ツーリングを少々 1
ツーリングの二本目 1
羨望
休日のお買い物 1
百合は綺麗なだけじゃないんです
すれちがい

ツーリングを少々◆1

1.
 岡本珠緒は商事会社に勤める25歳のOLだ。父親の転勤に母親がついていったので去年から都内の一軒家に一人で住んでいる。趣味は書道とクジラグッズ集め。外見の方もだいたいこの説明を裏切らない、年配の方に人気があるタイプだ。
 そんな珠緒がある日突然バイクに乗ろうと決めた。しかし珠緒にはバイクに乗る友達がいなかったので、予備知識もないままに近くの教習所を訪れた。
 教官から「今までバイクに乗ったことは?」「じゃあスクーターは?」「四輪でAT車以外運転したことある?」と聞かれて、全て首を横に振り溜息をつかれた。「……じゃあこれ起こしてみて」と言われ、目の前に横倒しになっていたバイクを運良く起こせた時にようやく、教官がほんの少し眉根をひらいた。それがテストだったことは後から知った。

 学生時代からそこそこ優秀で我を張る性格でもなく文化部だった珠緒は、そのまま社会人になり総務部に配属になった。皆が珠緒のところに色々な申請用紙を持ってきては「よろしく」と置いていく。そうやってほとんど人に怒られることもなく和やかに生きてきた。だから実技の1時間目でいきなり教官に「何やってんだ!」と怒鳴られてひどくショックを受けた。何故怒鳴られたかも分からないし、お金を払って教習に来ているのに何故自分が怒鳴られなくてはいけないのだろうかとも思った。もうこのまま辞めてしまおうかとまで思いながらの帰り道、たまたま立ち寄った書店で初心者向けのバイクのハウツー本を手に取った。
 そこでようやく教習所に行くよりまず先に本を買えばよかったのだと悟った。最初に教習所でバイクを起こしたのが「見きわめ」といわれるもので、結果によっては自分が申し込んだコースをあきらめるよう説得されるところだったと知ったのもこの本からだった。そしてこの日に教官から怒鳴られた「シセン!」というひとことが、
「特に初心者のうちは視線の向いた方に知らず知らず進んでしまうので、コーナーの出口で外側を見るのはとても危険です。視線はこれから進む方へ向けましょう」
という意味だったことも知った。
(そんなの分かるわけないのに!)
 珠緒は内心憤りながら本を閉じた。しかし本を持ってレジに向かいながら、教習所を辞めるのは止めることにした。

2.
 二輪には路上教習がないので、教習所内で行われる卒業検定に合格すると放り出されてしまう。車の免許を持っている珠緒は筆記試験が免除され、運転免許センターで適性試験に合格したその日のうちに普自二の文字が入った免許証を受け取ることができた。
 これで400cc以下のどんなバイクにも乗れる。乗れることは乗れるのだが……真面目な性格が幸いしたのか珠緒は一本橋と侠路は教習でも試験でも問題なく通過したが、8の字走行とスラローム走行については教習中は必死でこなしたものの、今となってはもう二度とできないという妙な確信があった。
 でもその辺の道に8の字やスラロームがあるわけじゃないんだからきっと大丈夫、と町を疾走するスクーターのおばさんを見て自分を励ましながら、珠緒は初めてのツーリングの準備をした。

 出発は夏休みの二日目、あいにくの曇り空だった。
 朝6時、これは武者震いと自分に言い聞かせながら、珠緒はかすかに震える手でタンクバッグと防水のキャリーバッグをバイクに装着した。全部ピカピカの新品なのが更に不安をあおった。何故自分はバイクの免許さえ取ればどこにでも行けると思い込んでいたんだろう、もしかしてものすごく無謀な計画なんじゃないか、と今になって思い始めた珠緒だったが、それでもハウツー本に書かれた手順に従ってフューエルコックをオンにして少しアクセルを開け、セルのスイッチでエンジンを始動させた。
 一昨日の夜、バイク屋さんのお盆休み前ギリギリで納車されたばかりのバイクはトクトクと元気な音を立てて行く気満々という姿だ。珠緒もミラーにかけておいたヘルメットをかぶってストラップを締め、バイクにまたがった。
(ほとんど高速道路だし、急がなくたって絶対いつか着くんだから。JAFにも入ってるし大丈夫)

 サイドスタンドを外すとリヤサスが沈んだ。取扱説明書を見ながらトリップメーターをゼロにしてミラーの位置を調整し、左手でクラッチを握り左足の先でギアを一速に入れた。教習所のバイクと違ってギアの入り方がずいぶん重たかった。珠緒はもしかしたら壊れているのかと一瞬不安になったが、新車だし大丈夫だろうと思いなおした。
 アクセルを少し開いて、そろそろと左手で握ったクラッチを離していった。「そんなに半クラ続けたらクラッチがすぐ滑るだろーが」という教官の怒声が耳によみがえる。
 もう一度クラッチを握りなおしてギアを二速に押し込み、珠緒のツーリングが始まった。

3.
 何度か車で走った経験があったので、首都高までのアクセスは比較的スムーズにいった。しかし普段何も考えずにナビの指示で走っているのとは違い、バイクはまるっきりの孤独だ。高速道路上でおぼろげな記憶と表示板を頼りに車線変更を続けながら珠緒は後悔した。せめて車で一度ルートを確認してから来ればよかった。
 左右から車に追い抜かれるたびにスリップストリームに吸い寄せられた。補修を重ねた古い道路は継ぎ目だらけだし、合流で前が詰まって停車すると高架になった道路自体がうねるように揺れていた。緊張して全身に力が入っているのが自分でも分かった。乗る前からずっと続く身震いもまだ収まっていない。
(用賀……東名……)
 ようやく見覚えのある分岐と案内板を見つけて、珠緒はほっと息をついた。

 東名に入って最初の港北パーキングエリアに寄りそこねた珠緒は、次の海老名サービスエリアでやっと休憩をとることができた。バイク用のパーキングに入ってギアを抜いてエンジンを切り、サイドスタンドを降ろしたところで転げるようにバイクを降り、近くのベンチにへたり込んだ。
「一人?」
 まるでナンパのような台詞だったが、話しかけてきたのは女性の声だった。珠緒が顔を上げるとライダージャケット姿の女性が珠緒の横に立っていた。
「はい」
「初めてのツーリング?」
「どうして分かったんですか!」
「なんとなくねー」
 珠緒より年上らしい女性が笑みをうかべた。片頬にえくぼがうかんだ。

4.
「やっとここまでは来たけど、本当に行けるか不安になってきました」
 肩を落とした珠緒を見て女性が声を立てて笑った。
「ここで帰ったっていいのよ。別に『何キロ以上走ったらツーリング』って距離で決まってるものじゃないんだから。一人でツーリング来ようと思っただけ偉い」
「全然偉くないです。友達が誰もバイクに乗っていないだけです」
「いいじゃない。一人は好きなペースで走れて無理しないから楽よ」
 そう言って女性がまた笑った。いかにも一人で何でもできそうな女性だった。
「ずっと乗ってるんですか?」
「そう、20年くらい」
「えええっ!」
 思わず叫んだ珠緒の前で、女性はおおげさにうなだれた。
「しまった。引かれた」
「そんなことないです! すごいです!」
「すごくない。長いだけ。私も乗り始めた時はこんなに長い間乗ってると思ってなかった」

 その女性は珠緒にペットボトルのお茶をおごってくれた。そして暖気をしながら自分のバイクでさっきまでの珠緒の乗り方を実演してみてくれた。
「こんな感じで入ってくるの見てて全身緊張してるなーって感じで微笑ましかった。腰が反り返って顎が上がってるでしょ。肘も伸びてるから手首に負担がかかるの。もっと背中を丸くして顎を引いて、体重は手首じゃなくて膝と腰で支える。前に大きなボールを抱えてるつもりで肘を外側に向けて、手はハンドルにしがみつくんじゃなくて軽く握る感じ」

5.
「こうですか?」
 珠緒が立ったまま少し前かがみになって真似してみると、女性が楽しそうに笑った。
「そうそう、速そうになった。ここでしっかり腹筋使うとお腹たるまないから。あとね、歌」
「うた?」
「そう。歯を食いしばってると体の力が抜けないから、何でもいいから歌うたってみて」
「はいっ」
 真剣に答えた珠緒に、女性はもう一度笑って言った。
「ほら、また力入ってる。力抜いて。じゃあ気をつけてね」
「はい。お気をつけて」
 ヘルメットをかぶった女性は最後にシールドの奥から目で挨拶を送り、スタンドを上げた。ちらっと後方確認をしてから片手を挙げてアクセルを開け、クラッチをつないでスムーズに出て行った。

「うわー、かっこいい」
 さっそうと出て行った女性を見送って(出発がもたついて恥ずかしいから先に行ってくれと頼んだのは珠緒だった)、珠緒もヘルメットをかぶって自分のバイクのエンジンをかけた。 が、荷物にかけたバンドを確認したりタンクバッグに入れた地図のページを開き直したり、一度キーを抜いてタンクを開けガソリンの残量を覗いてみたりと、さっそうと出発するには程遠いあれこれを経てやっと再出発となった。

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