いちばん大切なもの 1
いちばんの贈り物 1

いちばん大切なもの◆2

 四日ぶりにシャッターを開けるみどりの姿を窓から見て、植田は様子伺いに花屋を訪れた。植田の姿を見たみどりが叫んだ。
「この前はありがとうございましたっ! 気付いたらお名前もお勤め先も全然知らなくて、お礼が遅くなりましたっ!」
 そう言って深々と頭を下げた。少し頬が細くなったような気がした。

「後で友達にも怒られました。店の常連さんにあそこまでやってもらっていいのかって。本当に、本当にご迷惑をおかけしました」
「いや、大したことはしてないよ。善意の通りすがりだ。もうすっかりいいの?」
「はい、体はもう全然……店の方は……」
 そう言って彼女は店内をぐるっと見回すようにした。そこここに萎れた草花があった。植田が片付けた時にはつぼみだった花も満開になっていた。
「今日は片付けだけして、明日は市場の日なので新しい花を仕入れます。これはもう売り物になりませんから。可哀想なことしちゃいました」
「大丈夫なの、お店は」
「ええ、まあ小さい店なんで損害もそれほどは」
 そう言ってみどりが苦笑した。一人でやっているからにはその分も織り込み済みなのだろうが、植田はみどりをどうにかして励ましたかった。

「もう食事は何でも食べられるの? メシ食いに行こうよ、ご馳走するよ」
「いえいえっ、私こそご馳走させて下さい。今日はお花を……?」
 みどりが言いかけて不思議そうな顔で植田を見上げた。植田が午前中に店に来るのは初めてだった。
「いや。店を開けてるのが見えたから」
「見えた?」
 植田が向かいのビルの上の方を指した。
「あそこにいるんだ、普段は」

 植田とみどりは近くの店で早いランチをとっていた。病み上がりのみどりに気を使って和食の店に入ったら、案の定みどりは月見うどんという回復食のようなメニューを頼んだ。ようやく植田は自分の名前を名乗ることができた。うえださん、と噛みしめるように呟くみどりを見たら何だか動悸が早くなった。

「植田さん、目の前にいらしたんですね。全然知らなかった」
「正面玄関は向こう側だしね。普段はこっちから出入りしないから」
 ついでに普段はハイヤーだから、というのはみどりには言わなかった。
「でもお昼時にもお見かけしたことないですよね? お弁当とか?」
「うーん、お客さんと外で食べることもあるし車の中でコンビニ弁当を食べることもあるよ」
「営業さんなんですか?」
 みどりがにこにこして訊いた。
「いや、一応偉い人」
「そうなんですか」
 みどりはあっさりと話題を終わらせた。植田は肩すかしを食らった気分だった。自分から社長だと名乗ったり名刺を出したりするのは何だか照れくさかったが、ちょっとは感心して欲しかったような気もした。

 支払いの段になってすこし揉めた。どちらも伝票から手を離さなかった。
「ご馳走させて下さい」
「誘ったのは僕だし、女の子に支払いなんかさせられない」
「女とか男は関係ないと思います。この場合」
「デートの場合だったらご馳走させてもらえるのかな?」
 みどりが赤くなってぱっと手を離した。その隙に植田が伝票を持って立ち上がった。支払いが済んで店を出ると、みどりがまだ赤い顔をして立っていた。
「じゃあこれはデートってことで」
「……からかわないで下さい」
「本気なんだけどな」
 植田はそう言った自分に驚いた。亡くなった陽子には「人をだしにして花を買いに行ってたくせに、ほんとは下心があったのね」と怒られるだろうか。いや、あいつの導きかもしれないな、植田はみどりが答えるまでの一瞬にそんなことを考えた。
「本気にしますよ」
 みどりが俯いてそう言った。
「いいよ」
 植田がにこやかに答えた。やっぱり陽子の導きだ。ということにしておこう。

 その夜、改めて植田はみどりの店を訪れて夜のデートに誘った。みどりは泣きそうな顔で訊き直した。
「ほんとに本気にしますよ?」
「まだ疑ってるの? ひどいな」
「だって奥さんが」
「うん、僕も考えたんだけど、多分あいつの導きだと思うんだ。白い薔薇を誕生日に30本揃えてくれたあの子だったらいいよって、きっと言ってくれるんじゃないかな。
 今年35歳、やもめだけど独身です。仕事は向かいのビルに入ってる会社の社長で、趣味はドライブと映画鑑賞。長所は仕事熱心なところ、短所は忘れっぽいところ。自己紹介終わり。全然対象外っていうんじゃなければ試しに付き合わない?」
「……はい」
 みどりが目を伏せて微笑んだ。植田は軽い調子で喋った後で、自分の手のひらがじっとりと濡れていることに気付いた。ものすごく緊張していたらしいと、遅ればせながら気付いた。

 植田はみどりを近くのイタリアンレストランに連れて行った。みどりはきのこリゾットというまたあっさりしたメニューを頼んだが、来た皿は全部美味しそうに食べた。

「植田さんはどうして社長さんなの?」
「新卒で入った企業でままごとみたいな子会社を立ち上げて、最初はそこの社長をやった。出向期間が過ぎたらまた課長に逆戻りしてつまらなくなってさ。知り合いが特許をとった技術で会社を作りたいって言ってたから、社長を買って出た」
「社長さんって普段何してるの?」
「社長室でふんぞりかえってるよ」
「へえ」
 みどりがあたりさわりのない相槌をうって、そのまま話が終わりそうだった。あわてて植田は言った。
「嘘だよ、信じないでくれよ」
「そうなの?」
「普段は取引先を回って先の商売の話をしたり、銀行で頭を下げたり、うちの会社で何か新しいことができないか調べたり、支店や工場を回ったりしてる。そういえば来週火曜日から出張だ」
「そうなの。いってらっしゃい」

 何というか。手ごたえがない。
 植田に気がないわけじゃなさそうだが、植田の仕事に関心がないのがありありと伝わってくる。
 社長なの、すっごーい! と言って欲しかったわけではないが、もうちょっと賞賛とか尊敬とか、そういうものを表して欲しかった。
 ああ、俺は社長の肩書きを鼻にかけてたんだ。と、植田は今更それに気付いた。否、気付かされた。九つも下の女の子のおかげで。

 食事の後でみどりが植田を部屋に呼んだ。
「お料理はあんまり上手じゃないけど、おいしいコーヒーだったらちょっと自信あるんです」
 最初にそう言っていたとおり、みどりの淹れたコーヒーは美味しかった。飲み終わったカップを植田がキッチンに運んで、カフスを外し、ワイシャツをまくりあげた。
「美味しいコーヒーをご馳走様。後片付けは僕がやるよ」
「いいですよ」
「いつも赤い手をしてるから、こんな時くらいは手伝わせて」
「すみません。綺麗な手じゃなくて。花屋の職業病みたいなものなんです」
 みどりがそう言って赤くなった。すぐ赤くなったり泣いたり笑ったりするみどりを見ながら、そういえば幸せってこういうのだったかな、と植田は考えた。いつの間にか忘れていたことを、みどりが思い出させてくれた。
「赤い手をして一生懸命仕事をしてるみどりさんが好きなんだ」
 そう言って、顔を傾けてみどりの赤い顔に近づいていった。みどりが一層赤くなりながら、目を閉じた。泡だらけの手はまだキッチンのシンクの中に入れたまま、植田はみどりに初めてのキスをした。

 その後も植田とみどりはデートを重ねた。たいてい花屋を閉めた後で食事をして、みどりの部屋を訪れていた。みどりが美味しいコーヒーを淹れ、後片付けはいつも植田が引き受けた。
「みどりはどこの出身?」
 親しくなるにつれ、上田は自分を俺、彼女をみどりと呼ぶようになっていた。みどりが一人暮らしなのは最初に部屋に送った時に知っていたが、まだ家族についての話はしたことがなかった。
「ここです。ずーっとここです。うちは代々花屋だったんです。昔この辺が商店街だった頃からずっと。でもこの辺みんな地上げで駄目になっちゃって一度廃業したんですけど、私の代からまた花屋をやろうと思ってあの店を始めたんです」
「ご両親は?」
「母は近くにいますけど、父は千葉の方で暮らしてます。……離婚したんです」
「そうなんだ」
 みどりは家族についての話題をそれで打ち切った。そしてにこっと笑って植田を見上げた。
「家族とか、人の気持ちとか、お金より大事なものって世の中にいっぱいありますよね。花屋をやってて一番嬉しいのは、お花がそういう気持ちを伝えるために使ってもらえる時なんです。だから、植田さんが最初に店に来てくれた時にはどうしてもお花を用意したくて、走り回らせちゃいました」
「みどり」
 植田が上から覆うようにして、小柄なみどりを抱きしめた。みどりが小さな声で言った。
「私、亡くなった奥様の誕生日に薔薇を買ったって聞いてからずっと植田さんが好きでした」
 みどりからの初めての告白だった。

 みどりはいつも同じ服を着ているように見えた。Tシャツにジーンズ、デートの時だけはカットソーにスカート。似合わないわけではないがポリシーがあってやっている格好というほどには服自体に拘っている様子もない。植田は密かにみどりの生活にゆとりがないのかと思っていた。店の花の売れ行きはそこそこあるようだが、あまり商売について突っ込んだことを聞くにはまだ遠慮があった。

 みどりの誕生日が来月だと聞いて植田はちょうどいいから洋服をプレゼントしようと思ってそう言った。みどりはあっさりと断った。
「ダイエット中だから痩せるまで服欲しくないんです」
「痩せなくていいよ。今のままで」
「駄目なんですっ。植田さんに抱き上げてもらったとき、もうすごく恥ずかしかったんだから」
 そう言ってちょっと頬を膨らませたみどりを植田は可愛いと思った。抱き心地は今ぐらいがいいんだけどと思ったが、怒られそうなので言わなかった。
「じゃあ他に何が欲しい?何でも好きなものリクエストしてくれよ」
「別に欲しいものは……ただ……その日は一緒にいられたら嬉しいな」
「分かった」
 植田はみどりを抱きしめて、プレゼントが左手の薬指にする指輪だったら、みどりは受け取ってくれるだろうかと心の中で考えた。

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