いちばん大切なもの 1
いちばんの贈り物 1

いちばん大切なもの◆3

 植田はみどりとの約束だけは忘れないようにしようと思って、秘書の坂田にもその日だけは絶対に予定を入れるなとあらかじめ言っておいた。仕事が恋人だった筈の植田がプライベートで平日に休みをとるのは、亡妻の命日以外では初めてだった。
 坂田は何となく社長に最近訪れた春の気配に気付いていたので、心の中では思い切り応援しながら、顔には出さずにスケジュールのその日に社長OFF、と大書きした。

 しかし、その三日前にことは起こった。

「社長」
 経理担当の浅井が、突然社長室を訪れた。
「ツキノの手形が不渡りになりました」
 植田が思わず立ち上がった。
「いくらだ」
「八千万です」
 植田が拳を握った。本当はツキノの手形決済が今日だということも金額も把握していたが、何かの間違いであればと思って改めて聞いたのだ。残念ながら記憶に間違いはなかった。

 植田がコートかけから上着を取った。
「銀行に行く。お前も来い。ここ数日で大きな支払いはなかったな」
「はい。少額のものばかりです。ただ、月末にデカい奴が」
「分かってる。……まあ、やるだけやってみよう」
 浅井に資料を用意するように言って、植田は上着を着たままいったん社長席に座り直した。机の上で意味もなく手を何度か滑らせてから、ワイシャツの胸ポケットから携帯電話を取り出した。

「みどり。約束を破ってごめん。誕生日は一緒に過ごせなくなりそうだ」
 平静を装って電話をしたつもりだったが、植田の声がいつもと違ったらしかった。
「どうしたの?風邪でもひいたの?」
「取引先が不渡りを出した。このままだとうちで振り出した手形も月末に不渡りになる。これから資金繰りに駆けずり回らなくちゃいけない」
「だって、不渡りって二回目まではいいんじゃないの?」
 そんなおめでたい話は聞いたことがない。面白くない筈なのに、植田は少し笑った。
「無理だよ。一回でも不渡りを出したとか、なりそうだって噂が立ったら銀行も融資先もあわてて資金を引き上げる。不渡りを出した先がうちの大口の取引先だってことは皆知ってるから、うちも今から債権を回収しようと客が押し寄せてくる。最初の赤は数千万でも、億単位の資金が足りなくなる。うちなんかは自転車操業だからね、ペダルを踏んでないとすぐ倒れるんだよ」

 植田は最後に付け加えた。
「みどりは金より大事なものは世の中に沢山あるって言ってたけど、やっぱり金がないと何も守れないみたいだ。あがけるだけあがいてみるけど、しばらく電話もできないと思う」
 みどりの返事を待たずに電話を切った。みどりに弱音を吐く前にわざと退路を断っておいた。明日世界が終わるんだったらいいのに。それなら何も考えずにみどりのを傍を離れないのに。

 こういう事態がいつ起こってもおかしくないことは前々から分かっていた。あの時大口契約を受けると決めた自分の判断ミスだ。今まで仕事第一できた自分が、年甲斐もなく年下の女の子にうつつを抜かして、社長業をおろそかにした罰なのじゃないかと、半ば本気で考えた。でも社員や他の取引先までそんな罰に巻き込むなんて間違ってる。ともかく乗り越えられるかどうか、ここ三日が正念場だ。

 そこまで考えたところで浅井が資料を詰めた書類鞄を手に社長室へ戻ってきた。秘書の坂田を呼び、いくつか指示を出してから、硬い表情の二人はオフィスを出た。
「すみません。私がもっと前に」
 経理担当としても、やりきれないものがあるのだろう。浅井がそう詫びかけた言葉を植田が止めた。
「いや、自分一人の責任だと思うな。ケツ持ちは俺だ」

 その日から三日間、植田と浅井は銀行や金融業者を走り回った。都内の銀行から、地方のマンガみたいな腕をしたボディーガードがついている金融ブローカーのところまで、頭を下げて回ったが、思ったようには金は借りられなかった。
 ブローカーの所から帰る車の中で、浅井が悔し泣きをした。
「あと三週間持ちこたえられれば、何とかなるのに。黒字経営なのに、どうして駄目なんですか?」
「今日の黒字企業は明日の赤字企業だよ。そろそろお手上げだな。その三週間持ちこたえるだけの体力がないんだ。しょうがない」

 みどりに会いたいな、そう思ってしまうのは自分の弱さかもしれない。一緒にいたいという願いひとつ叶えられない男に頼られても、みどりも迷惑だろう。そう思った植田は、目を閉じて目頭を押さえた。疲れが眉間に溜まっていた。

 あまり眠れないままに朝を迎え、植田は迎えに来たハイヤーに乗り込んだ。そろそろ融資をあきらめて身売りのオファーを真面目に検討するべきだろうか、そう思いながら会社に着いた。
 いつも朝一番に来る秘書の坂田が、植田の姿を見て机から立ち上がった。
「社長」
「おはよう」
「おはようございます。お客さまがお見えになっています。社長室でお待ち頂いています」
 何故応接ではなく社長室なのだろうと考えていたら、坂田が続けた。
「佐々木様とおっしゃる女性です」
 自分の顔色が変わったのが分かった。坂田に返事をするのも忘れて、あわてて社長室のドアを開けた。

 ソファに背筋を伸ばして座ったみどりが立ち上がった。いつもの仕事着、Tシャツとジーンズ姿だった。
「植田さん」
「おはよう」
「これでは足りませんか?」
 前置きなしでみどりが、銀行が振り出した小切手を差し出した。植田は目を剥いた。
「この金……」
 そこに並んだ9桁の数字は、この三日間駆けずり回ってどんなに土下座をしても手に入らなかった、当座必要な額を軽く上回っていた。
「なんで君がこんな金を持ってるんだ。いや、誰から借りた?」
「私のです」
 植田はソファの手すりを探した。何かに掴まらないと倒れそうだった。
「貸してくれるのか。条件は」
「別に条件なんて」
「三週間だけ貸してくれ。三週間経てば契約金が入ってくるから返せる」
 矜持など、この三日でとうに捨てていた。どんなにみっともなくても植田はこの金が喉から手が出るほど欲しかった。会社や社員や取引先、そういう自分が守りたいものを、この金さえあれば守ることができる。

「……そうか、金より大事なものがあるって言ってた意味が分かったよ。必要なかったんだな、みどりには」
 そう言いながら植田は乾いた笑い声を上げた。みどりがこの金を出さなければ、一生気付かなかったであろう自分の鈍感さを笑った。無意識に自分を『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授や『プリティ・ウーマン』のエドワード・ルイスに見立てていた。相手が億万長者だったとも知らずに。

 みどりは目に涙を浮かべて植田を見つめていた。やがて潤んだ目のまま微笑を浮かべて植田に言った。
「このお金は地上げにあった時に貰ったお金です。両親が離婚する時に、私にくれました。こんなお金じゃ店や家族の代わりにはなりません。だからずっと銀行に置いたままでした。でも、植田さんの役に立つなら使ってください」
 植田は笑いを止めた。

 植田にとって、今何よりも大切なものは金だった。どんな金でもよかった。でも……やっぱりこれは、金以上のものだった。この借りは三週間で返せる類のものではなかった。

「本当に……何て言えばいいのか分からない」
「植田さん、ほんとに忘れっぽいんですね。何か私に言うことありませんか?」
 みどりが、さっきまでの切ない微笑みを不意にいたずらっぽい笑顔に変えてそう言った。植田は呆けた顔でしばらく考えて、ようやく言うことを思い出した。
「……みどり、誕生日おめでとう。プレゼントを買いにいく暇がなかったんだ。今から一緒に買いに行こう」

エピローグ
 胸が幸せで膨らんで破裂しそうになった植田は、社長室を出て坂田に小切手を渡しながら言った。
「これを浅井に渡して、銀行が開いたら入金するように言っておいてくれ。俺は今から休暇を取る。携帯も切るからあとは任せた」
「社長!?」

 そして、初めて花を買いに行った時と同じように、オフィスを駆け抜けていった。今度はみどりの手を引いて。

end. (2009/01/31) 続編「いちばんの贈り物」に続きます

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