一角獣と乙女 1

一角獣と乙女◆xx

 五年が経った。
 シャルルはメイユール家から借りた金で、壊れていた古い石橋を修理し番人を置いて通行料を取った。通行料だけで修理にかかった費用を回収するには何年もかかるが、橋のおかげで大雨で川が増水しても物流が途絶えなくなり、城下の物価が安定した。道が整ったことで行商人が来る機会も増え、欲しいものがあまり待たずに手に入るようになったと城の者達は喜んでいる。
 シャルルはまた、貢納された羊毛を実家に託して聞いたこともない土地へ商い、見慣れない金貨や銀貨、銅貨に換えた。そしてその金で不作に備え穀物を購った。不作の年に近隣から少ない収穫を買い集めるのではなく、豊作の年に余った収穫を買って取り置いた方がかかる費用が少なくて済むという理屈は分かったが、それができるのも羊毛の交易あってこそだ。
 シャルルのおかげで、領地は少しずつ豊かになっていった。

 弟のジャンは健康を取り戻しつつある。シャルルが招いた医者が瀉血(しゃけつ)を意味のないこととして止めさせてから、頬に生き生きとした血色が戻ってきた。歳に比べて体は小さいが、もう少し丈夫になれば騎士の修行も始められるだろう。
 領主である父はシャルルに領地管理を任せたきり相変わらずの日々を送っていたが、一年前に主君から軍役を命じられて出かけていき、マリーという寡婦を連れて戻ってきた。マリーは自分も伴侶を失った経験から、父の亡妻への思慕を理解し受け止めてくれたようだ。身分が低いため正式な結婚をすることはできないが、過去の結婚で子どもを持てなかったマリーはジャンを実の息子のように可愛がってくれ、ジャンもまたひたむきにマリーを慕っている。二人がお互いを思いあう姿に、父が「カトリーヌが生きていればこうであったか」とつぶやいた時には嗚咽をおさえることができなかった。
 父の心から悲しみが消えることはないだろう。しかしそこにあるのはもう悲しみだけではなかった。私を見て目をうるませることは今もときおりあるが、以前とは違い過去を懐かしむ表情にかわっていた。

 ある気持ちのいい夏の午後、一人で塔の上に来て、窓から領地を見下ろした。
 そこには期待したとおり豊かな実りのしるしがあった。いくら眺めても見飽きることのない景色だ。豊作の年があれば必ず不作の年もあることはよく分かっているが、だからこそ、この景色はいっそう美しかった。
 あの黄金が波打つ場所は去年の休耕地だった。畑を春蒔き作物と秋蒔きの作物、それに休耕地の三つに分けて毎年入れ替えるという新しいやり方は、シャルルが聞き及んでまず直営地で始めた。直営地の収穫が増えたのを見て、領民達は自分の保有する土地でも同じ事を始めている。
 
「またここですか、カトリーヌ」
 頭の上からシャルルの声がした。この五年でシャルルの背丈は私を追い越していた。
「シャルル」
 振り返ろうとしたところに後ろから腕を回され、二人で窓辺に並んだ。しばらく黙ったまま同じ景色を眺め、それから気になっていたことを訊いた。
「この秋あたりに、教授を城にお招きしてみては?」
「最近頂いた手紙のご様子では、しばらくこの辺りには来られないようです。それに領地の管理もまだ行き届いているとは言いがたい。ジャン殿が騎士となって城へ戻られ奥方をお迎えになるまでに、しておくべきことは数多くあります」
 五年経ってもシャルルの丁寧さは変わらなかったが、その声は耳に快よい深みのあるものに変わっていた。
「私との契約をお忘れになりませんよう」
 念押しをした私に、シャルルが笑いを含んだ声で言った。
「あのような大言壮語であなたを口説こうとするなど、我ながら怖いもの知らずでした。よくも切り捨てられなかったものだと思います」
「……あなたは、私が背負いきれなくなっていた全てを共に背負ってくれた」
 腰に回された腕に力が入った。頬を寄せた亜麻のコット(シャツ)越しに、シャルルの温かみが伝わってきた。
 あの時、私はわめき散らしたいような焦燥を噛んで馬を駆っていた。何もかもうまくいかない苛立ちを持て余していた乗り手を、馬が嫌がったのも当然だ。

 しかしそのおかげで私は一角獣(シャルル)に出会えたのだ。
 一角獣は私に「お前自身のための願いはないのか」と訊いてくれた。
 幸せになりたい――そう願いながら、それが何なのかも分からなかった私に幸せをくれた。

 今はもう分かる。幸せは、自分の周囲をとりまく出来事のことではない。それを感じる心のことだ。
 妻を亡くした父にはまだ、領地も跡継ぎの息子も、妻に代わり城を切り盛りする娘もいた。父が不幸だったのは、ただ父の弱った心が幸せを感じられなくなったせいだった。
 私も同じだ。父と母、それに跡継ぎの息子の代わりまで務めようと、父の代わりに心を強く持とうとしすぎて、領主の娘として皆に守られ愛され、飢えもせず屋根のある場所で暮らせる幸せまでも感じられなくなっていた。
 確かにシャルルが城に来てから領地や家族の様子は大きく変わった。しかしもし何も変わらなかったとしても、私は元から幸せだったのだ。ただそれを感じられずにいた。
 かたくなだった私の心に柔らかさをくれたのは、シャルルだった。

「あなたのおかげで多くを得た。あなたには申し訳ないほどに」
「何故ですか? 私は何ものにも代えがたい奥方を得ました」
 婚礼の晩にシャルルから同じように言われた時は信じなかった。本当のことを言えば、五年経った今でもまだ信じがたいことだと思っている。しかしシャルルは結婚して一年ほど経ってから、あの出会いが偶然でなかったことを告白した。最初から結婚の申込をしようと思って、私を追いかけていたのだと。
 ――本当に捕えられたのは一角獣ではなく乙女の方だった。

 城のどこかから、かんしゃくを起こした子どもの泣き声が聞こえてきた。
「そして何ものにも代えがたい子ども達を」
 二人で目を合わせて笑いあった。小さなシャルルがまた乳兄弟のリュクと喧嘩しているらしい。
 リュクの妻は私と同じ時期に小さなリュクを産んだ。二人が子犬のように転げて遊ぶ姿はどこか懐かしく、ほんの少しだけ切ない。
 私の頬に、シャルルの暖かい手が添えられた。
「領地の測量で幾何を実践するのも楽しいですよ。――これでもまだ足りないとお思いですか?」
 シャルルはそう言ってにこりと微笑んだ。

 私の口づけはシャルルの頬に届く前に、唇で受け止められた。
「シャルル。いつか必ず、あなたの願いも叶えて」
「急いではいません。子ども達の誰かが私に似ないとも限りません。教授に師事できたら喜ぶでしょう」
「もしあの子達があなたに似るようなら、ろうそくを今の倍は作らなくてはね」
 笑いながら言うと、シャルルが急にあわてた声を出した。
「ああ、実は兄が旅先で『Liber Abaci(算盤の書)』の写本を手にいれてくれました。この冬は少し……」
「ええ、沢山のろうそくが入用なのですね。確かに承りました」
 もう一度口づけを交わした後、私達はお互いの手をしっかりと握り、塔の階段を下りていった。

end.(2011/12/09)
あとがき。中世西欧を舞台に設定していますが、風俗・習慣の一部は創作です。一角獣が願いを叶えるという伝承はありません。自治都市の商人と貴族の結婚は実際にあったようです。『いとこ婚』の禁止も本当です。『瀉血』は当時の民間療法、『Liber Abaci』は実在する中世の数学書です。その他いろいろとWikipediaさんにお世話になりました。

前へ single stories もくじ

↑ページ先頭
 Tweet
inserted by FC2 system