みっつめの偶然 1
偶然と必然

みっつめの偶然◆2

◆ふたつめとみっつめの間 2

 なんだか家に帰ってお風呂に入って今日のことを考えていたら妙にイライラして止まらなくなった。主任はTakaさんなんですか、そうじゃないんですか。私が高野優子だと分かってるんですか、それとも気付いてないんですか。知ってて知らん振りしてるんですか。

 風呂上りにパジャマでPCのスイッチを入れ、メールを書いた。

『Taka様 質問です。Takaさんは稲葉崇史さんですか? 昼ごはんを一緒に食べた高野優子より』

 勢いで送信ボタンを押した。

 押してしまった。

◆ふたつめとみっつめの間 3

 翌朝、ずる休みしたくてたまらないのに小心者の私はうまい嘘が思いつけなくて、進まない足で会社へ向かった。主任はいなくてボードには客先直行と書かれていた。思い切り肩透かしをくらってしまった。

 お茶を淹れていたら不意に喉が詰まった。もし本当にTakaさんが稲葉主任だったとしても、私はただ主任の絵の一ファンでしかない。もし主任が高野優子が私のことだと知ったとしても、正体がばれてしまったと照れてメールに改めてお礼を言われるくらいでしかないのに。
 返信メールは饒舌だけど絵についてのことばかり書いてあってTakaさん自身のことなんてほとんど分からない。でも主任であってほしかった。ずっと一緒に仕事をして何とも思ってなかった、ただの上司だった。なのにTakaさんかもしれないと思ってからほんの二週間で、どうしてこんなに好きになってしまったんだろう。彼氏いるのなんて訊くから思わず期待しちゃったじゃないの、もう。

 結局、定時を過ぎても主任は戻ってこなかった。私は一日の仕事を終え、エレベーターを降りた定時上がり集団の一員となってビルの出口を目指した。道に面したガラス越しに主任の姿を見つけた。
 こんなところで会うのは偶然でもなんでもない。たいていの会社員は最低でも一日二回は会社の出入り口を通る。ほら、その証拠に。
 人待ち顔でロビーに座っていた女性が出入り口から入ってきた主任に歩み寄った。主任が顔色を変えた。周囲の人は特に気にもせず二人の脇を通り過ぎていく。その一連の出来事を見届けて、私は稲葉主任の前で立ち止まった。
「稲葉主任、お疲れさまです」
「優子ちゃん」
 稲葉主任が私の名前を呼ぶと、主任の傍に立つ女性が鋭い目で私を見つめた。いや、睨んだと言ってもいいかもしれない。私は彼女の目を一瞬だけ見つめ返した。
「机の上に急ぎの回覧が置いてありますから。お先に失礼します」
 自分でもたぶんすごく変な顔をしてるんじゃないかと思ったけど、ぎこちない笑顔らしいものを浮かべて会釈をすると、私はその場を離れた。

◆みっつめ

 翌日は土曜日だった。寝坊してもいい貴重な日なのに明け方目が覚めてしまった。
 そうだ。あの池に行こう。失恋といえば定番は海だけど海まではここから遠いし、なによりもあの池の色から始まった恋だから、あの池に捨てに行こう。

 学生の頃と同じ道を同じ自転車で走り、途中の自販機でお茶を買って池に着いた。一部はコンクリートで護岸工事がしてあるが、奥の方は自然のままだから早朝から釣り人達が糸を垂れていた。私は道端に自転車を止め、コンクリートの護岸を途中まで降りて、座りやすい場所に体育座りをしてお茶を開けた。

 ごめんね、Takaさん。きっとTakaさんは稲葉主任の恋人なんだよね。だから主任の家に絵があったんだよね。私が変なメール送ったからびっくりしてわざわざ会社まで来たんでしょう? あの出来事はそういうことなんだよね?
 はははっ、と力のない笑い声が漏れた。なんだか泣きたいのにおかしくてたまらなかった。Takaさん、私のメールまだ読んでくれるかなぁ。今の気持ち、汚いところをアライグマみたいに洗って綺麗になったら、メールで送ってもいいかなぁ。

 ―― それとも全部全部ぜーんぶ私の思い込みで、Takaさんと主任とあの女の人は全く関係なくて、Takaさんは私からきた変なメールの意味がわからなくて困惑してて、稲葉主任は私と同じようにあの絵を偶然みつけて模写しただけで、あの女の人はたまたま稲葉主任に用があって来ただけとか?
  どこまでが現実で、どこからが私の想像なのか分からない。起こったと思っていた出来事ぜんぶ私の思い込みかもしれない。

「優子ちゃん?」
 心臓が止まるかと思った。すぐ後ろに稲葉主任がいた。
「稲葉主任っ、何やってるんですかこんなとこで?」
「優子ちゃんこそ何やってるの、こんな朝早く」
「アライグマになろうと」
「アライグマが出るの、ここ?」
「えっ、知りませんよ」
 私が慌てているせいか、話がうまくかみ合わない。
「優子ちゃんに訊きたいことがあるんだけど」
「はいっ」
「なんであいつが優子ちゃんと昼飯食べたこと知ってるの? 何か迷惑かけられてない?」
 この時までまだ私は少しの希望を残していたらしい。昼ごはんのことを知っているなら、彼女がTakaさんだ。確定。なんでこんなにがっかりするんだろう。答えは私が稲葉主任を好きになったから。
「迷惑なんて、そんな全然。―― 私、Takaさんとメールで文通してたんです」
 稲葉主任が顔色を変えた。
「前に画像検索で見つけて、アーカイブサイトで元のページ開いてそこに書いてあったメルアドにメール送ったんです。それで、ずっと稲葉主任のつもりでメールで感想を送ってたんです。それでTakaさんは稲葉主任なんですかってメール送ってしまって」
 言いながら何故か涙が出てきた。
「ごめんなさい。割り込んだりするつもりじゃなかったんです。迷惑かけてたらごめんなさい。ただTakaさんの絵が大好きなだけだったんです」
 そしてTakaさんだと思い込んで稲葉主任を好きになっただけなんです。

◆みっつめの後

 そのまま体育座りした膝に顔を隠した。稲葉主任が隣に座る気配がして、頭をぽんぽんと手で叩かれた。
「急に現れて妙なこと言い出したからどうしたのかと思ったけど、事情はなんとなく分かった。あいつは人のものが欲しくなるんだ。ちょっと病的に」
 Takaさんが?
「サイトはずっと前に閉めさせたんだけど、まだどっかに残ってたんだな」
「はい。昔あったページを保存してるところがあるんです」
「なんでTakaが俺だと思ったの?」
「稲葉主任のお家に同じ絵があったから」
「……やっぱり迷惑かけちゃったな」
「あの絵を描いたのは?」
「俺」
 おそるおそる顔を上げて、横に座る主任の顔を見た。主任が真っ直ぐ私を見返した。
「主任?」
「俺」
 頭の中でまた洗濯物のように色々な考えぐるぐる回る。
「じゃあ、メールの返事も」
「いや、それはあいつ」
 ぐるぐる。
「あいつは俺の絵でサイトを作って、メールくれる人に返事出してたの」
 私は悲鳴のような声を上げた。
「なんで?」
「あいつは人のものが欲しくなるんだ」
 主任は溜息をついて目を水面に向けた。
「同じ色は再現できないし、絵はやっぱり直接見ないと駄目だと思うから、俺はインターネットで絵を公開するつもりなかったんだ。でもあいつがそれじゃもったいないってサイトを作ったとこまではまあ許したんだけど、Takaを名乗ってメールの返事まで出すようになって、やめさせたの」
「彼女、なんですか?」
「昔付き合ってた。この間、久しぶりに連絡があって絵を見せろって言われたから断ったんだけど、断って正解だったな。たぶん昨日会いに来たのは優子ちゃんと昼飯食ったって聞いてまた俺が惜しくなったから」
「まだ主任のこと好きなんじゃないですか?」
「あいつもう結婚してるよ。友達の婚約者取って。それで別れたの」
 なんか無理の多い人生だと思った。それで幸せなんだろうか。あの饒舌だったメールも、彼女が書いていたと知った今では痛々しい。他人の描いた絵にもらった感想にどういう気持ちで長々と返事を書いていたんだろう。

 主任と私は水面を見つめたまま、しばらく沈黙を共有した。その沈黙を主任が破った。
「なんで優子ちゃんはここに来たの?」
「最初にTakaさんの絵を見た時、この池の色だと思ったんです。ほら、あの辺のグラデーションが似てません?」
 私はそう言って水面を指したが、主任は私が指した先ではなく、私を見た。
「あいつがそう言ってた?」
「いえ、私の思い込みです」
 主任が真っ赤になって口元を覆い、目をそらして言った。
「同じ色は再現できないだろ、モニターじゃ」
「そうかもしれません。でもなんで主任はここに来たんですか?」

 主任は返事をしなかった。私と主任は黙って見つめあった。

 偶然見つけた絵を追いかけて、描いたのが自分の上司だと知って、その絵に描かれた場所でこうして会って。―― みっつめの偶然は運命だと、誰かが言わなかっただろうか。

 そしてたぶん。ここから、何かが始まる。

end (2009/05/31)

偶然と必然へ

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