Nothing Special 4
結局、アートが八匹、ベンとチップとエドはその半分以下しか釣れず、キャットに至ってはわずか一匹だったが、初めての魚釣り、初めての釣果にキャットは大喜びだった。
皆でお茶を飲みながらキャットはアンとベスにその興奮を語った。
「二人も一緒に釣ればよかったのに! まだ魚が釣れた時の重さが手に残ってるみたいな気がするの! あの唇に針をかけて釣り上げるのはちょっと可哀想だったけど、本当に楽しかったよ!」
「魚は痛点が少ないから痛くはないらしい。異説もあるが」
本が好きなだけあって色々なことに詳しいベンが言った。
チップがエドを嬉しそうに振り向いた。
「エドは小物ばっかりだったな」
「しょうがないじゃないか。僕が下手なのはチップのせいだよ。チップが冬に池に落ちたりしたせいで、僕は夏以外水辺に近づいちゃいけないって言われてあんまり釣りができなかったんだからね」
キャットが再び心臓のあたりを押さえて俯いた。
その時アートがぴしりと言った。
「言い訳するな。お前にはベンやチップに教えたのと同じようにちゃんと教えてある」
驚いて顔を上げたキャットは子供のように目を丸くして、真っ直ぐにアートを見つめた。
「アートが皆に教えたの?」
「ああ」
「本当はいいお兄ちゃんだったんだ!」
褒めたとは受け取りにくい言葉に、アートは返事に困るという顔をし、ベンは笑みをもらし、チップとエドは口々に異議を唱えてきた。しかしキャットはろくに聞いていなかった。
短く言い切る話し方やすぐ眉を寄せる癖もあり、きつくて他人に厳しい人だと思っていたアートに、実は面倒見のいいお兄ちゃんらしい面もあるのだと気付いた途端、キャットの心の中でアートのイメージが変わった。
以前にチップから聞いた『アートと最後に遊んだ日』の印象が強烈過ぎたためにキャットは今の今まで気付かなかったが、最後の日よりも前にこの兄弟には一緒に遊んだ思い出が沢山あって、その中できっとアートは頼りになる兄だったのだ。
最初から冷たい兄だと思っていれば、チップはあの時にそんなには傷つかなかった筈だった。
キャットは、いつかもっとアートと親しくなったら、チップが池に落ちた時の話を聞いてみようと思った。
さっきたった一言で大きくアートのイメージが変わったように、アート側の話を聞けばきっと同じ話がまた違った印象をもつだろうと思えた。
そしてキャットは、その時にはチップの兄であるアートをもっと好きになれるような予感がした。
お茶を終えて皆で戻る道のことだった。
考えごとをしながら歩いていたキャットに、チップが声をかけた。
「キャット」
顔を上げたキャットの髪に、チップは通りすがりに摘んだばかりの花を差した。
「よく似合う。可愛いよ」
物思いから覚めたキャットが見る見るうちに耳まで赤くなった。
アートとエドは迷惑そうに目をそらし、ベンはいつものように我関せずという様子だったが、何故かアンとベスの女性二人はキャットと一緒に赤くなっていた。
キャットはいきなり勢いよくチップに抱きついた。
不意をつかれたチップが少しよろけて言った。
「こら、牛みたいに体当たりするはやめろよ」
「うしっ? 今私のこと牛って言った!?」
さっきキャットに可愛いと言ったのと同じ口から出た言葉を、キャットが繰り返した。
同じように赤い顔をしてはいるが、少し前までの熱に浮かされたような表情はもうない。
そんな恋人の変化に気づいても、そこで止まるチップではなかった。恋人の憤慨に嬉々として燃料を注ぎ込む。
「知らない? 牛は気に入った相手に体当たりをするんだよ」
「もうっ……もうもうっ! フライディなんてっ!」
言葉に詰まったキャットにチップが朗らかに訊いた。
「大嫌い?」
キャットは怒りに任せて首を大きく横に振ってから叫んだ。
「嫌いじゃないから腹が立つのよっ!」
とたんにチップが真顔になった。
次の瞬間、彼は自分の肩にキャットをすくいあげた。
「ちょっと寄り道していく」
チップは一応そう言い残したが、誰もその背中に返事をせず、最初から二人がいなかったように話題を変えてその場を離れた。
アンはアートに遅れまいと早足になりながら、まだ内心どきどきしていた。
見ているだけで熱にあてられてしまった。若い恋人達の姿はただ眩しかった。
あんな風に持ち上げられたり落とされたり、恋人の一言一言に翻弄される恋がしたいわけではない。
三十三になったアンにはあんな感情の振り幅の大きな恋愛は負担になる。もっと穏やかな方がいい。
でも全身でぶつかる(比喩としても言葉どおりの意味でも)キャットのひたむきな情熱をうらやましく感じたのは事実だった。
アンはキャットの歳だった頃もあんな風に全身でぶつかることはできなかったけれど、もしかしたらそうできたかもしれない時代を通り過ぎたことを、ほんの少し寂しく思った。
今のアンがもし体当たりで愛情を示したりしても、二人でどこかへいなくなる代わりに、真顔のアートにどうしたのかと心配されるのがおちだろう。
やがて遅れて戻ってきた二人を、アンは今までと少し違う目で見た。
十八という年齢よりやや子供っぽいキャットをチップがからかうのは、背中の毛を逆立てて大きな犬に立ち向かう子猫のようで微笑ましいからだろうとアンはずっと思っていた。
確かにそれも真実の一端ではあるのだろうけれど――先程の様子からは、チップのからかいは、あの火花が散るような愛情を確かめるためではないかとも思えた。
チップは他人から好意や賞賛を示されるのにも、恋のかけひきにも慣れているだろう。けれど、いや、それだからこそあれだけ真っ直ぐな気持ちをぶつけてくれる相手がどんなに少ないかも分かっているのだろう。
アートから、チップが十六の少女と付き合いだしたと聞いた時には驚いたものだけれど、キャットが大人になるまで待てなかったチップの気持ちは分からなくもなかった。
ちらりと少し前を歩くアートを見て、ふとアンは考えた。
――――アートは絶対にしないだろうけれど、恋人に髪に花を飾られるのってどんな気持ちなんだろう、と。
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