ツーリングを少々 1
ツーリングの二本目 1
羨望
休日のお買い物 1
百合は綺麗なだけじゃないんです
すれちがい

ツーリングを少々◆2

6.
 家を出たときは曇っていた空もいつの間にか晴れていた。珠緒は教習所で習ったとおり長袖のジャケットを着ていたが、半袖のTシャツや袖なしの革ジャンを来たライダーをたくさん見かけた。ペースの遅い珠緒はどんどん抜かされながら、慎重に走行車線を走り続けた。首都高と違ってただまっすぐ走るだけだし信号もなければ歩行者もいないし、ギアも6速のまま走り続けるだけなので、慣れてみれば高速道路は一般道よりも走りやすかった。お盆で車の流れがゆっくりなのも、珠緒にとっては逆にありがたい。さっきの女性のアドバイスどおり思い出せる限りの歌をうたっていたら、身震いも少しおさまってきた。
(このまま走れば、九州までだっていけちゃうんだ。何時間くらいで着くのかな)
 調子に乗った珠緒がそう考えはじめたころ、雲行きが怪しくなってきた。

 ぽつん、とヘルメットのシールドに水滴がついた。あわてて次のパーキングで合羽を着たが、その間にも雨脚はどんどん強くなってきた。再び走り出してほどなく道が川になった。
 雨がばちばちとにぎやかな音を立てているがヘルメットのおかげで頭と顔は濡れないし、合羽とブーツカバーのおかげで体も濡れない。雨用グラブは手に合うサイズがなくて買わなかったので手首から先だけは濡れていたが、想像したほどつらくはなかった。ただ車の跳ね上げる水しぶきとシールドにかかる雨で周りがよく見えないのが怖かった。ハイドロプレーニングという言葉を思い出して珠緒はそろそろとアクセルを絞っていった。
 どこかで一度休みたい。それに給油もしなくてはいけない。珠緒が待ちかねた浜名湖SA入口の表示が近づいてきた。左にウィンカーを出し、雨に煙る湖面に突き出すように建てられたサービスエリアに入った。

 ヘルメットをかぶったまま屋根の下に入り、革製のグラブを外した珠緒は声を上げそうに驚いた。
(わっ、手が真っ黒!)
 革製のグラブから手に色移りしていた。びしょぬれのグラブを雑巾のように絞ると黒い水が滴り落ちた。続いてプラセームを出してヘルメットからブーツカバーまで全身を拭いた。途中で何度かセームを絞りながら拭き上げてようやくヘルメットを脱いだ。

7.
 ヘルメットを脱いだ珠緒は笑顔だった。この状況で何で笑っているのか自分でも分からない。上から下までびしょぬれでトイレに入るのさえ身ぐるみ脱いでの大仕事だし、誰かと会話できるわけでもない、この状況がおかしくてたまらなかった。実は先程の緊張からアドレナリンが出すぎてハイになっているだけなのだが、珠緒本人は気付いていなかった。
 熱いココアを飲むとハイな気分も落ち着いてきて、濡れた合羽をもう一度着ることにためらいが出てきた。ひつまむし*に惹かれつつこの姿ではレストランに入れないとあきらめ、うなぎの押し寿司を買った。食べながらしばらく様子をみていたが、雨足のおさまる気配はない。
「行くか!」
 声に出してそう言うと、珠緒は再び合羽に袖を通し、ひやっとするヘルメットのストラップを首の下でもう一度締めなおした。

 伊勢湾岸道路は雨で普段より更にSF映画めいていたが、珠緒は路面と前を走る車の赤いスモールランプ、それに自分のスピードメーターからほとんど目を離すことなく通り過ぎた。
 四日市で伊勢自動車道に入ってすぐ光が差した。路面も白く乾き雨が降った様子はなかった。サービスエリアに入って合羽を脱ぎながら、ふと目を上げると空に大きな虹がかかっていた。
(やっぱり来てよかった)
 さっき雨の中を走っていた時にはいったい何の修行だと思ったが、この虹はつらい修行に耐えた珠緒への神様からのご褒美のような気がした。
 虹に向かって伸ばした自分の黒く染まった手と、グラブと上着の袖口のすきま分一筋細く日焼けした手首を眺めて珠緒は笑った。黒いのは落ちるとしてもこの変な日焼けは会社で何て言われるだろう。そう思ってまた一人でにやにやした。

 再びバイクにまたがった珠緒は更にいくつかの有料道路を経由して海沿いを走る国道に降り、やがて日焼けした案内板の立つ海沿いの横道へ入っていった。トンネルというよりは昔風に隧道と呼びたい、大きな岩に手で掘ったらしい穴を抜けて小さな町営のキャンプ場に着いた。

*「ひつまぶし」は「あつた蓬莱軒」さんが商標登録されているそうなので、「ひつまむし」で書いています。

8.
 まずは家で何度か練習したとおり持参のツーリングテントを張って荷物を置き、併設された温泉に行った。鏡を覗くと排ガスで薄汚れどこかやつれた自分の顔が映っていた。じゃぶじゃぶと洗面器で顔を洗って体を流し、少し熱い湯にずっと同じ姿勢で固まっていた体を沈めたら気持ち良くて鳥肌が立った。
 温泉にゆっくり浸かって体をゆるませ、休憩室の自販機で買った冷えた牛乳を喉を鳴らして飲み干してから、珠緒はここが地元だという会社の先輩、大里にメールをした。
「無事着きました。温泉気持ちよかったです」
「いらっしゃい。後で顔出すよ」
 すぐに戻ってきた返事を見て、珠緒はひきつった顔で周囲を見回した。この風呂上りのすっぴんを大里に見せるわけにはいかない。来る前に化粧をしようと立ち上がった。
 大里は同じ会社の二年先輩だった。今までほとんど喋ったことがなかったが先日若手だけで集まった飲み会でたまたま隣になり、珠緒がクジラグッズを集めていると聞いた大里が実家近くにある博物館の話をしてくれた。
「こんど実家帰ったら何か買って来てあげようか」
「いえ! 私、自分で買いに行きます!」
 ちょうどもうすぐ卒検というタイミングに、アルコールが入って気が大きくなっていたのもあったのだろう。珠緒はそう宣言していた。その場で手帳を取り出しルートとお勧めのキャンプ場を大里から聞き出していた。
 その時にメールアドレスを交換していたから一言報告しようとメールしたものの、珠緒は大里に会いに来たつもりはなかった。でもこんな近くに知り合いが来ていたら顔くらい見にくるものなのかな……化粧を終えてそんなことを考えていた珠緒は、どうやら座ったまま少しうとうとしていたらしかった。

「たまちゃん」
 声をかけられて顔を起こすと、いつ来たのか白いTシャツ姿の大里が横に立っていた。
「せっかくテント建てたとこだけど今晩雨降るっていうから、テントやめてうち来なよ」
「えっ!? いえ、いいですよ」
 驚いた珠緒はいっぺんに目が覚めた。たまちゃん、と親しげに呼ばれたのはきっと、飲み会の席で皆が珠緒をそう呼んでいたからだ。部署の違う大里が珠緒の名前を前から知っていたとは思えない。そんな遠い関係で泊めてもらうわけにはいかない。それより何より、大里の実家に泊まったりしたら職場の同僚達に後で絶対恨まれる。
「濡れたテントは撤収大変だし帰ってから荷物開いてブルーになるよ。家はしょっちゅう友達泊めてるから慣れてるし大丈夫だって」

9.
 何度か辞退を続けたものの大里に心配をいちいち笑い飛ばされ、珠緒は何が正しいのか段々分からなくなってきて最後には説得されていた。珠緒のテントを手際よく畳んで積んだ大里が車で先導を務めた。
 珠緒はそれでもまだくよくよと思いながら後について大里の実家へ向かった。しばらく走ると先を走る大里が道端に車を寄せてウィンカーを出した。手で珠緒を呼ぶので少し前に出て並んだ。
「この店のわらび餅、うまいから」
 さっき手ぶらでは絶対に行けないと言い張った珠緒は、お願いだから途中で手土産を買いに寄らせて下さいと頼んであった。珠緒の遠慮をグラム換算したわらび餅は、ずいぶんと持ち重りする包みになった。

「ただいま。連れてきた」
 大里は引き戸になった玄関を開けて、珠緒がタンデムシートに載せていた荷物を玄関のあがりかまちに降ろしながら奥に声をかけた。
「いらっしゃい……あらっ! バイクっていうから、また男の子だとばっかり!」
 出迎えにやってきた大里の母が驚きの声を上げた。珠緒は『たまを』という名前の響きから男と間違えられることも珍しくない。反射的に謝った。
「すみませんっ、岡本と申します。突然お邪魔してしまってすみませんっ」
 すみませんを連呼する珠緒より早く、大里の母が立ち直った。
「いえいえ嬉しいわ、来てくれて。こんな近くでキャンプするって言うから水くさいわねえ、家に泊めてあげなさいよって私が言ったのよ。大したおもてなしもできないけどゆっくりしてって」
「お世話になります」
「あら、それわらび餅?」
「はいっ、お好きだと伺ったので」
 珠緒が手土産を差し出すと大里の母は笑い出した。
「これ雄二が選んだんでしょ。ここのわらび餅、一人で抱えて食べるくらい好きなのよ」
「大里さんっ、私、『ご家族の皆さんがお好きなもの』訊きましたよね?」
「俺もご家族の皆さんだよ」
 大里のいいわけを聞いて大里の母が更に笑い、珠緒も渋々笑いに加わった。笑っているうちに緊張がほぐれてきた。

10.
 笑いが収まったところで大里は珠緒を誘った。
「夕飯までちょっと近所回ってみない? いい道があるんだよ」
 『今日のノルマはもう全部走りましたが』という珠緒の思いはそのまま顔に出たらしい。大里が重ねて言った。
「ニケツでいく?」
 『にけつって何』という珠緒の疑問もまた顔に出たらしい。
「ああ、えっと、俺が運転するから、たまちゃん後ろ乗りなよ。……ごめんな、俺バイク乗る友達って野郎ばっかりだから。たまちゃんのバイクでいい?」
にけつ……にケツ……2ケツ……
「ああっ!」
 ようやく意味が分かった珠緒は激しく頷きながらそう叫んだ。
 大里が玄関脇の靴箱を開けるとヘルメットとグラブ、それにブーツが出てきた。ブーツの左足甲にはシフトアップでできたらしい傷が無数にあった。

 教官の後ろに乗って教習を受けたことがあるからタンデムは初めてではないが、大里の後ろに乗るのはなんだか気恥ずかしかった。これも職場で知られたら恨まれるだろう。自分でここまで運転してきたのに、後ろに乗るように言われてほっとしている自分を、珠緒はほんの少しふがいなく思った。
(まだ免許取ったばかりで二人乗り禁止されてるし、しょうがないけど)
 先に乗った大里に続いて珠緒もまたがり、寄り添わないようできるだけシート後方に下がって背後のバーを握った。前の大里がミラーの角度を変えながら訊いた。
「まだ馴らしだよね。あんまり回転上げない方がいいよね?」
「あ、お任せします」
「準備オッケー?」
「はい」
 親指を立てた大里に同じ合図を返すと、大里が左足でサイドスタンドを外した。タンデムステップに足を乗せた珠緒も、膝に力を入れた。周囲を確認した大里がウィンカーを出して走り出した。

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