ツーリングを少々 1
ツーリングの二本目 1
羨望
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百合は綺麗なだけじゃないんです
すれちがい

ツーリングを少々番外編◆羨望

 胸ポケットの携帯電話が震えた。右手で取り出した携帯のディスプレイに表示された名前を確認し、大里は通話ボタンを押し、相手が挨拶をするより先に告げた。
「どうしたの?」
「すみません。宴会中だったんですね。電話してて大丈夫ですか?」
 遠慮がちな言葉にかぶせるように大里は言葉を継いだ。
「事故? 転んだ?」
「違います。ちょっとお訊きしたいことがあって」
 返事に混じって車の通過音がした。相手が屋外にいて大里に電話をかけてくるということは、いや、そもそも大里に電話をしてくるということは何かが起きたということだ。
「待ってて。場所変えるから」
 電話を保留にして、大里は席を立った。

 大里はにぎやかな喧騒から離れ、飲食店の集まる雑居ビルの通路で再び通話ボタンを押した。
「何があったの、たまちゃん?」
 返事の代わりにマニ割り独特の不快な排気音が耳の中ではじけた。大里はじりじりしながらトラックが通過するのを待った。
 騒音が遠ざかってからやっと、待ちかねた珠緒の返事がかえってきた。
「大丈夫です。バイクでちょっと出かけて帰ろうと思ったら、ちょっとエンジンがかからなくなっちゃって、JAF呼ぶ前にできることがあれば自分でやってみようと思って」
「今どこにいるの?」
 珠緒は郊外の地名を言った。大したことじゃないとアピールするためか珠緒は「ちょっと」と強調していたが、会社帰りに「ちょっと」でかけたにしては珠緒の家から遠いことだけは、東京に土地勘のない大里にも分かった。
「走ってていきなりエンジンが止まった? 一回止まってエンジン切ってからかからなくなった?」
「一回止まった後でかからなくなりました」
「ギアはニュートラルに入ってる?」
「はい」
「ガソリンコックはオンになってる?」
「はい」
「じゃあリザーブにしてみて」
「はい」
「キルスイッチはオンになってる?」
「なってます」
「バッテリーのケーブル、ちゃんと繋がってる?」
「はい、もう見ました」
 いちいち珠緒らしい真面目な返事があった。しかし返事のたびに大里の表情は曇った。そういう分かりやすい原因で解決して欲しかったのだが……。
「バイク途中で倒したりしてない? エンジンかからなくなってから何度か始動してみた?」
「倒してません。始動はもう何度も試してみました」
「今もう一回やってみて」
 カンカンカンカン、という耳ざわりな音が電話の向こうから聞こえてきた。これで大里にはだいたいの様子が分かった。バッテリーがへたれてる。
「まだやるんですか?」
「まだ」
 大里は耳を澄ませた。やがて低くやる気のなさそうなエンジン音がして、ぷすぷすと途切れた。
「たまちゃん……『押しがけ』って聞いたことある?」

 珠緒に押しがけのやり方を説明してからいったん電話を切った大里は、手の中の電話をじっとにらんだが、それほどすぐにかかってくるとも思えないので飲み会の席にいったん戻ることにした。
(飲んでなきゃ迎えにいってあげるんだけど……)
 高校生の頃は転倒して走れなくなった友達から夜中に呼び出しをくらったりはしょっちゅうだった。その頃はまだJAFの二輪向けサービスははじまっていなかったし、レッカーサービスを呼ぶような金の持ち合わせもなかったから、それが当たり前だと思っていた。谷底で故障したバイクを友達と交代で押し上げて帰ったこともある。
 そんな時に「飲んじゃったから行けない」なんて言い訳するのはおやじだけだと思っていた。
(向こう側にいっちまったな)
 自嘲気味に笑って大里は自分の席に座った。隣の席の坂田が重たそうなまつげを上げ、首をかしげて大里を見上げた。今日は一応同期の飲み会だったが、坂田のような後輩も幾人か混ざっていた。
「大里さん、どうしたんですか? 何かあったんですか?」
「いや、ちょっと知り合いのバイクが調子悪いみたいで」
 大里は言葉を濁した。『総務の岡本さん』と言えば坂田にも通じるはずだったが、坂田に珠緒との関係を説明するのが煩わしかった。幸い坂田は知り合いのところには関心を惹かれなかったようで、少し高い声で言った。
「大里さん、バイク詳しいんですか?」
「坂田ちゃんバイク好きなの?」
 坂田がまたまつげを上げて、上目遣いに大里を見た。
「一度乗ってみたいなーって思ってるんですけど……」
「ああ、乗ったほうがいいよ。免許取りなよ、人生変わるよ」
 誘いかけるような視線を正面から受け止めて、大里はさらりと笑顔で答えた。坂田のすねた表情には気付かないふりをした。
 大里は今頃どこかの山の中でバイクを押しがけしている珠緒のことを考えた。珠緒のバイクは軽いし、バッテリーがまるっきりいってるわけじゃないみたいだったからちょっとはずみをつけてやればエンジンはかかる筈だが、押しがけのコツをつかむまでに転んだりしないか。ブースターケーブルを積んだ車でも通りかかって手伝ってくれたらいいが、車とつなぎっぱなしにするとバイクのバッテリーがパンクする。
 それにしても走ってきたのにバッテリーのパワー不足って、端子か? ケーブルが断線しかかってるのか? まさかオルタネータの故障か?
 手の中の携帯がぶるっと震えた。
「あ、ちょっとごめん」
 大里はまた廊下へ飛び出した。

「エンジンかかりました!」
 嬉しそうな珠緒の声が電話から響いた。
「よかった。絶対に家に帰るまでエンジン切るなよ。あとリザーブでガソリン切れたら本当に動かなくなるから、その時はあきらめてJAF呼びな」
 普段女の子には使わないぞんざいな口調で呼びかけてしまったことに気付いて大里はしまったと思ったが、珠緒は明るい声で答えた。
「はい。ありがとうございました! これからは師匠と呼ばせて頂きます!」
 通話を終えた携帯電話を手に大里は小さく笑った。
「師匠とか呼ぶか、普通」

 珠緒は多分バイク乗りにとっての向こう側もこっち側も知りもしない。バイクを降りることなんて考えもしていないだろう。もっと上手く早くなりたいと同じコーナーを何度も走りこんだり、性能の違う新型バイクにあっという間にぶち抜かれてそんな努力が泡と消えたり、自分のバイクの限界を感じたりするよりも前、ただバイクに乗ってるだけで楽しい時期だ。バイクでどこかへ移動する喜びだけを味わえる時期だ。自分の背中に羽が生えたようなあの万能感を、珠緒は今きっと味わっている。
 大里がそんな珠緒に羨望を覚えていることなんて、きっと気付きさえしていないくせに、簡単に師匠呼ばわりして欲しくない。

 この時期独特の、湿気のある夜の空気の重たさを思い出して大里は身震いをした。
「あー、バイク乗りてぇ」

 今週末はバイク屋めぐりをしようと決意してから大里は携帯電話を胸ポケットにしまい、赤い顔をした向こう側の仲間達のもとへ戻っていった。
 
end.(2011/06/20)

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