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あいつが悪い 2(おわり)

 俺とベーカーの間には常に、深くて越えられない溝がある。俺と同じ側に立っているはずの王子が一体どうやってその溝を埋めているのか見当もつかない。
 もちろん俺はその方法が分かったとしても自分から埋める必要を認めていない。必要ならばこれの方からこちら側へ来るべきなのだ。
「この先。青と白のロゴ見える? あの手前に車つけてくれる?」
 沈黙を破ったベーカーの声と同時に、壁から突き出した『ベーカーズ』の看板を認めた。これでやっと迷惑な義務から解放される。

 下がパン屋で上が自宅、そう聞いていた。
 いくつか支店があり、うち一つがメルシエにあることも知っていたが、ベーカーの実家は想像とは少し違っていた。
 表通りに面したワンブロックの一階部分が丸々店になっている。その上にはオフィスらしいガラスを使ったフロアがいくつか重なっていた。たぶん最上階がペントハウスで自宅。それなりに成功しているのだろう。
 ビルを建てるためにいくつパンを売ったんだと聞いたら、失礼だと怒るだろうな。
 本気で知りたいわけではない。ふと思いついただけだ。
 俺が何を考えているかなど想像もしていないであろうベーカーは、さっきの言い合いとふてくされた沈黙がなかったかのようにいきなり真面目な口調で言いだした。
「リック、本当に本当にありがとう。こんな遅い時間にこんなに遠くまで送ってくれて、何てお礼言っていいかわからない」
 ベーカーにもう病人らしい様子はどこにもない。本当にあの駐車場で言っていたとおり休めば一人で帰れたらしい。
 俺はなんだか自分が一人で騒ぎを大きくしてしまったような気分になった。それこそ放置して帰……いや、それはできなかった。
「もう朝になっちゃうけど、うちに泊まって」
 いきなりのベーカーの誘いにぎくりとし、首を大きく横に振って拒んだ。ベーカーの後ろに、笑顔をうかべて俺をちくちくと針刺し代わりにするチャールズ王子の幻が見えた。まるで守護天使だ。
「予定がある」
「でも少しは寝ないと」
「お前こそ早く寝ろ」
「あなたが寝てくれないと申し訳なくて寝られないよ」
 押し問答を続けているベーカーの背後のドアに、守護天使に代わって現れた人影があった。ウィンドウ越しに見えるのは暗い色のビジネススーツとガラスをノックする指の大きなダイヤだ。音に振り向いたベーカーが、ウィンドウを降ろして呼びかける。
「お母さん」
 明け方の歩道に似合わないビジネススーツ姿のミセス・ベーカーは車の中を覗きこんで目をすがめた。
「アクレ伯爵の息子さんに送って頂いたの?」
 名乗る前にそう言われ、一瞬警戒した。ベーカーの母親を、肩書に敏感で有力者の知遇を得たがる類の人間なのかと疑う。
 しかしミセス・ベーカーの視線はもう俺を通り過ぎて娘に移っていた。
「車が故障でもした? 何かトラブル?」
「熱。でももう下がった。薬飲んだ」
 その拙い説明で状況が把握できたらしい。ミセス・ベーカーのまとう空気がほぐれた。開いたウィンドウから、爽やかな風が入ってきた。
「ごめんなさい、娘がご迷惑をかけたようで。私からもお詫びするわ」
 その言葉と窓から覗く笑顔に、第一印象が修正される。
 計算高いビジネスパーソンなのかと思ったのは全くの誤解だった。俺がここにいる理由が分かった今、彼女は俺の肩書に名前以上の関心を払っていない。女友達の母親を何人も見てきたから分かることだ。
 そしてまた、お詫びすると言いながらミセス・ベーカーがまったく恐縮していないことも分かる。パーティの席で特別な飲み物を取ってくるよう頼んだり、駅で重たい荷物を運ばせるマダムそっくりだ。困っている女性に男性が手を貸すのは当然だと思っている。人を使うことをうしろめたく感じない、ねぎらいの言葉と微笑みで世間を従えていく女性。ミセス・ベーカーがその一人であることは訊くまでもなく分かった。
 分からないのは、このミセス・ベーカーがベーカーの母親であることだ。顔立ちからいって実の親子であることは疑いようもないが、どこをどう捩じったらベーカーになるのか。いや、どこをどう捩じったらミセス・ベーカーがパン屋の奥さんミセス・ベーカーになるのか? 確かに俺は想像力豊かとはいえないが、その想像力を限界まで振り絞ってもこの女性が一個いくらのパンを売る姿を思い描くことはできない。
「ねえ、お母さんからも泊まっていくように勧めて。リック寝てないの」 
 俺がなけなしの想像力を振り絞っているとも知らずにベーカーは、母親を味方につけようとしつつ重ねて俺に訴えた。
「一時間でも二時間でも、ベッドで寝てから帰ってよ」
 重ねて断ろうと口を開きかけ、窓の外のミセス・ベーカーと目が合った。その目が俺の苦境を面白がっている気がしてならない。
 面白がるのではなく娘を止めてほしい。
 という気持ちが俺の目に現れていたのだろうか。ミセス・ベーカーが俺より先に口を開いた。
「……遠慮なさっているだけなら無理にでもお引止めしますけれど、どうしてもお帰りにならなくてはいけない事情がおありなの?」
 俺は目の前に差し出された救いの手をためらわず取った。
「はい、マム」
「もしあなたか娘の恋人が誤解するのを心配しているなら」
「は――いいえっ、マム」
「そう」
 ミセス・ベーカーがにっこりと笑う。とてもいい笑顔だった。
「若いんですもの、少しくらい寝なくても平気よね。もう一分だけお待ちになって」
 ミセス・ベーカーは誰の返事も待たずに去り、すぐに紙袋を手に戻ってきた。
「寝不足はともかく空腹は我慢しない方がいいわ。眠気覚ましにコーヒーも」
 車の中に焼き立てパンの抗えない香りがひろがった。
「さあキャット、これ以上お引止めしては悪いわ。あなたこそ今すぐベッドに入りなさい」
「はぁい」
 不満そうではあるが、ベーカーは母親の言葉に従って荷物を手にした。もっと粘るかと思ったので少し意外だったが、気持ちは分からなくもない。俺自身もしミセス・ベーカーに泊まっていきなさいと勧められたら勝てる気はしない。

 最後に、歩道に並んだ母娘を一瞥した。
 仕立てのいいビジネススーツ姿の母親と一晩経って皺になったドレス姿の娘は、それぞれの言葉で謝意を表した。
「ロード・オスワルド、ご親切にありがとうございました」
「本当にありがとう、リック。気を付けてね。そのパン焼き立てだから早く食べてね」
「……お大事に」
 似ているようで似ていない二つの笑顔をするすると上がるガラスで遮って、俺は帰路についた。

 初めて食べたベーカーズのパンは小麦と発酵バターの香り高くしっかりと噛みごたえがあり、なんとなくベーカーに似ていた。とはいえパン屋で売ってるパンが一種類の筈はない。たまたま焼きあがったのが素朴なパンだっただけのことだろう。相変わらずミセス・ベーカーがパンを売る姿は想像できないが、この飾り気のないパンを焼いたのがベーカーの父親であることは何となく納得できた。

 帰宅してすぐベッドに入って目を閉じ、次に目を開けたのは午後も半ばを過ぎてからだった。
 ローガンがセッティングしたランチをすっぽかしたことに気付いたが手遅れだ。謝罪のメールを送ろうとスマートフォンを手に取ると、ローガンからの何件もの着信とメールが届いていた。最新のメールを開く。
『いい感じになってきたのでもう来るなよ』
 俺が寝ている間に流れが変わったらしい。後で謝罪だけはしておこう。返信せずに次のメールを開く。
『昨日は本当にありがとう! うちのパンおいしかったでしょ ;)』
 何だこのイラッとくる顔文字は。次。
『キャットが世話になった。頼りになるいとこがいてくれてよかった。明日の昼、一緒に食事を』
 胃の中で蝶が羽ばたいた。個人的なメールを頂くのは初めてだが、俺のアドレスくらいは共通の知り合いの誰かに訊けばすぐに分かるものだ。もしかしたらベーカーが今朝の出来事を話してアドレスも教えたのかも。
 以前から親しく声をかけて頂いてはいるし、食事に誘って頂いたのは非常に光栄なことだが、手に変な汗がにじむ。やましいことなど何一つないのに。
 シャワーを浴びよう。それとコーヒーを一杯。
 それが今朝二杯目のコーヒーになることをふと思い出し、また胃の中の蝶が震えた。

 王宮の一室でテーブルに次々と並べられる皿には、どう調べたのか俺の好きな料理ばかりが載っていた。もしかしたら旅行中の両親にわざわざ連絡をとられたんだろうか。帰ったら確認してみよう。
 殿下も俺と同じものを召し上がっていた。臭みもなく絶妙な焼き加減のレバーソテーは今まで食べた中で最高の味だったが、レバーソテー好きが少数派なのは知っている。王族である殿下は好悪を表情に出したりはなさらないが、お嫌いだったら申し訳ない。しかしこれは本当に美味い。どっしりとしたフルボディの赤ワインとの相性は最高だ。いつまでも食べていたいくらい美味い。
 俺がレバーソテーを味わいきるまで待っていて下さったんだろう。最後の一切れを飲みこんだところで殿下がやっと今日の食事のきっかけとなった出来事を話題にされた。
「リック、この前は大活躍だったそうだね。キャットはしっかりしているように見えて繊細でね、ストレスが重なるとすぐに熱を出すんだ。いつもなら僕がついているんだけど、あの日は遠方にいたから」
「たまたま見つけて、家まで送っただけです。家に着く頃にはもう熱も下がって回復していましたし」
「それでもリックがいてくれて良かった」
 チャールズ殿下がにこりと笑う。この笑顔をただの好意と勘違いしてはいけない。俺はかつて親戚の集まりで、由緒ある教会の壁に落書きしようとしたいとこのバーティーを殿下が笑いながら堀に放り込んだのを見たことがある。
 浅い堀だったのでバーティーはすぐに自分で這いあがってきたが、殿下は「いけないなぁ、あんなつまらない名前の残し方よりもっと良い方法があるのに」と言って、そこに「xxxx年xx月xx日、いたずらの罰でアルバート・フランクリン・オズワルドが堀に落とされた場所」の立て札を立てさせた。彼の犠牲のおかげでこの教会に第二、第三のバーティーが現れる事態は未然に防がれたが、バーティーと両親が必死で謝罪した結果、その立て札は抜かれて同じ場所にバーティーの寄贈プレートつきベンチが置かれ、それは今もそこにある。よく落書きもされるらしい。この前会った時にバーティーは「自分の名前の上に落書きされるのはいい気分じゃないが、同じことをやろうとした身なので何も言えない」と言っていた。

「キャットのお母さんも僕にわざわざ電話をくれてね、君に感謝していたよ」
「大したことはしていません」
「そんなことはないだろう。リーの――キャットのお母さんの言葉を借りればリックは『火炎放射器で焼き払われる危険を冒しながら娘の世話をしてくれた勇敢な騎士』だそうだよ」

 ミセス・ベーカー。
 ……恨みます。

 どんな顔をすればいいのか、何と答えればいいのか思いつかず、無表情かつ無言のまま殿下を見返した。
 殿下が再びにこりと笑う。
「大事な時に彼女のそばにいられなかった苛立ちを君にぶつけるような真似はしないよ。これでも僕は君たちより年上なんだ。それにキャットは僕の目の届く範囲に収まるような女性じゃない。今後も彼女は自分でできることは自分でやろうとするだろうし、それを遮るつもりはない。それでもどうしても彼女が困った状況に陥った時には」
 殿下が笑顔を一層深くする。
「僕の信頼を君に預けるよ」
 剣の平で肩を叩かれた気分だった。
 不思議な感動があった。
 この方に信頼して頂いたことが誇らしい。いつも内心で葛藤し「何で俺が」と思いながらあれの――いやもうあれと呼んではいけないだろう――彼女の面倒をみてきた苦労を殿下に認めて頂けたことが嬉しい。
「信頼に足るべく努力します」
「といっても彼女への接し方を変えろという意味じゃないよ。キャットにとって君は倒すべきライバルの一人らしいから」
「倒れるつもりはありませんが」
 ついそう切り返して殿下に笑われながら、心の隅に溜まったほこりのような名前のない感情を外へと追い出した。

 その後。
 ローガンは俺に紹介する筈だったレイチェルという子と付き合うことになったそうだ。大学のカフェで付き合うに至った経緯を詳細に聞かされてうんざりした。約束をすっぽかした負い目がなければとっくに席を立っているところだ。揚句のはてには前から気にいっていた子で、「どうせリックとは長続きしないだろうから後釜を狙っていた」と恥ずかしげもなく告白したから、お前にはプライドがないのかと一喝したところで、ベーカーが現れた。
「リック、先週末はありがとう」
 その挨拶を聞いて、ローガンが不思議そうな顔をする。幸いなことに、ローガンと違ってベーカーは経緯を詳細を語るような真似はしなかった。
「これ、お礼ってわけじゃないんだけどよかったらもらってくれない?」
 差し出されたのは来月開かれるテニストーナメントのチケットだった。
「リックなら一緒にいく相手には困らないだろうけど、都合が悪かったら他の人に回しても構わないから」
 言いたいことだけ言って、ベーカーはローガンに割り込んだ詫びをしてあっという間に去って行った。

「……やる」
 受け取ったばかりのチケットを、ローガンに差し出す。
「えっ、お前は行かないの? これS席だし、準決勝の日だぞ」
 ローガンはチケットをしっかりと握って目を走らせながら、口先だけでためらいを示した。
「この前の詫びと、彼女ができたお祝いだ。この日までに振られるなよ」
「うん、努力する」
 もうその日のことを想像しているんだろう、ローガンがにこにこしながらそう答えた。

 チャールズ殿下の信頼を裏切る気はない。ベーカーを女性として好ましく思うわけではない。
 ただ……ベーカーに貰ったチケットで女友達とテニストーナメントを観戦するのは何か違うような気がしただけだ。あいつにお膳立てされるほど落ちぶれていないというか、何というか。

 つまり。
 そうだ。
 あいつが悪い。

end.(2013/10/14)

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