みっつめの偶然 1
偶然と必然

みっつめの偶然◆1

◆ひとつめ

 そこに表示されたのは、朝霧の立ちこめた水面の景色だった。

 印象派のようなあいまいな、でももしかしたらただの抽象画なのかもしれない青系のグラデーションが、私にはそういう景色に見えた。水彩で描かれたらしいその絵は、なんだか泣きたいくらい胸を打った。
 ああ、この色は学生時代に朝練に急ぐ道で通った、あの池の色だ。きっとこの色が、私の心の底に沈んだ記憶と共鳴したんだ。
 画像検索で偶然見つけた絵だった。画像に添えられたアドレスをクリックすると『ページが存在しません』のエラーが返ってきた。

 この絵を描いたのはどんな人なんだろう。ネット上に痕跡を残しながらもう戻ってこない人は多い。でもこんなに心を揺さぶる絵を描いた人のことをもっと知りたい。どこかで『この絵を描いた人を捜しています』と捜索願いのようなものを出してみようか。でもいったいどうやって。
 数週間もんもんと過ごして、ある日友達と飲みに行った時にその話をした。友達は何でもないようにアドバイスをくれた。
「アーカイブ捜したら?」
「何それ?」 
「過去にあったサイトを保存してるところ。元のurlは分かるんでしょ」
「うん」
「もしそのサイトが最初からノーアーカイブ設定にしてたんじゃなければ、どこかで見つかるかもよ」
 ちっとも意味が分からない友達の説明に苦労しながら、単語と手順を教えてもらって手帳に書き取った。その日の夜に検索しながら辿りついたいくつかのアーカイブサイト(英語や謎の言葉で表示される)のそれらしい枠に元のアドレスを入れ、片っ端からクリックしていった。

 二つ目のタブを閉じ、三つ目を開いた時。そこに広がっていたのはあの絵と同じ景色だった。心が震えた。何枚かの小さい絵が一覧できるように飾られていたので、一枚づつ表示していった。四枚目でエラーになって、その先は小さな画像から細部を想像することしかできずにはがゆい思いをした。

 作者の名前はTakaという署名でしか分からない。でも、表紙にはメルアドがあった。今でも使われているのかどうか分からないけどメモをした。アットマークの後ろは地元のケーブルテレビ局の名前だった。いつか分からないが、この絵を描いた時点ではきっとTakaさんはこの町のどこかに住んでいたのだ。もしかしたら、どこかですれ違っているかも、ううん、もしかしたら私の知っている人かもしれない。
 何故か私は作者のTakaさんを男性だと信じ込んだ。何も情報はないのに、何故そう思い込んだのかは今になってもよく分からない。多分私はあの絵に恋をして、恋の相手として幻想の男性をイメージしていたのだろう。線が細くて指が綺麗で、ちょっと繊細な芸術家タイプの人を。

◆ふたつめ

 金曜日の夜だった。課の飲み会、更に二次会のカラオケ後、稲葉主任がもう一軒行こうと言うので、同じ方向に帰る私と一番若手の営業マンの鈴木さんの二人だけ断りきれずに連れて行かれた。自分が誘ったわりに、ちょっと目を離した隙に主任は寝息を立てていた。
「どうしたんだろうな、稲葉さん。何かあったのかな」
 そう言って鈴木さんが主任に肩を貸したので、二人分の書類鞄を持った。
「鞄持ちますね」
「悪い。まったくしょうがないねぇ、このおじさんは」
「いいかげん、いい歳なんだから自重してほしいですよね」
 そう言いながらも三人でタクシーに乗り込み、主任の家へ向かった。
 エレベーター(あって良かった)で四階まで上がり、私が主任の上着を探ってみつけた鍵で玄関を開けた。
「どうしよう、脱いだままの下着とか落ちてたら」
「じゃあ目をつぶって手さぐりで前進だ」
「余計怖いですよ」
 そう言いながら先に入って明かりをつけ、鈴木さんにひきずられる主任の足から顔を背けて靴を脱がせ、先回りして寝室らしいドアを開けた。

 空っぽの部屋に、机と画材。床に広げるように散らかった画用紙。

「そっち? 布団敷くの?」
「いえっ、違うと思いますっ!」
 慌ててドアを閉め、隣のドアを開けると今度こそ、そこにベッドがあった。
「こっちです」
「ズボンくらいは脱がせてあげよう」
 主任をベッドに降ろした鈴木さんが、主任のベルトに手を伸ばしたので慌ててドアを閉めた。それから、さっき見た光景を思い出してみた。床に散らばった画用紙に描かれた、印象派のようなあいまいな、でももしかしたらただの抽象画なのかもしれない青系のグラデーション。
 確かに同じ絵だった。それに主任の下の名前は崇史(たかし)と言った。
 色々な考えが洗濯機の洗濯物のようにぐるぐると脳を回る。鈴木さんが出てきた。
「どうしたの、優子ちゃん」
「いえ、何でもありません」

 見てはいけないものを見てしまったような、でもあと一歩踏み込みたいような、そんな割り切れない気持ちで稲葉主任の家を後にした。

◆ふたつめとみっつめの間 1

 翌日の土曜日、昼過ぎになって稲葉主任からメールが届いた。ゴメン、という三文字に頭を下げる絵文字つき。あの絵のことを訊きたかったけど、メールではとても訊けない。自重、という二文字にしかめ面の絵文字をつけて返した。いちおう上司だけど、これくらいは言わせてもらわないと。
 日曜日の夜、友達と飲んで帰って、酔った勢いでこの前アーカイブを見てメモしたメルアドにメールを書いた。

『はじめまして。高野優子といいます。Takaさんの絵大好きです。HPが閉まっていて残念です』

 月曜日、稲葉主任はいつもと変わらなかった。昼休みの後で金曜日のお詫びだと言ってロールケーキを買ってきてくれたので、三時に女の子だけで食べた。
 火曜日、PCのスイッチを入れると新着メールの通知が出た。変な汗をかいた。メールソフトが立ち上がるのをじりじりと待ち、新着メールを開いた。

『高野様 はじめまして。Takaと申します。絵を見て下さってありがとうございました。……』

 そこから始まるメールは、絵の印象とは違っておどろくほど饒舌だった。その文面だけを見ると、稲葉主任とTakaさんはやはり別人かと思えた。わざと別人を装っているのか、それとも本当に別人なのか。しつこく返信ボタンを押した。

『Taka様 ご返信ありがとうございました。高野優子です。最初は画像検索で偶然みつけて、それからアーカイブサイトで捜しましたが3枚目の絵までしか見られませんでした。でもどの絵もすごく好きでした。再開の予定はないんですか?』

 悩むと送れなくなってしまうから、目をつぶって送信ボタンを押した。

 水曜日、どきどきしながら仕事を終えて帰宅すると、またPCのスイッチを入れた。新着メールの通知はなかった。
 木曜日、同じようにPCのスイッチを入れると新着メールの中に添付ファイルのついたものがあった。

『高野様 再開は考えていませんがデーターが残っていたので、よかったら見てください。大きくてすみません』

 添付ファイルは、アーカイブではエラーになって見られなかった四枚目だった。絵をディスプレイ全面に表示したら、思わず溜息がでた。もしTakaさんが主任でも主任じゃなくても、男でも女でも、私はこの絵と、この絵を描く人がものすごく好きだ。

 それから、奇妙な文通が始まった。私はお礼のメールに長々とした素人くさい感想を書いて、一晩置いて文章を削ったり足したりしてから送った。それに対する饒舌な返信と、別の添付ファイル。また同じようにして私は感想を送り、絵を一枚づつ見せてもらった。

 稲葉主任には全く変わった様子はない。やっぱり主任じゃないんだろうか。

 最初にメールを貰ってから二週間後の火曜日。稲葉主任に昼に誘われた。
「明日の昼ですか?」
「うん。駄目なら明後日でも」
「なんですか?」
「人事考課のヒアリングを外でやるだけだから、そんな構えないで。男どもとは夜飲んで喋ったりしてるけど、優子ちゃんとはあんまり話す機会がないから」
 人事考課と言われて思い切り構えたと同時にメールの件じゃなかったのかとがっくりと落ち込んだ。

 翌々日の木曜日昼。課の皆に送り出されて主任と私は少し早めの昼休憩に出た。同僚同士でお昼を食べにくるにはちょっと高めの、お給料日かボーナス日にしか来られない店でランチを食べながら、仕事や人間関係について悩み事はないかとか、目標はあるかとか、いろいろ訊かれた。主任は私の答えをいちいち考査シートに書きこんでいった。最後にシートから目を上げて主任が言った。
「優子ちゃんて彼氏いるの?」
「ええー!?」
「いやっ! セクハラじゃなくて。結婚したら仕事はどうするとか、そういう予定はある?」
「全然考えてません。相手もいません」
「退職規定では自己都合退職は一ヶ月前通知でいいことになってるけど、本音を言えば来年度の人員配分に関わるから早めに教えてもらえると助かる。突然決まることもあると思うけど、前々から分かることなら教えてほしいんだ。もちろん皆には言わないから」
「ほんとにいませんてば」
「あと、何か悩み事とかある? 会社のことじゃなくても」
「特に悩みはありません」
 ただ、知りたいだけです。主任は絵を描くご趣味があるんですか? Takaさんって主任のことなんですか?

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