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Venerdi 3(おわり)

「キャットのルームメイトの、あの綺麗な子って」
「フィレンザのこと?」
 ある日キャットに、テニス部の友達が話しかけてきた。部の練習の直前だった。

「チャールズ王子と知り合いなんだってね?」
「うん、そうらしいよ」
「へぇ」
 何だか気になる言い方だったので、キャットは友達に聞いてみた。
「なんで?」
「うん、あのね……チャールズ王子がここの学生と付き合ってるって噂、知ってる?」
「えっ!? 知らなかった」
 キャットの体がすっと冷えた。血が下がったような気がした。噂になってるなんて。
「それでね、フィレンザの寮の近くでチャールズ王子の車を見かけたって誰かが言ってたの」
 それは間違ってる。だっていつも送ってもらう時にはあの派手な車じゃなくて、わざわざ目立たない車にしてもらってる。ああでも、もしかしたら車の中の姿を誰かが見たのかもしれない……。
 キャットの頭の中ではぐるぐると色々な考えが巡ったが、口に出しては大したことが言えなかった。
「そうなんだ」
「だからもしかしてフィレンザがその相手なんじゃないかと思って。キャットは知ってる?」
「違うと思うよ」
 キャットは弱々しくそう告げた。
 その相手が自分だと告白する勇気はとてもない。でもなんだかややこしいことになってしまったと思った。

 キャットはその日の練習でミスを連発して先輩に絞られ、疲れ果てて寮に戻った。
 部屋で電話をしていたフィレンザが、携帯を持ったまま振り返った。イタリア語はどうせわからないので、気にしないでくれと手を振ってキャットは自分のベッドに横になり、一人で昼間の話を思い返してみた。

 付き合っていることがいつか皆に知られることは覚悟していた。このままいけば国民全てに知られることも分かっていた。
 チップは別に隠したがってはいなかったが、学生で一般人であるキャットをかばって目立つ場所には連れて行かないようにと気も遣ってくれていた。
 キャットがそのことを隠しているのには気恥ずかしいのも、匿名でいる開放感をもう少し味わいたかったのもあったが、なにより『あの』チャールズ王子の恋人、という視線に耐える自信がまだなかったからだった。
 フィレンザに告白するのだってこれだけ躊躇(ちゅうちょ)しているのだ、自分に好意的でない見知らぬ人達に対面して平然としていられるわけがない。
 あのニュースになった大騒ぎでどんなデタラメを言われたか、なるべく思い出さないようにしていた過去の嫌な記憶が次々に甦った。

 でもだからと言って、皆がその相手をフィレンザだと思っているのはすっきりしない。

 チャールズ王子と付き合っているのは私だと皆の前ではっきりと言いたい。
 でもそのことでひどい噂をされたり、釣り合わないと指さされたりするのは怖い。
 あの島で二人きりでいた時だって自分のことを何もできないお荷物だって思っていたのに、今の自分とあのチャールズ王子とでは何ひとつ釣り合うところなんてない。自分でもそう思ってしまうからこそ、他人からは言われたくなかった。

(フィレンザは美人だし家柄もいいみたいだし、フライディの恋人じゃないかって疑う人達の気持ちもよく分かる。それにレポートの添削をしたのがフライディだって知ったら、もしかしたらフィレンザだって本当にフライディのことを好きになるかもしれない。……やだ、私、フィレンザに本当のことを言いたいのか言いたくないのか分からなくなってきちゃった)

 キャットが収まりのつかない感情にあれこれと悩んでいるところへ、電話を終えたフィレンザが話しかけてきた。
「キャット、あのね」
 そう言ったものの、フィレンザはなかなか言葉が続かない。
「なあに、フィレンザ」
「チャールズ殿下のことなんだけど」
 言葉に詰まるフィレンザに、キャットが先回りして言った。
「聞いたよ。フィレンザと付き合ってるって噂があるんでしょう?」
 フィレンザが驚いたようにイタリア語で何か叫んで真っ赤になった。
「本当なの?」
「私も今日聞いたの。『違うと思う』って言っちゃったけど良かった?」
「もちろんよ。――あのね、キャットは殿下のことどう思う?」
「感じのいい人なんじゃない。イタリア語も上手みたいだし」
 キャットのつっけんどんな言い方に、フィレンザは何か言いかけた口を閉じてしまった。
 キャットはみじめな気持ちになった。

 ちょっと感じが悪かっただろうか。でも本当は私と付き合ってるのよなんて今言い出すわけにもいかないし。いつもなんてタイミングが悪いんだろう。
 せっかくルームメイトになれて、仲良くなれたと思ったのに。男の人が絡むとこうやって友達との仲もこじれてしまうんだろうか。

 ああ、大人になるっていろいろ面倒くさい。
 私っていろいろ面倒くさい。

 次のデートの帰り道、今日はなんだか元気がなかったけどどうしたの、とチップに聞かれたもののキャットは理由を答えることができなかった。
 そんなキャットの様子をみてチップが話題を変えた。
「ドンナ・フィレンザのことだけど」
 キャットがぱっと顔を上げた。
「なかなかいいアドバイザーがみつからなくて。気にして捜してはいるんだけど、もう少し待ってて。僕で良かったらまたアドバイスするから」
 そういわれたキャットの表情の変化を、チップは見逃さなかった。
「ロビン。前に約束しただろう。何か言いたいことがあるならちゃんと言ってくれ。また黙って僕から逃げたりするなよ、今度は寮の壁をよじ登らなくちゃいけなくなる」
 チップは笑いながらそう言ったが、キャットは泣きそうになった。
 そんなことをしたら、今度こそチャールズ殿下とフィレンザは付き合ってるってものすごい噂になるにきまってる。

「ロビン?」
「帰るね。ごめん」
 引きとめようとチップが伸ばした手をすり抜けて、キャットは車から降りてしまった。そして、寮の部屋で一人ベッドにもぐった。
 しばらくして部屋に戻ってきたフィレンザが心配して声をかけたが、キャットはそのまま朝まで殻に入ったかたつむりのように顔を出さなかった。

 次の日、目を腫らして大学に行ったキャットは、昼にいつも行くカフェテリアの前で人待ち顔のチップを見つけてくるっと背中を向けた。
 もうちょっと気持ちの整理がついて言葉にできるまで、チップの顔は見たくなかった。

 キャットは早足で立ち去ろうとしたものの、すぐに追ってくる誰かの気配を感じた。
 ここで追いかけっこなんかをしたらよほど目立つが、いっそ走って逃げてしまおうかと思ったところでとうとう後ろから腕を掴まれた。
「ロビン」
 そう呼んでチップが続けようとした言葉を遮るように、誰かの声が飛んできた。
「ドン・カルロ」
 フィレンザだった。フィレンザは振り向いたキャットとチップの前でくっと顎を上げると口を開いた。

 普段の考え深い彼女からは想像できないものすごい早口でフィレンザは身振り手振りを交え、驚くべき勢いで溢れ出るイタリア語をチップにぶつけた。
 最初にキャットとチップの様子に目を止めた数人にフィレンザに目をひかれた人々が加わり、昼時のカフェテリア前には観客が増えていった。

 普段のフィレンザを見慣れたキャットは驚いた。
 何を言っているのかは全く分からなかったが、フィレンザがものすごく怒っていることだけははっきりしていた。
 そしてチップはといえば、最初はあっけにとられた様子だったがやがて横を向いて口を押さえ、とうとう耐え切れなくなったように声を立てて笑い出した。
 周囲は狐につままれたように三人を見守った。

 やがて憤慨して顔を真っ赤にしたフィレンザがようやく口を閉じたところで、チップがくすくすと笑いながらキャットを引き寄せた。
 腕を引かれてよろけたキャットの腰に腕を回したチップがイタリア語で何事かをフィレンザに告げた。
 フィレンザが目をむいてキャットの方へ一歩踏み込んだ。

「ねえ、ロビン。君からもドンナ・フィレンザに説明してくれないか。君の恋人はただ一人、僕しかいないって」
「えっ?」
 キャットが驚いてチップを見上げた。
「彼女は大切なルームメイトにちょっかいを出して泣かせる軽薄な王子をどう思うか豊かな語彙で批評してくれたよ。君にはちゃんと恋人がいるんだから誘惑するなってさ」
「えええーっ!?」
「これ以上の誤解を避けるためにも、例のルールは破らせてもらうよ、ロビン」
 チップはそう告げると、驚いて動きを止めたキャットに上から被さるように、大勢が見守る中でキスをした。

***

エピローグ

「あのねっ、フィレンザ」
「あのねっ、キャット」
 気まずい雰囲気を意に介さず、チップはキャットとフィレンザをテーブルに座らせると、三人分のランチを買いに二人を残して行ってしまった。

 今のうちにずっとできなかった告白をしなくてはいけない、そう思ったキャットが先に言い出した。
「言いづらくて隠したみたいになっちゃってごめんね」
 ともかくこれだけを一言で言ってしまったら、キャットはここ暫く鬱々としていた心がずいぶん軽くなった。
 フィレンザの方もキャットに告白した。
「キャットが誰かと付き合ってることはなんとなく気付いてたんだけど、殿下だとは思わなかったの。トラットリアで殿下があなたにウィンクしてたでしょ。あの後でキャットについていろいろ聞いていらしたし、この前、寮の近くであなたが殿下の車から降りるところを偶然見かけて……。昨日は昨日で部屋に戻ったらあなたは上掛けかぶって泣いてたし、私もう心配で……。てっきりあの時に気に入られちゃって口説かれてるんだと思い込んでしまって」
 フィレンザはすまなそうな顔で思い込みからきた暴走の言い訳をしたが、キャットはチップのウィンクが思わぬ誤解のきっかけだったと知って、気の抜けた笑い声をもらした。

 確かに、初対面だったら馴れ馴れしすぎるように見えたかもしれない。でもチップに初対面のような態度をとらせたのは自分だった。
 こういうのはやはり自業自得というんだろうか。

「最初に引き合わせた私のせいでキャットが困っているんじゃないかと責任を感じてたのよ。殿下は女性には、その……積極的だと聞いていたし」
「確かに僕は積極的にアプローチしてるけど、それが彼女を悩ませる心配はないよ」
 トレーを両手に一つづつ掲げたチップが戻ってきて茶々を入れた。
「彼女が僕をあしらえなくて困るなんてことは天地がひっくりかえってもないから安心して、ドンナ・フィレンザ」
「フライディ」
 キャットがむっとした声でそう呼んだ。チップがフィレンザににっこりと笑いかけた。
「ほらね、ご覧のとおり」

 フィレンザは二人の様子を見比べてから、キャットに向かってひとつの疑問を口にした。
「ねえ、どうして殿下のこと『金曜日』って呼んでるの?」
 キャットが答える前に、嬉しそうな顔をしたチップが割り込んだ。
「僕が彼女の下僕だからだよ、もちろん」
「フライディ!」
 フィレンザは抗議するように叫んだキャットとやたらに嬉しそうなチップを見比べて、やがて、ようやく安心したというようににっこりと微笑んだ。

end.(2009/06/18)
 
※イタリア語でドンは尊称、カルロはチャールズ(のイタリア語読み)です。ヴェルディのオペラのタイトルにもなっています。

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