つきから違いますよ」
 ジョナスはベンの短い返事に気を悪くしたりはしなかった。第二王子が無口だというのはメルシエ国民にひろく知られているところだった。
「あと15分ほどで目的の岬に到着します」
 ベンは再び目を閉じた。
 
 着陸の時、ヘリのタイヤが地面についた時にもベンは衝撃をほとんど感じなかった。
 御料車(ごりょうしゃ)並みの乗り心地を実現するパイロット、というチップの紹介に誇張がないことは、チャンシリー王宮と今回の二度の着陸で証明された。

 チップは公務以外では王室専用機を使わずジョナスの操縦するヘリを使うが、アートがそれを好ましく思っていないことをベンは知っていた。
 チップが友人を贔屓していたのではないと知れば、アートも安心するだろう。
 もっともその前には、事前に知らせずにチャンシリーに来たことでチップと二人で雷を落とされるだろうが……。
 
 ベンが目を開けるのとほぼ同時に、チップとキャットのためにカーゴドアが開けられた。

 外は一面真っ暗で、ベンの方からはここがどんな場所か全く分からなかった。
 ヘリに乗り込んできたチップがベンの向かい側に座り、窓の外を指して言った。
「ターゲットはあの建物の中だ。潮見の塔というらしい」
 ベンには最初何も見えなかったが、目が慣れるにつれ星空を黒く切り取る人工的な直線のシルエットを認識した。
「暗いな」
「消灯が早いみたいだね。電気が通ってない可能性もあるけど」
 いつもの調子でふざける弟を無視して、ベンはチップの隣の座るキャットに顔を向けた。
「ミズ・モーガンと連絡は?」
「何度も携帯にかけてるけど、電源が切ってあるみたい」
 キャットがかけるよりもずっと前に、王宮からの電話を受けたくないトリクシーは電源を落としたようだった。
 
 チップがベンに訊いた。
「さあ、どうする? ここでいったん帰るか、それともここで夜明かししてでも出てくるのを待つか」
「待つ」
 ベンの返事は早かった。
 チップは今度は隣のキャットに訊いた。
「ロビンはどうする?」
「どうするって、どういう意味!?」
 キャットが叫んだ。
「残るよ、もちろん! 私だって何か役に立つかもしれないじゃない!」
 チップは満面の笑みを浮かべてキャットの頭を撫でたが、それは恋人というよりも子供を可愛がる仕草に似ていた。
「分かった。でも男に混ざって雑魚寝するのは可哀想だ。どこかホテルまで送っていく」
「平気だよ! 島ではずっと一緒に寝てたじゃない」
 そう言ってから、キャットは周囲に人がいることを思い出したのか急に赤くなった。
 ベンは恋人同士のやりとりは最初から耳に入れる気もない様子だったが、操縦席から振り返って相談に加わっていたジョナスの方は、遠慮なくにやにやしていた。
 そのジョナスに向かってキャットはあわてて『一緒に寝ていた』の部分の弁解をしはじめたが、無用の心配だった。
 
 ジョナスは身を乗り出すとチップの肩を小突きながら言った。
「何度聞いても腹が立つんだよなぁ。俺たちがお前の分のグラスまで用意してくらーい顔で酒を飲み交わしてた時に、お前が可愛い女の子と一緒にすやすや寝てたと思うと。お前の好きなズブロフカ、俺たちは誰も好きじゃないのに仕方なく皆で順番に鼻つまんで飲んでたんだぞ」
 腹が立つというわりにジョナスは嬉しそうで、チップもまた同じような笑いを浮かべてわざと気取ったアクセントを強調して言い返した。
「ジュブルフカはポーランド王室で好んで飲まれていた蒸留酒だよ。君たち庶民の好きなビールとは――うわっ、やめろっ!」

 首を極めようとするジョナスともみあうチップの姿を、キャットはあきれて見守った。
 ベンはいつものように周囲の出来事から一歩退いた態度で、潮見の塔を見つめていた。
 

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