魔法使いの弟子
天は二物を
魔法使いの弟子リターンズ 1

魔法使いの弟子リターンズ◆5

 正面玄関を出たところで祥子に電話をすると、会社から二本離れた通りに来てと言われた。駅に急ぐ人の流れに逆行して指定された場所へ向かい、路上駐車帯を見回すとそこに見慣れた祥子のBMWが停まっていた。
「お疲れ様」
 祥子の声を聞いてほっとするのはいつものことだ。鈴木は自分の頬と気持ちがふにゃあっとゆるむのを感じた。
「お腹すいた? 食べたいものある?」
「別にない。祥子さんと一緒にいたい」
「甘えたさんね」
 そう言いながら、祥子が車のエンジンをかけた。

 手近なファミリーレストランで食事を済ませてから、祥子はデートの帰りによく寄る大きな公園の横に車を止めた。向かい合わせより隣り合った車中の方が会話が弾むのは、バーカウンターなどと同じで顔は見えないのに距離が近いせいかもしれない。

「竜神さん、あと一年したら今の監査法人を辞めて自分の会社作って独立するんだって。それでそこに来ないかって誘われたの」
 食事の時にはお互いに触れなかった話題を、祥子が突然始めた。

「本当に上司としては尊敬できる人だし、あの人の下に集まる人達と一緒に仕事ができたら面白いだろうなあって、それはすごく思ったんだけど……私、きっとまた具合悪くなるから」
 祥子には喘息の持病がある。普段は薬でコントロールできる範囲だが無理をすれば体調を崩す。祥子は新卒で入ったABCでプログラマからSEになり、そこで体調不良を理由に退職した。しばらくのんびりしてから、今のような短期の派遣契約で働くようになったのだというのは、付き合いだしてすぐに聞いていた。
「短期なら少しは無理もできるんだけど、ずっとだとね。季節の変わり目のたびに仕事減らして下さいなんて、普通の会社じゃ言えないし。竜神さんのとこは多分、目が回るくらい忙しくなるから。声かけてもらえたのはすごく光栄だし、やりたい気持ちはあるけど、きっと周りに迷惑かけちゃうし」
「一生面倒見てやるって言われてたから、どきっとした」
 鈴木は小さな声で言った。そんな簡単な言葉では表せないくらいの衝撃だった。

 鈴木にはまだそう言い切れる自信がない。それなのに目の前の壁を楽々と飛び越えた竜神は、壁の向こうにいる祥子をどこか遠くへ連れて行こうとした。祥子を引き止めたかったのに言葉が出なかったのは、それが自分の我がままだからと躊躇したわけではない。ただプロポーズの後追いなんてしたくないという自分の格好つけだった。

 鈴木がぽつりと言った。
「竜神さんて男の俺から見てもいい男だし。俺、あの人と同じ歳になってもあんなに格好よくなれる自信ないよ」 
「竜神さん格好悪いわよ!」
 突然祥子が叫んだ。
「あの人、今オートマのポルシェ乗ってるのよ! びっくりしちゃった! オートマじゃなくてPDKだって言い訳してたけど、マニュアルじゃなきゃポルシェじゃないみたいに言ってたくせに!」
「しょ、祥子さん。Pなんとかって何?」
「ポルシェ・ドッペル・クップルング。クラッチ踏まなくてもギアチェンジすると自動的にクラッチを抜いてダブルクラッチ効かせてくれるの。スポーツMTみたいなものよ」
 鈴木には祥子の言ってることがほとんど分からなかったが、むきになって言い張る姿にふと思った。

 祥子さんって、昔あの人のこと好きだった?

 訊いてみようかと思ったが、やっぱり鈴木は訊けなかった。今更訊いてどうなるものでもない。もしかしたら二人は付き合っていたのかもしれないし、あの一生面倒見てやるの言葉には違う意味があったのかもしれない。

 でも、祥子は鈴木の目の前で断った。
 それが全てだ。

「あのね」
 祥子が静かに言った。
「私が、大好きなオレンジのキャンディをあげたいって思う人は、コーキ君だけだからね」

 祥子の言葉が胸にしみこんだ。気付いたら目頭から湧き出していた涙を、鈴木は自分の手のひらで一生懸命止めようとした。
「祥子さん、俺すごく心配で、祥子さん引き止めたかったけど、何て言っていいのか分からなくて、格好悪くてごめん」
「ううん、あの時のコーキ君格好よかったよ」
 祥子に回された腕の中で首を横に振ると、涙が頬にこぼれた。自分でも情けないと思うのに涙が止まらないのは、慰めてくれる祥子の腕が心地よすぎるせいだった。
「コーキ君……今日お泊りしない?」
 鈴木の頭の上から祥子の囁きが降ってきた。

 鈴木は慌てて顔を上げた。驚きで涙もぴたっと止まった。
「駄目だよ。明日も会社だし、二人で同じ格好で出社したら絶対ばれるって!」
「もうー、コーキ君ったら真面目ねぇ」
 祥子が口をとがらせた。いつもながら年上とは思えない可愛さだ。
「ワイシャツなんてその辺でも買えるわよ。スーツとネクタイが同じでも違うカラーワイシャツ着てたらきっとばれないわよ」
 ぶんぶんと首を横にふる鈴木に向かって、祥子は更に訴えた。
「今日なら着替えも車にあるし、ちゃんといつもお泊り用のホクナリンテープ(経皮吸収型の気管支拡張剤)だって持ち歩いてるのに、コーキ君ちっとも誘ってくれないんだから」
 そこで祥子は言葉を切った。急に鈴木は自分の口から水分がなくなったのに気付いた。そんなことはありえないけど、でも本当にそうなのだから仕方がない。
「祥子さん」
 何故か鈴木はそこで咳き込んだ。決まらないことこの上ない。すかさず祥子が小物入れのキャンディを差し出した。
「はい」
 先頭に顔を出したキャンディを手にとった鈴木は、それを祥子に差し出した。
「祥子さん、オレンジ」
「コーキ君食べて」
「いいよ、食べなよ」
「私はこっちを美味しく頂きます」
 そう言いながら祥子が鈴木の方に身を乗り出し――

「やっぱワイシャツ買いに行こうか」
 鈴木の切羽詰ったつぶやきに祥子が笑顔で頷いた。その顔を見て鈴木は何かを言いかけたが、言葉に詰まって言い直した。
「俺、頑張っていい男になるから」
「ううん。ならないで」
 驚いた鈴木の耳に、祥子が口を寄せた。
「これ以上ライバル増えたら困る」
 そのささやきが、鈴木の頭から自制心や判断力などという余計なものを全て吹き飛ばした。
 頭に残ったのはただ一つ。

 もうワイシャツ同じでもいいよな。

end.(2011/05/14)

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