妻の家出 1

妻の家出◆1

 妻が家出した。
 
 玄関の靴箱の上にメモが置いてあった。
「しばらく家を出ます。あなたと一緒にいる意義を考えてみます」
 そのうるわしい水茎の跡にはためらって手を止めた気配はない。日付もない。紙の裏まで見たが書いてあったのはそれだけだった。
 
 三日前に仕事のトラブルで急に出張になり、日帰りの筈がそのまま客先で捕まってしまった。事情を知らせたメールに妻からの返事はなかったが、特に返事のいる内容でもなかったから了解しているものと思っていた。ようやく原因が分かって帰ってきたのがもうそろそろ日付も四日目に変わろうかという今だ。妻がいつ出て行ったのかも分からないあたりが情けない。
 妻は俺と同じく正社員で働いている。会社はどうしてるんだろうか。妻の職場に電話して確かめてみたい。しかし出社しているにしても休んでいるにしても、夫から出社を確認する電話が入るというのは妙だろう。迷惑かもしれない。どちらにしてもこの時間に電話はかけられない。妻の交友関係にしても同じく。
 
「本当に出て行ったのか」
 
 手紙にそう話しかけてみた。もちろん返事はない。あったら困る。
 『咳をしても一人』と詠んだ尾崎放哉はこんな気持ちだったのだろうか、いやいや俺ごときがおこがましい、などと余計なことを考えつつ手紙を片手に持ったまま冷蔵庫を開けた。
 冷蔵庫の中はまるで電気屋の商品見本のように空っぽになっていた。いつ戻るかも分からない俺が消費期限の切れた食品を口にしてはいけないという思いやり……いや、まず間違いなく嫌味だろう。ビールくらいは残しておいても問題なかったと思うんだ。
 ふと思いついてキッチンのゴミ箱を開けてみたが、きちんとセットされた指定ゴミ袋の中は空っぽだった。これで妻がゴミの日以降に出て行ったことは分かったが、問題はゴミの日が何曜日なのかを俺がいつまで経っても覚えられないことだ。(ついでに言うと、ゴミの分別方法についても覚えられなくていつも怒られている)
 
 一緒にいる意義。俺が妻と一緒にいる意義はただ冷蔵庫とゴミ箱の管理にあるのではないかと、これはそういうアピールだろうか。
 確かに俺にとっては妻と一緒にいることに意義がある。しかし妻には俺と一緒にいる意義が感じられないということか。
 
 それなりの歳になったら結婚するものだと思っていたし、相手として知人に紹介された女性に特に不満もなかった。おそらく妻も同じように思ったのだろう。俺の熱の入らない告白に頷いてくれたし、とんとん拍子に話が進んで結婚したのは5年前のことだ。
 休日のたびに買い物に行ったり長い休暇に旅行に行ったりというような普通の夫婦らしいことができなかったのは、俺が企業の基幹システムの開発部署に所属していて、カレンダー通りに休めないせいだ。世間の長期休暇時期は、得意先のシステムリプレース時期とちょうどかちあうことになっている。妻も仕事を持っているために、お互いにずれた休みには家でDVDを見たり、一人で買い物に出たりして過ごしていた。妻は学生時代の友達と旅行に出かけたりもしていたが、俺はただでさえ出張で乗りたくもない飛行機や新幹線に乗ることが多いので、休暇にまで乗り物に乗ろうとは思わなかった。
 確かに妻にとって俺といる意義はないかもしれない。妻は自分で運転もすれば釘も打つ。電気製品の接続もできる。俺が買い物に行くと言っても、自分が行きたくなければわざわざ一緒にでかけたりはしない。
 
 家事に手を出したのもまずかったかもしれない。
 平日に代休で(強制的に休まされて)家にいる時はせっかくなので普段できない場所の掃除などをするようにしていたが、帰ってきた妻はそれに気付くと微妙な顔をしていたような気がする。あれが良くなかったのだろうか。
 
 それとも、それとも、とあれこれ考えてみたが、これといって妻の家出のきっかけは思い当たらなかった。というよりも、結婚してから今までずっと同じような生活だったから、何故『今』なのかが分からない。妻の背中に載った最後の藁は俺の出張だろうかと想像するのがせいぜいだ。
 生活費はお互いの給料から共通の口座へ振り込んで、それ以外は自分で貯蓄するなり使うなり自由だ。おそらく妻にはそれなりの資産があり、もし離婚したとしても生活に不自由はない程度に稼いでいる筈だ。お互いの給料明細を見せあったのは結婚してすぐの頃だけだから、今現在、妻がいくらくらいの年収を得ているのかははっきりと分からない。しかし主任の肩書きもあるし自分ひとりの食い扶持くらいは困らないはずだ。なにしろ残業代を抜いた基本給は、メーカー勤務の俺よりも商社勤務の妻の方が多いのだ。業種によって基本給に差があることを分かった上で俺は製造業に就職したのだし、妻もそのあたり承知の上で結婚したのだが……分かっていた事実を数字で確認した後は給与明細を見せあわなくなった。
 
 一向に眠気は訪れないが、体だけでも休めないと翌日の仕事に差し障るしと寝室へ向かった。こんなときでも仕事のことを第一に考える自分に気付いて苦笑したが、トラブルの原因は分かったものの対策はこれからだ。明日朝一番の対策会議に出なくてはいけない。
 普段は俺が帰るともう妻はベッドの反対側で寝ている。いつものようにベッドを弾ませないよう注意して布団に滑り込もうとして、今日は一人だからいいのだと苦笑した。
 
 もしかしたら職場で誰かに口説かれたりしてたのか。
 天井を眺めていたらそんな考えが頭に浮かんだ。夜の方も(とにかく俺が家にいないので)世間並みの頻度には及ばなかったし、休みはばらばらだし、飼い殺しみたいな生活にうんざりしたのか。
 まだ残りの人生長いし、やり直すなら『今』だと思ったのか。
 
 溜息をついて目を閉じたら、眠くはないのに体だけが動かせなくなった。霊感なんてデリケートなものは持ち合わせていないから、疲れすぎている時によくなるいつもの奴だ。
 
 ――そう思っていたら、布団の中で手を握られた。

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