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茨姫(いばらひめ) 2(おわり)

 国王一家の暮らす、王宮のプライベート区画まで私を連れてきてくれたエドが、チップの部屋のドアをノックして開けた。
「エドか? 今日はノックを忘れなかったみたいだな」
 そう言う声がソファからした。

 数ヶ月ぶりに会ったチップは、ソファに寝転がったまま雑誌を読んでいた。雑誌で顔は見えない。
「チップ。ベスを連れて来た」
 エドがそう言うと雑誌の向こうから真っ黒に日焼けした顔が覗き、私を見つけて目を見開いた。
 あわてて雑誌を置いたチップがソファから立ち上がり、私を出迎えた。
「すまない、こんなだらしないところを女性に見られるなんて僕も焼きが回ったな」
 相変わらずチップの爽やかな笑顔と物言いは何故か私の神経を逆なでする。

「チップ、お話があるの。少しいいかしら」
 そう言うと、エドが礼儀正しく部屋を出て行った。
 私はチップが雑誌をどけたソファに座り、チップは正面の肘掛椅子に座った。
「あなたとの婚約がとりやめになるって本当?」
「まだ決定ではないけど、それを目指して動いている。……王位継承権を放棄した僕と無理に結婚させられることはないだろう。決して君に不満があってのことじゃないよ、ベス」
 チップは肘掛け椅子に前傾姿勢で座り両手を身体の前で握って、誠意あふれる態度でそう答えた。

 私とチップが婚約の件で直接話すのは、これが初めてだった。
 そんな婚約で『君に不満があってのことじゃない』なんてよく言えたものだ。

「あなた、どうして私との婚約を最初から断らなかったの?」
 一度訊いてみたいと思っていたことだった。
 望まない婚約を解消するというなら、最初からしなければ良かったのだ。

「君こそどうして断らなかったの?」
 チップが誠意あふれる態度にほんの少し好奇心を滲(にじ)ませて私に訊きかえした。
「僕等に選択肢はなかったけど、君にはあったじゃないか。どうしてベンにって言わなかったの? 君が好きだったのはベンだろう?」
「知ってたの?」
 そう答えてから自分の舌を噛みたくなった。
 体が熱くなった。多分頬も真っ赤になっている筈だ。ベン本人も知っているんだろうか、そう思ったらいたたまれなくなった。
「小学校の時に」
 顔を伏せた私の耳にチップの声が届いた。
「宿題を教えてもらいに君のところに行ったんだ。君はたまたま部屋にいなくて、机の上のノートには『ベン&べ』」
「お願いっ! やめてっ!!」
 私は立ち上がり、テーブル越しに両手を突き出して彼の言葉を遮った。チップは楽しそうに笑っていた。いつも私をいらつかせる爽やかな笑顔ではなく、もっと小さい頃に見たような身内向けの悪い顔で。
「僕はその頃君のことが好きだったから」
「なんですってっ!?」
 私はまたチップの言葉を遮った。
「チップ、私のことからかってるの?」
「いや、全然。長年胸に秘めた思いを告白しようと思ってるだけさ。あの頃から君は物静かでクラスで一番髪が長くて上品で、それこそ物語に出てくるお姫さまそのものだったからね。あのクラスの男は皆、君に憧れてたんだよ。知らなかった?」
「そんなの……知らないわ」
 私は脱力してソファに座りなおした。さっきのチップのように横になりたいとほんの少し思ったが、もちろんいとことはいえ男性の前でそんなだらしない姿を見せるわけにはいかない。
「僕は君の気を惹こうとして一生懸命で他の女の子にキスしたりしてたのに、逆に君に嫌われてすごくショックだったよ。あの頃の僕にもし会えたら、そんな子供っぽい真似は今すぐやめろって言ってやりたいね」
 私はもうチップの言葉を遮る気力も出なかった。
 チップは最初のあの誠意あふれる態度を捨て去り、友達に話すようなふざけた口調になってきた。
「初恋の相手に慣例通りに最初の失恋をして、まあその傷心を他の女の子達に慰めてもらって立ち直ったんだけど、僕は君に嫌われてるのが分かってたから、派手に遊び続けて君が断りやすいようにしてあげたんだ。もちろんそれだけが理由だとは言わないけどね。……君が婚約を断らなかったってきいて、まあそれもいいかなって思ってたんだけど。
 ねえ、どうしてベンがいいって言わなかったの?」

 チップと私は、ここ十五年ほどまともに口をきいていなかった。
 だからこんなにお互いのことが分からないんだろうか。

「だってベンは私のこと妹としか思ってないでしょう?」
「それだって、言われたら断りはしなかったさ。僕等の結婚ってそういうものだっただろう?」
 確かにそうだ。でも、好きな人だからこそ相手に思われずに結婚をするのは嫌だった。

 ……ああ、そうか。
 つまりやっぱり、チップは子供の頃はともかく、もう私のことは好きじゃないってことだ。

 私はふと、胸が軽くなったのを感じた。
 さっきは頭が、今度は胸が。
 私は自分を縛る茨(いばら)が少しづつゆるんできていることに気付いた。

「ねえ、チップ。体はもう大丈夫なの? お見舞いに一度もいかなくてごめんなさい」
「いいよ、君も進退がはっきりしなくて辛かっただろう。今回の件では、本当に色々迷惑をかけた。少しは心配してくれた?」
「ほんの少し、私との結婚が嫌で逃げ出したのかと思ったわ」
 私がそう言うと、チップが笑った。
「ひどいな。僕はこのまま行方不明だったら君が困るだろうなってちゃんと心配してたのに」
「ごめんなさい」
 この十五年で初めてかもしれない、チップと和やかに話すのは。
「それで――エドでいいの、ベスは?」
 私はその言葉を聞いたとたんにまた体がかっと熱くなった。

 そんな私に、チップが思いがけない優しい声で言った。
「説教は長いし不器用だし純情すぎるところがあるけど、僕と違ってふざけたところはないからね、ベスとは気が合うかもしれないな。エドはもう申し込んだ?」
 婚約者から弟を勧められるというのもどうかと思うが、もともと私達の結婚はそういうものだ。
「まだ何も申し込まれてないわ」

 正確に言うと途中までは聞いたけれど、婚約解消がはっきりしていないのに聞いたと言うと、今度はチップに失礼にあたるだろう。
「じゃあ申し込まれたら、返事をする前にぜひどうしてベスのことをエリザベスって呼ぶのか訊いてごらん」
 チップはそんな謎めいたことを言ってから、不意ににやりと笑った。
「ねえ、ベス。最後にキスしていい?」
 私は思わず身を引いた。

「『絶対にあなたにキスしてなんて言わない』って言葉は、幼い僕の心に突き刺さったよ」
 チップが大げさな身振りで胸を押さえてそう言うから、覚悟を決めた。
 少なくとも内輪でとはいえ婚約者だった人だ。
「分かったわ。キスしてもいいわよ」
 ぎゅうっと目をつぶって顔を上げると、頬にチップの手がかかった。

 身を固くしていたら、反対側の頬に、今度はそっと何かが軽く触れた。
「これからはもう少し仲良くしてくれよ、兄妹になるんだから。これで幼い頃の僕のトラウマが、いや、夢がひとつ叶ったな」
 目を開けた私の目の前で、チップが微笑んでそう言った。
 その微笑みを見て、一人だけのけ者にされて悔しくてたまらなかったあの頃の私にも、ほんの少し、ほんの少しだけキスを願う心があったことを、自分にだけはこっそりと認めた。

「あなたを兄とは呼びたくないけど、夫と呼ぶよりはずいぶんマシだと思うわ」
 私はそう言って、チップと同時に笑い出した。

「じゃあエドを呼んでくるよ。どうかこの部屋でそのまま待ってて」
 チップが部屋を出て、しばらくすると入れ替わりでエドが入ってきた。部屋の主はエドが少し開けていたドアを外からきっちり閉め、エドと私を二人きりにしてくれた。
「エリザベス」
 そう言ったエドが、私の前に膝をついた。
「ずっと君に憧れていた。最初から僕には手に入らない人だと思っていたけれど、それでもあきらめられなかった。もし、もし本当に嫌だったら、どうか今正直にそう言ってほしい。僕は君の幸せを一番願ってる」
 あの小さくてころころしていたエドが、私の前にひざまずいてそう言うのを、私は夢見心地に聞いていた。

 エドのことを愛することができるだろうか? 私はエドが求めるものを本当に与えることができるだろうか。
 その時、不意にさっきチップに言われたことを思い出した。

「ねえ、エドワード。教えて。どうしていつも私のことを皆みたいにベスって呼ばずにエリザベスって呼んでいたの?」
 そう訊くと、エドが伏せていた顔を上げた。エドの顔は真っ赤になっていた。
「つまり……その……エドワードとエリザベスってどちらもEで始まるし……よく合うと思うんだ」

 その瞬間から、目の前にいるのは小さい頃から知っていた小さなエドではなく、茨(いばら)の中に私を求めてきた王子様になった。

「私も……そう思う」

 私はそう言って目を伏せ、長い眠りから私をよび覚ます本当のキスを待った。

end.(2009/04/16)

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