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孤島のシンデレラ 3(おわり)

 動悸と乱れた呼吸が元に戻るまでの間、キャットはチップの肩に自分の頬を寄せていた。

 チップの首筋の血管が脈打つのを視線でなぞりながら、キャットが訊いた。
「ああいう本、まだある?」
「王室の広報担当部署がネットや出版情報をチェックしてる。王室のイメージを損ねるような過剰なネガティブキャンペーンが続くようなら、対抗策を講じている」

「フライディもチェックしてるの?」
「基本的にはしない。今回は君個人を特定する情報が他に入ってないか気になったから特別」
 キャットの背筋を寒気が走った。
 ヒロインの外見がキャットと似ていたのは、やはり偶然ではなかったらしい。

「あれでヒロインがもし王立大学に通う留学生だったり、寮に住んでるなんて設定が入っていたとしたら、例え偶然の一致だったとしてもひとこと言うつもりだったけど」
 キャットはチップの頬にキスをした。
 チップがキャットの額にキスを返した。
「いいよ、私のことは」
「よくない。僕はともかく、君は公人じゃない」
 キャットがチップの唇をふさいだ。
 唇が離れるとチップが言った。
「ねえロビン、今すぐ結婚しよう」
 キャットはもう一度チップの唇をふさいだ。
 チップも分かりきった返事を聞くのはやめて、目先の楽しみを優先した。
 
 さっき治まった筈の動悸と呼吸の乱れを再び落ち着けようと元のポジションに頭を戻したキャットが、不意に笑い声を立ててから言った。
「ねえ。フライディが島で最初に教えてくれたのが歯磨きの仕方だったって言ったら、あの作者がっかりするかな」
 それを聞いたチップも笑った。
「きっとろくに調べないで書いてるんだろ。軍の連中があれを読んだら大笑いするだろうな。あの作者は一度サバイバルスクールに体験入学でもして、人間が道具なしでどんなことができるか学ぶべきだよ」
「火をおこすのは苦手だったけどね」
 いつもの元気を取り戻してきたキャットが、ちくりとチップのプライドを刺激した。チップは反射的に言い返していた。
「うるさいな、君だってできなかったじゃないか」
「だって私は、サバイバル訓練受けたわけじゃないもん」
 調子に乗って生意気を言うキャットに、チップが人の悪そうな笑顔を向けた。
「何かひとつくらいは出来ないことがないと、完璧な人間って嫌味っぽくなるだろう?」
 
 言い返すかと思ったキャットが無言で顔いっぱいの笑顔になったので、チップはいぶかしげな顔をした。
「何を笑ってるんだよ、ロビン」
「フライディのこと大好きだなって思って見てただけ」
 返事に詰まったチップの首に、キャットがぎゅうっと抱きついた。
「ありがとう、フライディ。元気になったから」
 次の言葉はチップと声が揃った。
 
「帰る」
「『帰る』、だろ?」
 
 キャットは困ったような顔で笑った。
 あきらめ顔のチップが続けた。

「例の『だってフライディ忙しいんでしょう』は言わなくていいよ。代わりに気持ちを込めて『今夜はあなたの夢を見るわ、愛しいハニー』って言ってくれたら帰してあげる」
 
 口にするまでは、とても簡単なことのようにキャットには思えた。
 
「『今夜はあなたの夢を見るわ』」
 いかにも言わされてる感の漂う口調でキャットは前半は何とかこなしたが、人の悪そうな笑顔が目の前で待ち構えているのを意識すると、続きが口から出てこなくなった。
「ほら、その後は?」
「ちょっと待ってよ。急かさないで。今言うから」
「『愛しいハニー』だよ」
 裏声のプロンプトに変なツボを刺激され、キャットが噴きだした。
「ちゃんと言わないと帰さないよ」
「だって……あの軍服姿とか……初めて会った時の顔とか思い出したら……もう無理っ! 絶対無理っ!」
「泊まっていくってことでいい?」
「待って……大丈夫、言うから……『愛しい』」
 そこでキャットはまた噴きだした。こうなってしまうとしばらくは元に戻らない。
 
「じゃあゲストルームへ」
 そう言ってキャットを抱き上げ肩に担いだチップは、ゲストルームの代わりに玄関に向かい、手の一振りで魔法のように運転手つきの車を用意させた。
 喉をひくひくさせながら笑いをこらえるキャットを、チップは丁寧に後部座席に下ろした。

 キャットがチップの耳許で甘えた声を出した。
「嘘つき。ゲストルームって言ってたのに」
「僕は嘘つきだからね」
「知ってる」
 王室のお抱え運転手は車の一部になりきって存在を消していた。
「でもまだ帰すとは言ってないよ」
 にやりとしたチップは、キャットをからかうためならもう一度部屋までキャットを連れ戻しそうだった。
 
 世界中に、チップ以上にキャットをはらはらさせたりわくわくさせたり振り回す人が存在するとは思えなかった。
 あの島で二人が出会えたのは奇跡だった。
 
 キャットがとろけるような笑顔で言った。
「あのね、宇宙よりもっと愛してる。夢なんて何度見たか分からない」
「今日のところはそれで勘弁しておくよ。『愛しいハニー』」
 
 久しぶりの短い逢瀬の最後にもかかわらず、二人の別れのキスは笑顔で、正確には噴きだすのをこらえながらのものになった。 
 
end.(2011/07/23)
 
注:作中に登場する小説は私がテキトーにでっちあげたもので、実在する、または今後発表されるかもしれない同タイトルの作品とは一切関連がありません。

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