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Nothing Special 3

 釣り場には侍従達によって釣りの支度一式と日除け、それに冷たい飲み物があらかじめ用意されていた。
 さっき午餐を終えたばかりなので、軽食のピクニックバスケット(サンドイッチなし)が届くまで釣りをして、それからお茶にする予定になっていた。

 釣竿はちゃんと人数分あったがアンとベスは辞退し、堀の縁に並んだのは四兄弟とキャットの五人だった。
 アンとベスは日除けの下でくつろぎながら五人を見守っていた。

「ねえ、これは?」
「それは風で水面が波立ってるだけ」
 浮きが上下するたびにキャットは隣のチップに訊き、チップはそのたびに愛想良く答えてキャットを失望させた。
「それは?」
 キャットの声に自分の浮きに目を戻したチップが、片手でさっと竿を立てた。釣り上げられた魚が尾で水面を叩いた。
「タモ」
 言われるより早く玉網を用意したベンが魚をすくい上げていた。エドが水を入れたバケツを横から差し出し、チップが魚から針を外してバケツに落とした。
「すごいっ!」
 キャットがぱちぱちと拍手をして、チップが笑顔を向けた。
「息ぴったりだねっ!」
 褒められたのが釣りの腕前ではないと知って一瞬笑顔を凍らせたチップだったが、今度はエドが魚を釣り上げ、また玉網を差し出しかけたベンのところにも魚信(あたり)がきたのに気付いて、ベンに代わって玉網を取った。

 それからしばらく後、一人だけまだ魚信のこない浮きをただ見守るのに飽きてきたキャットが、チップに訊いた。
「ねえ、アートはお手伝い要らないの?」

 アートは兄弟達からは少し離れた場所で黙々と魚を釣り上げていた。玉網も自分一人で操っていた。
「大丈夫だろ。少しはハンデをつけてもらわないと逆に不公平だ。こっちは何年ぶりかも分からないくらいのブランクがあるっていうのに、アートは昨日の続きみたいな顔して釣ってるじゃないか」
 魚がいる気配はあるものの、一匹目を釣り上げてから魚信がこない浮きを横目でにらみながらチップが答えた。ベンが頷いた。
「ここなら思い立った時に一人ですぐ来られるから、アートはちょくちょく来ているな。お前は池に落ちて以来か?」

 ベンの最後の言葉を聞いて、キャットがぎゅっと心臓のあたりを押さえた。

 その時エドが言った。
「キャット、きてるんじゃない?」
 キャットは振り向いて竿を上げたが、水面に現れたのはきらりと光る針だけだった。
 キャットはがっかりして声を上げた。
「餌とられちゃった」
「よそ見しないでちゃんと見てないと。餌を取られるならいいけど魚が針を飲み込んだら可哀想だよ」
 妙に嬉しそうなエドに注意されキャットがうなだれた。それを見てエドがにんまりと笑った。
「昔から僕、言われるばっかりだったから嬉しいよ。ずっとキャットみたいな弟が欲しかったんだ」
 落ち込みからすばやく立ち直ったキャットが、エドに返事がわりの舌を出してみせた。

「いいわねえ」
 少し離れた場所でアンがつぶやいた。
「アンも仲間に入ったら? 私のことはどうぞお気遣いなく」
 ベスはあの兄弟との遊びには数々の嫌な思い出があったので、仲間に加わりたいなどとはちっとも思わなかったが、自分が一人残されるのをアンが気遣っているのかと心配して言った。

「いえ、そうじゃなくて。キャットはいつでも自然にしているなあと思って。……嫌ね、私さっきからキャットのことをうらやんでるみたいな言い方ばかり」
 そう言ってから、アンは小さく笑って続けた。
「またアートにたしなめられてしまうわ」
「アンが言いたいこと分かるわ。決して舌を出してみせたいというわけではないのよね」
 ベスとアンは顔を見合わせ、複雑な笑みを交わした。
 
 二人が身につけたマナーではあの兄弟の誰かに舌を出したり、人前で顔をつぶすような真似をしたり生意気な口調で言い返すことはありえない。マナーの点からいえば年下の女性であるキャットをからかうチップとエドが一番悪いのだが、キャットのふるまいを見て内心はらはらすることも多い。
 しかしそんな遠慮のない応酬の結果としてキャットは――知り合ってからの時間では一番短いというのに――下の王子二人だけでなく、時には上の二人からも五人目の兄弟として扱われるという特別なポジションに収まっていた。
 そんな身内扱いが時々うらやましくなるのは、ベスもアンも同じだった。

 二人が見守るうちにやっとキャットが念願の一匹目を釣り上げた。
 三人がかりで世話を焼いてもらう姿を見つめながら、アンが再びつぶやいた。

「私、きっと少し気後れしているのね。こうして四王子たちと一緒にいると私は――本当に私がここにいていいのかしらって、時々思ってしまうのよ。でもキャットはそんな風に見えないから……」
 そう言って、アンははっと我に返ってベスに詫びた。
「ベスは子供の頃から王子たちといるのが当たり前なのよね。ごめんなさい、こんなこと言われても困るわよね」
 ベスはアンの顔を見つめながらゆっくりと言った。
「そう思う? ずっとあの兄弟達のいとことして育って、私が気後れしなかったと思う? ……多分、キャットより私の方がアンの気持ちはずっとよく分かっていると思うわ」

 ベスは幼少時から生まれながらのプリンセスとして育ち、常に注目を浴びてきた。周囲からは何不自由なく育ったように見えていた筈だ。
 しかし生まれたときから傍にいた同じ年のチップにその場の主役をさらわれ続け、四王子の存在に圧倒されてきたベスの、自分に対する評価は周囲からのものと違っていた。

 もう少しいとこたちと年が離れていたら、ベスも今のキャットのようなポジションにつけたのかもしれない。が、成長期の彼らに混ざるにはベスは淑やかすぎた。
 共に大きくなったあの頃はまだアートとベン二人がかりで弟達を従わせていたし、下の二人が暴れれば誰もおとなしいベスのことなんて気にもしてくれなかった。ベス自身、そんな騒ぎに巻き込まれるのは御免だった。
 自分以外にも女の子がいてくれたらとベスは何度願ったかわからなかった。ベスにとってはアンこそが長年願った自分と同じ側に立つ仲間だった。

 チップとの長年のわだかまりは婚約解消をきっかけに少しずつほぐれてきたものの、いとこ達に比べて自分だけが地味でつまらない存在だと感じていたあの頃の記憶がベスの心から全て消えることはきっとないだろう。
 ベスがエドと付き合って良かったと思うことは数え切れないほどあるが、そのうちの一つは、兄達に同じような思いを抱いていたエドと幼い頃の思い出を語り合えることだった。
 そういう相手がいないまま輪に加わったアンは、ベスに分かると言ってもらって意外そうで……でも明らかにほっとしていた。

 ベスにはアンが言わなかったことまで想像できた。王太子の婚約者という立場では同性の友人に愚痴をこぼしても嫌味にとられたり、歪んで伝わる恐れがある。
 かといって婚約を喜んでいる家族やアート本人に、今この時期に気後れするとは言いにくいだろう。そもそも男性、特にアートのようなタイプは『時々そう思ってしまう』というような曖昧な悩みを打ち明けるのには向かない。
 
「こんなことではいけないと分かっているのだけど、最近、人前に出る機会が増えてきたから余計に色々と意識してしまって。病気もあって長くひきこもっていたから、自分でも垢抜けないなと思うの。……私もうちの母もベストドレッサーというタイプではないしね」
 アンが苦笑し、ベスはあいまいな微笑を返した。
 
 確かに社交界にはベストドレッサーやファッションリーダーと言われる女性達がいる。彼女達はマスメディアにも多く登場するから社交界といえば華やかなイメージが先行しているが、実際にはそういった女性達は社交界でもごく一握りだし、彼女達の中に貴族は少ない。

 アンが属する貴族社会の基本的な考え方は『いかに財産を減らさずに子孫に伝えるか』だ。
 もちろん上質であることが第一だが、その場にふさわしく、なるべく長く着られて人々の印象に残りにくい服を選ぶことは貴族のたしなみといっても良かった。
 典型的な貴族であるアンの母、ベンシングトン侯爵夫人がベストドレッサーでないからといって、娘にそれを嘆かれる謂れはない。ベス自身もまた貴族の一員でもあるからそれはよく分かる。

 しかし王室の一員となるとそれだけでは済まなくなる。
 国の代表として外に出る機会の多い王室メンバー、特に王太子妃ともなれば、自国のデザイナーの服をできることなら上手く着こなして、夫である王太子、ひいては国の印象を良くしてほしいという周囲からの無言のプレッシャーがあり、そのための予算も付いている。
 それがアンを余計に気後れさせているのだろう。
 
 そのあたりの内情と、王室内外からの無言のプレッシャーの息苦しさは、ベス自身もよく知っているものだった。

 だからこそ、もしアンの気後れの原因の一つにそのプレッシャーがあるのだとしたら、ベスは同じ側に立つ仲間の力になるべきだと考えた。

「アン、差し出がましいと思われるかもしれないけど――」
 

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