いちばん大切なもの 1
いちばんの贈り物 1

いちばん大切なもの◆1

「坂田さん、今日は何日だ?」
 社長秘書の坂田は、突然社長室から出てきた植田にそう言われ、あわてて目の前のPCを確認した。
「23日です…1月の」
 念のため月まで言い添えたのは、仕事に没頭している時の社長が何もかも忘れるのを気遣ってのことだった。
「この辺で花屋を知らないか?」
「そこに」
 坂田が指した窓の外、向かいのビルの一階に小さな花屋があった。
「ちょっと出てくる」
 そう言った植田がオフィスを駆け抜けていった。

 植田が店に着いた時には、もう店は閉店準備を始めていた。エプロンをした若い女性が店の外に並んだ花を店の中に仕舞っているところだった。
「もうお終い?」
「いえ、大丈夫ですよ」
 そう言った店員が植田の前で腰を伸ばした。
「白い薔薇下さい。29……いや30本」
「30本ですか。ちょっとお待ち下さいね」
 そう言いながら店員は店の中のガラスケースを開けた。
「申し訳ないですが、今日はもう10本で売り切れです」

 植田はあからさまにがっかりした顔はしなかった。その代わりに何かを思い出すように少し微笑んだ。
「そうか。またやっちゃったなぁ。妻の誕生日をついさっき思い出して」
 そう言った植田に向かって、店員が距離を縮めた。大柄な植田を見上げるようにして、熱心に言った。
「大丈夫です。薔薇、見つかります。ついてきて下さい」
 そう言って彼女は先に立って店を出た。小走りに駆け出した背中に向かって植田が声をかけた。
「いいよ、10本で! 店どうするの?」
 彼女は一旦戻ってパイプを繋いだシャッターをいいかげんに閉め、また走り出した。植田はついていくしかなかった。

 彼女が植田を導いたのは、少し先の繁華街、その一つ裏に入った通りだった。シャッターを閉めた銀行の前にワンボックスカーが停まっていた。リアゲートを開けた荷室に、さっき花屋の外にあったのと同じ、花を入れた容器が並んでいた。
「白い薔薇ある?」
「あるよ。何本くらい?」
「20本」
「そんなにはないな。12本だ」
「じゃあそれ全部頂戴」
 彼女は植田に支払いをさせ、12本の花を新聞紙に包ませて自分で抱え、また駆け出した。

「揃いましたね、30本」
 にこにこした店員が手早く30本の薔薇を改めて大きな花束に包み直した。結局あの後もう一箇所、道端に花を並べた花の夜店(正式に何と呼ぶのか植田には分からなかった)を回り、植田と一緒に店に戻ってきたところだった。
「奥様に今日中に渡せそうですか?」
 そう言って花束を差し出した店員に、言おうか言うまいか悩んだ挙句、これだけ色々してくれた相手には正直に言うべきだろうと、植田が口を開いた。
「ごめん。実は妻はもう亡くなってるんだ」
 店員は目をまん丸にして植田を見上げた。
「よく色んな記念日を忘れては怒られたんで、さっき思い出したから花でも買おうかとふと思いついただけで。さすがに命日だけは忘れないんだけどね」
 店員の目にみるみるうちに涙が浮かび、粒になって頬に零れた。植田があわてて言い添えた。
「でも君のお陰で今年は怒られずに済みそうだ」
「私が奥様だったらきっとすごく嬉しいと思います。喜んでますよ、絶対」
「……ありがとう」
 植田は店員に微笑んだ。店員が涙に濡れた目で微笑み返した。可愛い子だな、それに心が温かい。なんだか本当に妻もどこかで一緒に微笑んでいるような気がした。

 それから、植田は時々花屋に寄るようになった。白い薔薇を一輪買って帰ったり、季節の花を勧められて買ったり。植田のために走り回ってくれた店員が実は店のオーナーだというのは、いつか雑談の時に聞いた。その時に驚いて歳を聞いたら26だと言った。思ったよりも若くて驚くと同時に少しがっかりしたのは、35の植田とはつりあわないほど若いと感じたせいだった。
(つりあうって、いったい何がつりあうんだか。まあつりあわない位が丁度いい。見てる分には)

 そう思っていたのだが。ある日帰りがけにまた閉店間際の花屋に寄った。珍しく彼女は店の奥の椅子に座っていた。
「いらっしゃいませ」
 そう言って立ち上がり、よろめいて机に手をついた。
「どうしたの?」
「ちょっと風邪引いたみたいで、店を閉めようかどうしようか考えてたとこです。ごめんなさい。今日はどの花にしましょうか?」
 そう言った彼女に植田が言った。
「今日は花はいいよ。でも寄って良かった。片付け手伝うよ」
「そんなわけには」
「座ってて」

 彼女が机にくずれるように突っ伏した。相当無理をして立っていたらしい。植田は外に出た花桶(この名前は彼女が言うので覚えた)を店の中に片付けた。あとはいつも掃除をしていた気がするが、とほうきに手を伸ばすと、彼女が腕の間から顔を半分だけ覗かせて言った。
「掃除はいいです、今日はもうシャッターだけ閉めれば」
「レジは?」
「レジ閉めしてないんでそのままでいいです」
「空き巣が入ったらどうするの?」
「いいです。もう無理」
 植田は見かねて声をかけた。
「家まで送ろうか」
「大丈夫です。この上ですから」
「なら、なおさら送っていく」
 彼女がレジの下からバッグを出したので、植田が支えて店を出た。明かりを消してシャッターを閉める間、彼女は壁にもたれたままだった。ビルのエントランスを入って、エレベーターに乗るのにもおっくうそうな様子を見かねて、エレベーターを出たところで植田は彼女を抱き上げた。

 小さくかすれた悲鳴が上がった。
「人じゃなく担架だと思って。部屋はどこ?」
「501」
 表札の出ていない部屋の扉を、彼女のバッグにあった鍵で開けて入った。こじんまりとした部屋が玄関から窓まで続いていた。
「一人暮らし?」
「はい」
「どこで寝てるの」
「布団」
 訊かれたことにぼんやりと答える彼女は、床に横になって小さく丸まっていた。植田が躊躇なく押入れを開けて、布団を敷いた。おそらく彼女は後になったら恥じ入るだろうが、今はプライバシーよりも優先するものがある。幸い押入れの中は開けた植田が感心するほど片付いていた。
 横になったままの彼女を布団に移した。健康な重みだ、植田はそう思った。ふと、妻がどんどん軽くなっていった時の悲しみを思い出した。
「誰か、看病を頼める人は?」
「友達に……携帯の三島……」
 合間に苦しそうに息をする彼女が携帯を探り出し、植田が受け取った。携帯に三島という友達を見つけ、電話をしようとした植田が彼女を振り返った。
「君の名前は?」
「佐々木みどり」

 電話に出た三島という友達が15分後にコンビニの袋を抱えて到着したので、植田は事情を説明して入れ替わりでみどりの家を出た。
 マンションの玄関を出て、道を歩きながら溜まっていた会社からの着信に返信ボタンを押した。
「社長、今どこにいらっしゃるんですか!?」
「会社の前だ」
「早く戻って下さい! 会議もう始まってます!」
 秘書の坂田の割れかけた声がスピーカーから響いた。大事な契約の条件を詰める会議だった。坂田が焦るのも無理はない。
「すぐ戻る」

 憤った坂田に軽く詫びて他の役員が待ちかねていた会議室に入った。明日の最終交渉前に契約条件を詰めるための会議中だった。
「悪い。どこまで進んだ?」
「前回の向こうの提示額を、5%づつ変えた結果がこれです。原価の方も今日付けの価格で再計算してあります」
「納期は?」
「原料の到着が遅れなければ何とかなりそうだということになりました。まあ今はこの景気ですから物流も空いてるし、季節的にも船が遅れる心配はあまりないと思いますね」
「あとは資金繰りか。そっちはどうだ?」
「何も突発事故が起きなければ大丈夫ですが、かなりギリギリです」

「そうか」
 植田はしばし沈黙した。皆は次に来る言葉を待ち構えた。
「じゃ、15%ディスカウントまでだったら決めよう。そろそろ本契約しないと、こっちも原料の発注が出せない」
 役員達がほうっと小さく息を吐いた。

 植田の会社は特殊な原料を加工して、国内外の化学や薬品の大手メーカーに卸していた。会社の規模としては小さいが、加工技術で特許をとっているのでほぼシェアを独占している。元々の市場規模が小さいといってしまえばその通りだが、一つ契約が決まれば大きく利益が上がる。
 問題は、取引先が大手だということだ。大手であるということは安定という意味では比較的リスクが少ないが、支払い条件で向こうの言いなりにならざるを得ない。あまりに大きな金額の場合は契約自体を分けてもらうが、いつも買掛金の支払と売掛金の回収までの期間の資金繰りで経理担当は頭を悩ませている。今回もそれが一番ネックだったのだが、社長がGOと言えばGOだ。

「まだ手形で払ってくれたら割引で現金化できるんですけどね。7ヵ月後現金は厳しいですよ」
「この契約が決まって最初の契約金が入ったら、ちょっとは楽になるから」
 植田は経理担当の浅井をそう言って慰めた。

 翌日、先方のメーカーと前回提示額の10%ディスカウントで交渉が成立した。

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