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Necessity 4(おわり)

 約束の日、チップはキャットを連れてアンの父、ベンシングトン侯爵の屋敷を訪れた。取次ぎに出た執事が恐縮しながら言った。
「レディ・アンはただいまお見えになります。しばらくこちらでお待ち頂けますか」
「はい」
 その時は愛想よく答えたチップとキャットだが、それからもう三十分経っていた。

 紅茶のお湯を取替えにきた執事にチップが言った。
「先に庭を見せて頂いても宜しいでしょうか。レディ・アンには庭にいますとお伝え下さい」
 そう言ってチップは、キャットに腕を差し出すとテラスから外へ出た。
「どうしたの?」
「君が緊張して倒れそうだったからさ」
「フライディ!」
 怒ってみせたものの、ここまで来てしまったキャットは今になってアンに何と言えばいいのかと思ったり、待たされているのは訪問が不快だという遠まわしな意思表示なのかと思ったりして悩ましい時間を過ごしていたので、庭園を散歩して気分を変えられるのはありがたかった。

 国中の園芸好きが一度は来たいと願う庭園は確かに素晴らしかった。
 どちらかといえば人の手の入らない景色を好むキャットも、この庭は気にいった。どこか隅の方に住んでもいいと思ったくらいだ。
 実際には人が見ていない間に何人もの庭師が手を入れ、自然な風情を計算して作られたものだったが、目に入る景色はたまたまそうなった自然の妙にしか思えなかった。

 キャットが石垣に一輪だけ咲いた花を指した。
「あ、あんなところにも花が咲いてる」
「欲しい?」
 チップが小道から外れ、茂みの向こうへ踏み込んだ。キャットが慌てて追いかけた。
「駄目だよ、フライディ。よそのお庭の花を」
「なあに、君に捧げるためならたとえどんな険しい山に咲く花でも手に入れてみせる」
「駄目だったら」
 茂みを回り込んだキャットはチップの姿を捜した。
「わっ!」
「わっ!」
 突然出てきたチップに驚かされてキャットが悲鳴を上げた。
 怒るつもりだったのに、いたずらの成功を子供のように喜ぶチップが愛しくなったキャットは、怒る代わりに恋人の首に腕を回した。

 庭の奥に隠れてするキスはなんだか秘密の味がした。
 訪問の目的も、石垣に咲く花のことも忘れた二人の頭にはその時お互いのことしかなかった。

 小道から響く足音に気付いたキャットがぴくりと身じろぎした。
 チップはとっさにキャットをぎゅっと抱きしめ、頭を手で引き寄せた。
 キャットがチップの向こう脛を蹴ったが、それでもチップはキャットを解放しなかった。

 再び響いた足音とそれに続く呼びかけで、キャットの抵抗が急に止んだ。
 キャットだけでなくチップも固まった。
「アン」
「アーサー殿下!」
 こうしてチップ達はそのつもりなく立ち聞きをすることになった。

「話がある」
「申し訳ありません。お客さまをお待たせしているんです」
「待たせておけばいい」

「――もうお会いしないとお伝えしましたのに」
「いくら人を遣ってもらちがあかないから直接来た」
「最近約束のないお客さまばかり続いていると思ったら、やはり殿下がお寄越しになっていたんですね」
「当たり前だ。病気との長い戦いに粘り強く打ち勝った君が、今になって自分では王太子妃の重責を負えないと言い出した。私が君を誤解しているのかもしれないが、君がそういう理由で逃げ出す人だとは思えない。本当の理由が聞きたい。納得できればそれ以上追求するつもりはない」

 チップと、特にキャットは自分達が聞くべきでない話を聞いていると分かっていた。
 でもここで話を中断させたりしたら、二人はもう元に戻らないかもしれない。このまま立ち聞きを続けるしかなかった。……多少の好奇心があったことは否定しない。

「アン。本当の理由を」
 アートが繰り返した。
 しばらく続いた沈黙の後で、アンの溜息が聞こえた。

「病気になった私を見捨てることなく傍にいて下さったのは本当に紳士的で、責任感の強い殿下らしい振る舞いでした。でももう私は病気ではありません。普通の生活に戻ることができるんです。
 だから――離れて下さって構わないんです」
 アンの声は穏やかで優しかった。

「アーサー殿下。殿下には大切な役目があります。いずれは国王となられるのでしょう。もっと広くご覧になって、王太子妃に、そして未来の国王妃に一番ふさわしい方を選ぶべきです。その役目に必要なのはもっと若くて、健康な方ではありませんか?」
 キャットがチップの胸に埋もれるようにして続きを聞くまいとした。

 しかしアートの声はいつもよく通った。
「必要か。必要で言えば王太子妃はいなくてもいい」
「何を仰るんですか、殿下」
「弟達もいずれ結婚するから王位継承のためにどうしても息子をと望む必要もないし、本当に結婚する必要があるのか実はこの五年ずっと考えていた」
「……まさかそれで結婚問題を先送りになさっていたんですか?」
「そういう訳ではなかったが、君を利用したように聞こえたなら謝罪する」

 キャットが飛び出していきたそうに身じろぎした。
 チップが黙ってそのキャットを押さえ込んだ。

「君の考えは分かった。そう考えているのなら、これ以上言うことはない。病気が治って本当によかった。君の幸せを祈っている」
 アートが会話を打ち切るようにそう言った。

 揺るぎない足音が遠ざかっていく。

「アーサー殿下」
「何だ」
 名前を呼ばれ、立ち止まったアートにアンが言った。
「何故私にプロポーズなさったんですか。王太子妃は必要ないのでしょう」

 周囲の草木までしんと静まり、アートの次の言葉を待った。

「必要は、ない」
 キャットが再び身じろぎをした。
 チップはまたそれを押さえ込んだ。

 アートが言い換えた。
「必要だからじゃない」

 その時言葉以外に何が交わされたのか、チップ達は想像することしかできなかった。

 アンが口にしたのはたった一言だった。
「アーサー」

 乱れた足音が重なった。
 そこからはもう会話はなかった。

***

エピローグ

 チップが黙ってキャットの腕を取り、その場を離れようと促した。
 二人は地面を覆う草の芽を踏んでしまうことを申し訳なく思いながら、ずいぶん遠くまで離れてから道に戻った。

 最初に待たされた部屋へ戻ると、チップがそこに控えていた執事ににこやかに告げた。
「用事は済みましたので帰ります。兄とレディ・アンはまだしばらく庭で過ごすようです。戻った時のためにシャンパンを冷やしておいた方がいい。兄が好きですから」
 チップがそう告げると、どんな時にも感情を表に出さないのが本来の執事の目が輝いたように見えた。
 しかし全く表情の変わらないその顔を見ているうちにキャットは、一瞬前のあの輝きはただの想像だったのか、それとも本当に起こった出来事だったのかと自分を疑うことになった。

 執事はそのまま先に立ちチップ達を玄関まで慇懃(いんぎん)に送った。

「一緒に乾杯したいところだけど僕は運転しなくちゃいけないし、今顔を出したら多分池に落ちた時以上に怒られるからね」
 そううそぶいてチップがキャットをコンバーティブルの助手席に乗せ、自分も乗り込んだ。

 そして――屋敷が見えなくなるまで離れてから、二人はようやく我慢していた歓声をあげ鳥達を驚かせた。

end.(2009/11/05)

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