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あと一ヶ月、あと三年 1

あと一ヶ月
 
「殿下、視線をもう少し上へ。レディ・アンはもう少し微笑んで下さい」
 シャッター音は続いている。
 アンは最初その音にいちいち緊張していたが、今はいつが撮られていないのかも分からなくなってきていた。
 王宮内の一室での公式写真撮影は、もう一時間も続いていた。
 
「殿下。にっこり笑えとは言いませんから、カメラのこちら側にレディ・アンがいらっしゃると思ってこちらを見てください」
「アンはここにいる」
 公式記録係のワイズマンとアートのやりとりに、アンが思わずくすりと笑った。
 その表情を捉えようとシャッター音が連続して響く。
「あとどれくらい撮るんだ」
「殿下が笑って下さればすぐ終わりますよ」
「百年前は笑顔の公式写真なんかなかった」
「シャッタースピードが長かったからですよ。三十分も同じ顔で笑っているなんて、プロのモデルじゃなきゃ無理ですから。今は三十秒もかかりませんよ。ほら殿下、また眉根が寄ってます」
 少年時代からアートの写真を撮り続けているというワイズマンは、なかなか笑顔を見せないアートに遠慮がなかった。
 アンが知っている限り、満面の笑みを浮かべたアートの公式写真というものはない。
 一応笑顔らしいものを浮かべてはいるが、あの写真を撮るためにワイズマンはいったい何時間こうして撮影したのだろう、とアンは思った。
 
「少し休憩しましょう」
 ワイズマンの言葉で、アンが緊張を解いて軽く首を振った。アートがアンに声をかけた。
「疲れただろう」
「それほどは」
 初めてアンが公式写真の撮影をしたのは、婚約が発表された半年前だった。その時に比べたら、こういった撮影にも慣れてきた。
「式のリハーサルもあったし」
「私は今日だけですもの」
 アンは隣に座るアートを見上げて微笑んでみせた。
 幼い頃からカメラを向けられることに慣れているとはいえアートだって疲れてはいるはずだが、アートの方はいつもの通り疲れを表に出したりはしていなかった。
 
 一ヵ月後の結婚式と世界の半分を回るハネムーンに向けて、アートの公務の中で弟達に振り分けられるものは分けて減らされていた。しかしアートの摂政という役職はもともとが国王の代行だから、玉突きのように更に誰かに代行させるわけにはいかなかった。
 アートは忙しい。婚約者であるアンと会う予定すら時間刻みだ。
 今日は朝九時から結婚式のリハーサルを行い、昼食の間だけは二人にしてもらえたものの、午後一時から三時まではこの撮影、その後はまた細かい打合せが入っていた。
 最近アンは改めて、五年間アートが見舞いに通い続けてくれたことの意味と、その価値を感じていた。
 
「何か飲み物をもらおう」
 アートが傍にいるスタッフに目を向けた。魔法のようにティーワゴンが運ばれ、アートの好きな濃さの紅茶がサーブされた。アートはひとつ頷いて受け取った。
 王太子のために周囲が動くのは当然のことだ。それだけの義務と責任を引き受けている。
 婚約までの二人はどこかに出かけたりすることもなく、アートがアンの屋敷や病室を訪れるだけだったから、アンは婚約してからの半年で公の場にいる時のアートを改めて知ることになった。
 とはいえ、そこに意外性はない。アンが知っている通りアートは言葉数が少なくて、笑顔が少なくて、頑丈で、義務に忠実で……面倒見が良くてとても優しい。
 アートが無言でアンにクッキーを乗せた皿を差し出した。アンはそれを受け取りながら、アートにだけ聞こえる声で言った。
「一日ずっと一緒にいられるのは久しぶりだから、嬉しい」
 アンの微笑につられるように、アートが微笑んだ。
 
 紅茶を飲み終わったアートが、ワイズマンに声をかけた。
「そろそろ始めていい」
 ワイズマンがアートにではなく、隣のアンに向かって言った。
「どうやって殿下を微笑ませたんですか。プリンセスになられるんじゃなければ、アシスタントにスカウトしたかったなぁ」
 ふっ、とアートが頬をゆるめた。アンも微笑んだ。
 
 二人を包む幸せな空気まで残さず捉えようと、ワイズマンはカメラを連写モードに切り替えた。
 

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