妻の家出 1

妻の家出◆2

 俺には霊感なんてものはない筈なんだ。出張先ならともかく、自分の家の自分のベッドで心霊体験なんて嫌すぎる。それにそこは妻の寝場所なんだ。
 
「はな……いやまてっ」
 
 手なんかろくに握ったことがないから確信はないが、離せと言いかけた次の瞬間、これは妻の手なんじゃないかと思いついて逆に強く握り返した。
 しかし声を出したとたんに体は動くようになり、その時握ってきた手の感触も消え、悪い夢から醒めた俺一人だけがベッドの上にいた。
 
 鳴り出した電話の呼び出し音に驚いて、大きく身じろぎをした。
 不吉な知らせを告げる電話ではないか、そう思うと反応が遅れた。

「はいっ、もしもし」
「あなた、帰ってたの。よかった」
 妻はいつもの調子で坦々と言った。あのメモを見ていなければ、あの冷蔵庫とゴミ箱の中を見ていなければ、とても家出中とは思えない。
「私いま中央病院にいるんだけど、どれでもいいから上着持ってきてくれない?」
 
 深夜の救急病院は、救急車も来るし時間外診療を待つ病人と付き添いもいるしで、思ったよりも賑わっていた。本当は賑わってない方がいいんだろうがと思いながら辺りを見回すと、廊下の向こうからキャメルのコートを腕にかけて歩いてくる妻の姿があった。
「弥生っ」
 よほどあわてた声だったのか、妻だけでなく辛そうな顔で座る病人や眠そうな付き添いまで顔を上げて俺を見つめた。俺は注目を浴びたまま靴音高く妻のもとに駆け寄った。
 
 自分でも思いがけない大声が出た。
「いつから家出してたんだ」
「やだ、こんなとこで言わないでよ。恥ずかしい」
 妻が慌てた顔をした。その時、間違い探しのような違和感に気付いた。
「コート持ってるんじゃないか」
「ちょっと汚れちゃったのよ」
 妻が内側にたたみ込んでいた赤黒い染みに気付いて、すうっと血が下がった。妻が早口で言った。
「鼻血だから大丈夫、私のじゃないし」
 何が大丈夫なのか分からないが、確かに妻のその言葉で俺の体には再び血が通いだした。
 
「何で来たの?」
「車」
 俺が持っていった上着に袖を通した妻と、連れ立って駐車場へ向かった。煌々とライトを光らせた愛車が出迎えてくれた。
「慌ててたんだ」
 指摘される前にいいわけをすると、妻が何故か少し嬉しそうな顔をした気がした。
 
 帰り道で妻は電話での簡単な説明を補足してくれた。職場の飲み会の帰りに駅で、同僚がケンカに巻き込まれて怪我をし行きがかり上病院まで付いてきた。帰ろうと思ったらコートが血だらけなのに気付いたので家に電話をしてみたということらしい。
 車中では二人とも家出の話題に触れなかった。このままなかったことにして終わるのではと思ったが、それではいけないと思い直した。
 
「すまない」
 狭い玄関に先に入って靴を脱いだ妻の背中に向かって、最敬礼で直角に頭を下げた。
「どうしてお前が家を出たのか考えてみたんだが、よく考えたらどうして今まで一緒にいてくれたのか分からなくなった。悪いところは直すよう努力する。戻ってきてくれ」
 顔を床に向けたまま、腹に力を込めてそう言ってゆっくりと背中と同じ角度で顔を上げた。ここで顔を上げて相手がどんな様子か観察したくなるのが人情だがそれをやると非常にみっともない姿になる。クレーム対応研修で教わったことだ。俺はこういう、妻への謝罪に会社で学んだスキルを使うようなつまらない男だ。妻に愛想をつかされて当然なんだろう。
「ああ、あれ。もういいの」
 妻がこちらを見ずに答えた。
「もういいって……」
 言葉が続かなかった。あの空っぽの冷蔵庫とゴミ箱が答えなのか。
「もう分かったから」
 俺の焦りに気付いているのかいないのか、妻がやっと俺の顔を見た。
「いてもいなくてもいいような人だけど、それがあなたのいいところだって分かったの」
 家出をした妻にこんなことを言われ俺は――途方もなく安心していた。
 
 三日、いや四日前に俺が帰ってこないことに腹を立てた妻は、冷蔵庫の中身を全てゴミ袋にまとめて収集に出し、着替えを詰めてホテルに移ったらしい。しかし俺からの連絡がない間に怒りが収まり頭も冷え、ちょうどよく(ケンカに巻き込まれた同僚は気の毒だが)きっかけができたので連絡してみたそうだ。
「家を出てホテルに移ったらすごく開放感があるんじゃないかって思ってたんだけど、通勤が楽になっただけで気分は大して変わらなかったのよねえ。別居した友達の話とはずいぶん違うな、なら戻っても一緒かなって」
 晴れ晴れとした顔でそう言った妻の手を黙って握った。
「なによっ」
 慌てた妻が引こうとした手を強く握って止めた。
 
 これがあの手と同じかどうかはやっぱりよく分からない。俺はそういうデリケートな男じゃない。
 
 でももしあの手が、俺に愛想をつかすのをやめた妻が差し伸べてくれた手だったとしたら、握り返したのは正解だったんじゃないかと思う。
 
「ずっと連絡できなくて悪かった」
 握った手を見つめたままそう言うと、妻の抵抗がゆるんだ。
「弥生は一緒にいる意義を感じられないかもしれないが、俺はそんなしっかり者の奥さんが自慢だ」
「……あのね」
 妻が一拍置いて、続けた。
「ちょっと寂しいなと思うときもあるけど、私もあなたと一緒にいるの、すごく楽なの。大恋愛で結ばれたわけじゃないけど、五年間一緒にいてあなたと同じ家にいたくないって思うこと、一度もなかったの」
「俺もだ」
「だけどね……もしかしたらお互いに惰性で一緒にいるだけなのかなって思って。普段と違うことしたらあなたがどうするか知りたかったの」
 本当にそれだけなのか、何か煮詰まっていることがあったんじゃないのか、そう訊きたい気持ちはあるが、疑い始めたらきりがない。
 一緒にいる時間が少ない、お互いに違う場所で仕事をし、違う人間関係で揉まれている俺達二人が一緒にいる意義は、ただお互いが一緒にいたいからという以外にない。

「だからあなたがライト消し忘れてて、ちょっと嬉しくなっちゃった」
 そう言って笑った妻を俺は怒れなかった。俺も妻が家出をしたことで、妻が俺と惰性で一緒にいるだけじゃないことを知って嬉しくなったのは妻と同じだったから。

 こうして妻の家出は終わった。

 俺達はあいかわらずすれ違いの多い生活を送っている。時々、夜遅くにベッドを弾ませないよう注意して布団に滑り込んで、寝ている妻の手を握ってみることがある。俺にはやっぱりその感触があの夜と同じかどうかは分からないが、もしまた同じことがあっても握った手は離さないつもりでいる。
 そしてできれば、妻もそうしてくれていたらいいなと思っている。
 
end.(2010/12/23)

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